六 貴方のもとへ



 勇者が何度言い聞かせても魔竜はどす黒いかすみを食うのをやめなかったので、顔をしかめると魔法使いを抱えて飛び降りる。妖精が駆けていって恋人に抱きついたのを確認すると、聖剣を地面に突き立てて全てを焼いた。もう魔力はほとんど残っていなかったが、指先ほどの小さな炎を静かに広げるだけならば、不思議なことにそれほど力を必要としないのだ。神殿長も、ルザレも、ラダも、オーク達も、全てが金色の光の粒になって跡形もなく消える。ご機嫌に飛び回る黒い竜と仲間達だけが、その場に残った。


「……終わった? 終わったよね?」


 リュートの鞄をぎゅうと抱きしめた吟遊詩人が周囲を見回し、もうどこにも敵の気配がないことを確かめると、よろよろと地面に座り込んだ。そのまま膝に顔を押しつけてくすんと泣き声を上げたのを見て、魔法使いがそっと抱き上げると「よしよし……」と言いながら赤ん坊のように上下に揺すった。


「やめてよ、赤ちゃんじゃないよ」

「うん……かわいい子犬だね」

「子犬でもないよ!」

「魔法使い、お前は大丈夫だったんだな」


 頭上の魔竜をちらちら気にしながら、勇者は魔法使いに言った。黒い竜は淀みが浄化されてしまったからか、ぐるぐると何周か上空を旋回して辺りの匂いを嗅ぐと、つまらなさそうに北へ向かって飛んで行った。やはりあいつは、淀みを食べる生き物なんだろうか。


「うん……だってルーフルーが僕のものになったもの。ルーフルーさえいれば、僕はもう何も怖くないよ」

「そ、そうか」


 淀みに弱く繊細な感性を持っていると思っていたエルフだが、どうやら今の彼は目の前で人が惨殺されようがオークの群れに襲われようがびくともしないらしい。やっぱり変な奴だなあと笑っていると、腕の傷に布を巻きつけながらフラノが歩いてきた。


「おい、大丈夫か? ロサラスに癒してもらったらいい」

「……いや」


 声が小さい。神官へ気遣うような視線を投げているところを見ると大きな術を使って消耗している彼に遠慮したのだろうが、戦闘中は結構しっかり喋っていたフラノはどうやら元の引っ込み思案に戻ってしまったようだ。


「まあ、お前が平気ならいいけど……やったな、フラノ」

 神殿長を倒したし、双子もルファも取り戻した。そんな喜びを込めて拳を突き出すと、フラノもゆっくりと握った拳を持ち上げて、優しく勇者のそれに触れさせた。


「いや、弱々しいな……もうちょっとガツンってぶつけるんだよ」

「……なぜ」

「なぜってそりゃ、なんか……なんでだろう」

 首を傾げると、金色の瞳がふっと微笑んだ。血のような赤から淀みが晴れて透き通る青紫に変わった夕暮れ時、今は穏やかな目が魔法の明かりに照らされて月のように輝いている。そういえば魔法使いが彼を呼ぶ時の「フルーン」はエルフ語で「金色の満月」だったと思い出して、なるほどなと思う。


「お前、初めてちゃんと笑ったな」

「……そうか」


 勇者としては嬉しさを込めて言ったつもりなのだが、大した反応は帰ってこなかった。やっぱりこいつも妖精みたいな意味不明さがあるなと思って呆れていると、フラノが口を開く。


「針葉樹……友よ、またいつかどこかで」

「え?」


 どうしたと尋ねる間もなく、突然マントを翻してフラノが森の奥へと駆け出した。見るといつの間にか荷物まで背負っている。その後を、こちらをちらりと見て微笑んだライがさっと立ち上がって追いかけた。


