四 夕焼けの湖(吟遊詩人視点)
砂漠を超えてこの森に入ってから、夕暮れ時は毎日怖いくらいに空が燃えている。
「火の神域が近いのだ」
賢者がなぜか、マントの裾から少しはみ出している吟遊詩人の翅の先をじっと見ながら言った。
「ゴドナ火山の火口には、『聖炎ラガ』と呼ばれる真紅の炎が常に灯っている。そこは気の神域と同様に沈むことのない夕陽で照らされ続けているが、ウルグの棲む夜の外側が風の森と呼ばれているように、周辺の土地も神域の恩恵を受ける」
黙って聞いていると、賢者は吟遊詩人を見下ろして、ほとんどわからないくらいに少しだけ表情を和らげた。頰のあたりは全く動かないけれど、ほんの少しだけ目を細め、蟻一匹分くらい唇の端が持ち上がるのがこの人の微笑み方なのだ。勇者は「最近笑顔が優しくなったよな」とか言っていたが、それはよくわからない。ただ頻度は少し増えたと思うし、こうして話している間にも彼のマントの端を魔法使いが握っていたりして、かなり威厳はなくなったと思う。
「故に恐れることはない。祝福豊かな夕焼けは力ある色彩をしているが、火の愛し子の友である我々にとっては、ただ心強い祝福の光でしかない」
「……うん」
そう言われると、なんだか手に入れたばかりの翅に夕陽を浴びたい気分になってきた。マントを脱ぐと、背中の上の方が少しひやっとする。
最初は寒くないようにと、チュニックの背中に切り込みを入れるだけだったのだ。しかし、この翅は自由に動かせるといっても腕のように曲がるわけではない。感覚も根元にしかなくて大変着るのが難しかったので、結局書架の国のドレスのように背中が大きく開いた形に縫い直してもらったのだ。賢者が型紙を作り、神官がにこにこしながら縫ってくれたのだが、肩がずり落ちないように首の後ろで結ぶリボンがついていて、正直あんまり気に入っていない。皆は似合う似合うと喜んでいたが、これではどう見ても女装ではないか。
「おっ、飛ぶのか?」
脱いだマントを畳んで腕に掛けていると、勇者が嬉しそうな声を上げた。彼は吟遊詩人が飛ぶのを見るのが大変面白いようで、毎朝練習をしていると必ず駆け寄ってきて、瞳を空色にキラキラさせながらそれを眺めるのだ。
「今はそんなつもりなかったけど……勇者が見たいなら、ちょっとくらい飛んでもいいよ」
「見たい!」
「……そっか、わかった」
彼がこんな風に反応するから、まだ時々不安になることはあれど、妖精の翅は吟遊詩人の中で密かな自慢になっていた。魔法使いにだけはそれを打ち明けたが、花の妖精は優しく微笑んで──このエルフの場合は唇を僅かに開いて耳を蟻三匹分くらい寝かせるのがいつもの笑顔で、特別嬉しい時を除けばやはり顔の筋肉など使っていない──吟遊詩人の頭を撫でると「君は宝石の妖精なのだから、自分の翅にきちんと誇りを抱いていれば、翅は更に美しく輝くはずだよ」と言ってくれた。
夕陽に向かって大きく翅を広げると、金色の空から降り注ぐ火の気配が触れて、実際の温度よりもかなり暖かく感じた。それが気持ち良くて歩きながらうっとりしていると、少しびっくりしたような顔というか気配をした賢者に「翅を見てみなさい」と言われて振り返る。
そして、思わず目を丸くした。窓ガラスに映った暖炉の炎をずっと鮮やかに明るくしたような透明な赤い光が、翅の中で燃えるように踊っていたからだ。翅をひらひらさせると、橙色の光が火の粉のようにパッと散る。吟遊詩人の魔力の中に火のそれはほんの少ししか含まれていないが、神域が近いこの土地の中、宝石のような翅の中に限っては、紅色の祝福が大きく燃え上がっているようだ。
「──うわ、凄いよ! ねえ賢者、ほら見てっ! 綺麗だね!」
「待ちなさい!」
急に自分でも制御できない楽しさが込み上げて賢者に飛びつくと、彼が珍しく焦った声を上げて、よろめきながらなんとか吟遊詩人を抱きとめた。気づかぬうちに翅を広げて少し飛んでいたらしく、上から飛び掛かったせいで子供のように抱きかかえられて急に恥ずかしくなる。
「ご、ごめん! いま僕、ちょっと急に、あの、楽しくなって」
「暴れるな! 落ちるぞ」
「何やってんだよ、お前ら」
バタバタよろよろしていると、爆笑している勇者がひょいと賢者の腕から吟遊詩人を片手で抱き取ってくれた。伝令鳥を止まらせるように持ち上げた上腕に座らせられたが、流石にびくともしない。
「おお、これ妖精っぽくて良いな……後でさ、魔法使いと並んで木の枝に座ってみてくれよ。絶対童話の挿絵みたいになるぞ」
勇者は楽しそうに笑って「ほら、湖の上を一周してこい」と大きく腕を振って吟遊詩人を宙に放り出した。慌てて激しく羽ばたくと勇者の頭のあたりに静止し、怒って振り返る。
「ちょっと! 僕は鳥じゃないよ!」
「うん、蜂だろ?」
「人だよ! あっ、人じゃなかった。妖精だよ!」
「うん」
頷いた勇者の眼差しがあんまり優しくて居心地悪くなった吟遊詩人は、肩に掛けていたリュートの鞄を彼に押しつけるとそのまま湖の方へ飛び出した。羽化の前後に動揺して泣き喚いたのをかなり深刻に捉えたらしい仲間達は、吟遊詩人が妖精の自分を受け入れているような言動をするとあからさまにホッとした顔をするのだ。それが少し鬱陶しくて、つい不機嫌な顔をしてしまう。
翅はすっかり背に馴染んで、腕が一組増えたような違和感はもうほとんどなくなっていた。飛びたいと思うと翅が広がり、上へと願うと自然に羽ばたける。翅には神経が通っていないようだが、髪が
低く飛びながら手を伸ばし、金色に光っている水面に触れる。小さな波紋が糸を引くように連なってキラキラするのが楽しくて、吟遊詩人はいつしか小さく歌いながら光の粉を引き連れて飛び回った。
今日の夕陽は何の色?