「おいフラノ! ライ! どこ行くんだ!」

 呼びかけるが、振り返りもせずに二人は木々の向こうに消えた。ぽかんと口を開けながらそれを見送って、ゆっくり仲間達に顔を向ける。


「……え? なんで逃げてったんだ、あいつ……たくさん喋って恥ずかしくなったのか?」

 ブッと息を吹き出す音が聞こえて見れば、体を起こしたローリアが腹を抱えて笑っていた。


「ローリア! お前、大丈夫なのか」

 駆け寄った監察者の隣で水を飲んでいた神官が、疲れた様子で顔を上げた。

「それはもちろん大丈夫ですよ。脳がかなり損傷していましたので、記憶に欠けは出るかもしれませんが」


 腕を組むと「そんなに心配そうな顔をして……私がいるんですよ?」と少し拗ねたように言う。するとローリアも笑いながら頷いて「うむ、問題ない。流石に死んだかと思ったが、まさか眼球まで完全に復元されるとはな、恐れ入った」と言った。


 女性神官らしからぬ胡座をかいた姿勢で「ほれ、この通りだ」と布を捲って顔を見せたローリアがエルフばりに整った顔をしていて面食らったが、その顔にも明るい菫色の瞳にも傷ひとつないのを見て安心する。


「で、フラノ達がどっか行っちまったんだが」

「うむ……恥じらい故ではないと思うが」

 話を戻すと、目を覚ましたらしく呻いて体を起こそうとしているローイルに手を貸してやりながらローリアがまた笑った。


「気分はどうだ、ローイル」

「……貧血だな。喉に違和感はない」

 勇者の問いに、ローイルが頭に手を当てて呻きながら答えた。神官が「造血剤を投与していますから、もうしばらく安静にしていれば気分が良くなってきますよ」と微笑む。


「はあ……隙を突かれた。全て終わったのだろうか? フラノとライの姿が見当たらぬが、無事か?」

「うん、あいつら急に駆け出してどっか行っちまったんだ」

「ふむ……生真面目なことだな、全く」

「どういうことだ?」


 ふらふらしながらもローイルが話してくれたところによると、どうやら監察者や破壊者を傷つけ意識を奪った者をその場で殲滅したところで、神殿の決めごとの上では異端にならないらしい。それを聞いてほっとしていると、彼は続けて言った。


「それを第一審問官であるフラノが理解していないはずもないし、罰を恐れて逃亡するような男でもない。ただ……現在の神殿は嘆かわしいことにダナエスの信望者ばかりだ。ほとんど信仰の対象になりかけていたあやつを弑した己が新たな指導者としてファーリアスの隣に立つのは、復興の妨げになると考えたのだろう」

「……そんなもんか?」

「それが『神殿最強』で『沈黙の炎』と呼ばれる彼でなければそうかもしれないな。あの男はあの男で憧れている者も多い」

「沈黙の炎……人見知りなのに?」

「……人見知りなのか?」


「え、いやまあ、その、聞かなかったことにしてくれ……しかし、ハイロの兄さんなだけあってかなり賢いと思ってたけど、やっぱりどっかズレてるよな」

 勇者がそう言うと、ローリアが「うむ、間違いない」とくつくつ笑い出し、神官がため息をついた。

「そうですよ……これから神殿を復興しようという時に、今のスティラにまともな人間がどれだけ少ないのか全く考えていない。どうにかして連れ戻しませんと」


 勇者は神殿側の彼らがきちんとフラノ達を必要としている事に安心して、まあハイロがいれば見つけるのは簡単だろうと体から力を抜いた。吟遊詩人も同じことを考えたのか、泣きやんだ顔で弱々しくにっこりするとローリアに視線を向ける。


「ねえ、ローリアさんって……もしかしてものすごい美人だから顔を隠してるの?」


 妖精の人懐っこい言葉にローリアは少し微笑んだような気配になって「いや、神典に記されたままの装束だ」と答えた。もう少し照れたり喜んだりするかと思ったが、やはり彼女はやたら肝が座っている。吟遊詩人への反応だけではない、大怪我をしたばかりなのに精神を消耗している様子がまるで見えないのだ。


「ふうん、罪深くも神官でありながら老若男女を惑わせてしまう、とかそういう理由かと思った……えい」


 目の縁が赤いまま楽しそうな顔になった吟遊詩人が、座って大人しく水薬を飲んでいたローイルの顔の布をぴらりと捲った。人ひとりを一瞬でバラバラにして見せた闇の破壊者が「うわっ!」と裏返った小さな声を上げて慌てて布を掴む。あまりに素早かったので残念ながら勇者の角度から顔は見えなかったが、監察者と違って、こちらはどうやらかなり恥ずかしがりらしいということはわかった。


「すっっっごい、美形だった……ほんとに人間?」

 顔を覗き見ることに成功したらしい妖精が目を剥いている。一体どんな顔だったのだろうと気になるが、もう一度布を捲るのもかわいそうなので我慢した。細かい紋様がびっしり刺繍された黒い布を両手でしっかり押さえて震えている片割れを見て、ローリアが楽しげに肩を揺らしている。


「美しいというより、整っておるのだ。創造神の加護が厚い……つまり、神が手間暇かけて造られた造形を、人はそもそも美しいと感じるようにできておる。神典によると我らが最上の神は大変な愛妻家であるからして、光の神の妻である闇の神の愛し子にも同じだけの容姿が与えられるのだ……そろそろ立ち直れ、ローイル」

「ああ、うん……」

 まだ少しもじもじしていたローイルはこぼしてしまった薬を術で浄化して、神官に「こら! まだ魔力を動かしてはなりません!」と叱られた。それに少しシュンとしてから、布に覆われた顔を力なく勇者の方へ向ける。


「そうだ……勇者よ。ここを去る前にひとつだけ、汝に尋ねておきたいことがあるのだ……なぜ、なぜ汝はあの時」

「……どうした?」


 ローイルはぎゅっと自分の体を抱くようにしていて、ひどく不安げな様子だった。仲間だと信じていた者に喉をかき切られたのだ、心が不安定になっているのだろうとできるだけ優しい声を出す。


「……もう随分と前の話ではあるが、汝ならばきっと覚えているだろう。当時、汝は何ゆえ……未だ敵として相対していた異端審問官ハイロを愛したのか、私に……ふふっ、教えてくれっ……」

「うん、元気だな」


 心配して損をした。吟遊詩人が「勇者ってさ、これくらいの雑な感じでも簡単に引っかかってくれるから楽しいんだよね」と頷いている。


「全く……というかお前ら、これからどうするんだ? 神殿に帰るのか?」

 勇者が尋ねると、ローリアが「ああ。神殿騎士の中でも信頼できる者を既に呼び出してある。もうじき転移の予定が組まれるはずだ」と頷いた。神官が「光の葉よ、いつの間に伝令なんて出したんです? しばらくは魔力を動かすなとあれほど」と怒り出したのをパタパタと手を振ってあしらう。勇者には真似のできない芸当だ。


「ロサラスよ、私はもう平気だ。すぐに帰らねば……こういった場合は初動が全てを決めるのだ。汝が帰ってこられる神殿を用意するためにも、多少の無理は通す必要がある」

「ローリア……」

 困った顔になった神官を軽く鼻で笑ってから、ローリアはおずおずと木々の向こうから現れた数名の騎士に向かって手で何か合図した。白黒の二人組が彼らと何か相談を始めたようだったので、勇者もそろそろ動き出すかと手を組んで大きく伸びをする。疲れているが、賢者のためにもできるだけ早くこの遺跡を離れたい。


「さて、フラノ達を連れ戻しに行くか……」

 はぁ、と呆れたため息をついて笑った。ローリア達は先に帰るようだし、あいつらはとりあえず捕まえてからガレとハイロに神殿まで──


「私が行って参ります」


 空気が凛と澄んだような気がして思考を止めた。ハイロが何かいつもとは種類の違う決意を秘めた顔をして、勇者に歩み寄ってくる。

「ハイロ?」

「シダル、貴方はこのまま北へと向かってください。フラノ達は私が探しに参ります」

 今にも一人で走っていってしまいそうな雰囲気に眉をひそめる。


「え? でも──」

「魔獣に一歩も遅れを取らない貴方は本来、何にも邪魔をされることなく真っ直ぐに北を目指すことができた筈なのです。これ以上、崩壊した神殿に貴方の使命を妨害させるわけにはゆきません。私も、私も数え切れないほど、貴方がたの足を引っ張りました」