お日さまの光から
一番キラキラなところを集めた
眩しいくらいの金色さ
浄化の炎にちょっと似てる
暗闇を希望に……ん?
向こう岸に不思議な生き物を見つけた吟遊詩人は、即興の歌をやめてきょとんと目を丸くした。
「なんだあれ?」
パッと振り返って、こちらを見ていた魔法使いに激しく手招きしてから、速度を上げて馬のような何かに向かって飛んだ。
「こんにちは、馬さん! ねえねえ、どうして翼があるの?」
そいつの周囲をくるくる飛び回りつつ満面の笑みで話しかけてから、ハッと我に返って人間の心を取り戻した。へなへなと地面に降り立って自己嫌悪に項垂れていると、ぴちゃぴちゃと小さな音がして振り返る。魔法使いが湖面を走ってやってきて、吟遊詩人の背中をじっと見ると「どうして悲しくなってしまったの?」と首を傾げた。
「魔法使い……」
「よしよし、かわいそうに」
魔法使いは吟遊詩人の髪を撫で回してぼさぼさにすると、近寄ってきた馬の鼻筋にそっと触れた。相変わらずこのエルフは、動きも口調ものんびりしているのに立っているだけでこの世のものならぬ美しさで、少しも人間らしく振る舞おうとしていない姿を見ると少し安心する。
「翼があるね……鳥なのかな」
「いや、馬でしょ」
「馬……」
灰色に白の
「飛ぶの?」
魔法使いが優しく尋ねると、視線から言いたいことを何となく悟ったらしい翼馬がゆっくりと大きな翼を広げた。体と同じ灰色と白の斑で、フクロウの翼のような感じだ。
「うん、綺麗だね」
翼を広げると一気に大きくなったように見える。ばさりとやわらかい音をさせて翼を
「魔法使い、賢者が来たよ」
馬を驚かせないように囁くと、魔法使いがふわっと嬉しそうに微笑んだ。淡くはあるもののきちんと笑顔になっている、思わずうっとり抱きしめてしまいたくなるような微笑だ。にんまりしながら賢者の方を振り返ると、案の定神官と会話しながらもどこかぼうっと魅了されたような顔でエルフを見つめている。勇者がどうもなっていないので、漏れている魔力はそれほど強くないはずだ。つまり魔法ではなく、ただその笑顔に心奪われてしまっているだけだろう。
エルフが側にいるおかげで仲間が合流してもそれほど怯えなかった翼馬は、その後「乗るか?」みたいな感じで耳を動かし、どうやら吟遊詩人を背に乗せて飛んでくれるつもりだったらしい。しかし彼が背に乗るとひとしきり翼をバタバタさせて、羽の先が
「ありがと、こんなに大きな翼があるのに脚も速いんだね」
野生の裸馬に乗るのは難しくて実は結構怖かったが、そう言って褒めると自慢げに尻尾を振る。なんだか仕草が一角獣のレタに似ている気がするなと思いながら背から降りると、彼は湖に向かって走り出しながら翼を広げた。
助走をつけて舞い上がった翼馬は、宙を駆けるように脚を動かしながら湖の上をゆっくり飛んだ。フェアリの飛翔に比べて小回りが利かなさそうだが、とても力強くて優雅だ。
「乗って飛べないのか……」
勇者がものすごく残念そうに言うので、ひとつ思いついて「手、貸して」と言う。やたらあったかい手を握って飛び立つと、勇者の足がふわりと地面を離れて──という感じにならないかと思ったが、ただ吟遊詩人が懸命に引っ張っているだけで少しも持ち上がらなかった。
「気持ちは嬉しいけどさ……流石に無理だろ」
「だって、だって魔法で飛んでるって、賢者が言ってたから」
「そっかそっか、よしよし……降りておいで」
勇者の態度に腹が立ったので頭の上に座ってやると、少しも重くなさそうに「はは、懐いた懐いた」と笑っている。
妖精の自分は気に入っていたが、こうして仲間達から今まで以上に子供扱いされるようになってしまったのは少し不満だった。羽が生えてから少しの刺激ですぐ楽しくなってしまうようになったが、あまりはしゃぎすぎないように気をつけようと思った。
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