 強い光を放つ瞳に思い詰めたような色はなかったが、それでもその言葉は肯定したくなくて、勇者は首を振った。

「ハイロ、でも……神殿があんなだったからこそ、俺はお前に出会えたんだ。恋情の代わりに友愛を与えようと氷の国で言ったが……俺はまだ、やっぱりお前を愛してる。捨てようにも捨てられないくらいの気持ちは、俺の一番の宝なんだ。だから」

 さっと伸ばされた指先に唇を押さえられて、勇者は息を呑みながら続きの言葉を引っ込めた。唇とはこんなに神経の通っている場所だったろうかと思うほど感覚が鋭敏になって、指先ですら柔らかい肌の感触に胸が張り裂けそうだ。頰がどんどん熱くなって、何も考えられない。


 と、勇者が黙り込んだのを見て指が離された。思わず口を開けて息を漏らすと、少しだけ仕方がなさそうに微笑む。可愛い。


「北へ向かい……必ず、生きて戻ってください」


 身震いするくらい強い視線だ。少し魔力が込められているのだろうか、思わず従ってしまいたくなる真っ直ぐな光が勇者を貫いた。魅入られるようにそれを見つめている後ろで、すうっと夕暮れの空が夜空に変わったのを感じる。「星の時間だね」と呟いた魔法使いが、魔法の明かりを消すとぶわりと魔力の気配をさせながら小さな光をばら撒いた。周囲が星空のようにキラキラときらめいて、その光に照らされたハイロが星の妖精のように見える。


「……ああ、必ず。全部守って、救って、生きて戻る。俺を選んだ火の女神に誓う」


 約束すると、彼女は灰色がかった淡い金髪を揺らしながら頷いた。戦いの最中に紐が解けたのか、長い髪がそのまま背に流されているのが夜風にさらさらなびいて美しい。


「……あれから幾度も祈りを重ね、決めました」


 小さな声だった。何を決めたのだろうと、視線で先を促す。


「何年かかっても構いません。必ず……必ず無事で、生きて戻って来てください。私も役目を果たし、必ず戻って参ります……神殿ではなく、シダル、貴方のもとへ」


 風の音が急に消えたので、時が止まったと思った。


 しかし、シダルの愛する人は動きを止めていなかった。首の後ろに手が回されて、ハイロがぐっと背伸びをした。視界がきらめく淡い金色で一杯になり、えもいわれぬ甘くて柔らかい感触が唇に触れて、すぐに離れる。


 今、いま唇が、なにを……俺は、彼女は今……これは夢か?


 驚愕に目をまん丸くして身動きも取れずにいると、顔を真っ赤にしながら勇者を見つめていたハイロが、悪戯めいた得意げな顔で楽しそうに目を細めた。瞳が星の色にキラキラして、もう、もうそれしか見えない。


「す、好きだ……ハイロ。世界のなにより好きだ」

 掠れてほとんど囁きになった声で、譫言うわごとのようにそう言った。どこか意識の外側で吟遊詩人が両手で口を覆ってぴょんぴょん跳ねているのを認識したが、頭の中がぐちゃぐちゃで、何もかもがよくわからない。


「私もお慕い申し上げています、シダル。貴方が世界を救った暁には、どうか私をおそばに置いてください」


 いつもはほんのり口の端だけを上げて微笑むハイロが、花が綻ぶように甘くやわらかく笑った。それにただただ見惚れている間に、彼女はさっと身を翻すとフラノが去った森の奥に向かって走り出してしまう。混乱し加速しすぎた思考のなか、その後ろ姿へ思わず腕を伸ばしてしまった自分の姿に、賢者が恋に落ちた瞬間を重ねた。ガレが何か叫びながらハイロを追って行ったが、ほとんど目に入らなかった。


 軽やかに駆けてゆく灰色のマントが闇に紛れて完全に見えなくなった瞬間、勇者はへなへなとその場に崩れ落ちて両手で顔を覆った。





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