第二章 竜の山

一 見えない星は



 甘い甘い幸福感に夢見心地のまま、ふと気づくと一週間が経っていた。辺りを見回すと既にローリアや双子達は影も形もない。いるのは剣の仲間達の五人だけで、ゴツゴツとした灰色の岩山に少しでも草木の多い場所を見つけ、どうやら夕食の準備をしているところだ。焚き火にくべる追加の薪を集めていたのをぼんやりと思い出し、己が手にしているそれがまだ全然乾いていない枝であるのを見下ろして、ため息をつくと燃やせる状態まで魔法で乾燥させた。


「……ローリア達は」

 口を開くと、荷物から鍋や調味料を取り出していた吟遊詩人が振り返った。少し首を傾けて、勇者の顔をじっと観察するように見る。

「あれ、勇者。もしかして正気に戻った?」

「正気にって……まあ、うん」


 思い返してみれば、半分くらいしか覚えていないここ一週間の自分の様子は本当に酷かったと苦笑する。そしてそんな風になってしまった理由を思い出して顔が緩みかけ、慌てて引き締めた。

「ローリアとローイルは騎士と審問官達を連れて神殿に帰ったよ。双子とルファは水の神殿長に預けられるんだって」

「……そうか、ちゃんと挨拶できなかったな」


 そう呟くと、吟遊詩人はなぜか少し馬鹿にした感じの笑顔になって緩やかに首を振った。

「いや、ちゃんと挨拶はしてたよ? その前に『なあ……夢じゃないよな?』ってロドの肩を掴んで何回も尋ねてたけど」

「……え、ログじゃなく、ロドに? 双子のやばい方か?」


 その聞き方も我ながらどうかと思うが、しかし名前の覚え間違いという可能性もある。そう思って尋ねたが、吟遊詩人はあっさり首を縦に振った。

「うん、やばい方だね。彼、相当困惑してたよ。ローリアが息もできないくらい爆笑してた」

「そ、そうか……」


 どうやら勇者は浮かれるあまり、とんでもないことをやらかしていたようだ。薪を抱えていない方の手で頭を抱えていると、焚き火の薪をいじっていた神官が「しかし、そうして何の忌避もなく友人のように話しかけてくれるあなたに、ロドは随分と感銘を受けたようですよ。きっと彼が更生する一助になるでしょう」と言ってくれる。


「そうならいいんだが……で、夢じゃないよな?」

「夢だよ」


 おそるおそる尋ねると吟遊詩人があっさりそう言ったので、勇者は「えっ……」と衝撃を受けて持っていた薪をバラバラと取り落とした。広がる絶望に指先がじわじわと冷たくなり始めたが、勇者の反応を見たフェアリが楽しそうにクスクス笑い始めたので、悪戯だとわかってホッとする──と思えば、妖精は蜂の翅をひらひらさせながらにっこりと口を開いた。


「で、はじめてのキスはどんな味だった?」

「お前っ……それは、ルシナル、お前」

「ん?」


 可愛らしく首を傾げているが、宝石のような瞳はキラキラと特別鮮やかな光を放っている。妖精が悪戯する時の色だ。なんとも大胆な質問に勇者が声を詰まらせていると、神官が見かねたように口を挟む。


「フィルル、意地悪はおやめなさい。思い出させるとまた夢の世界に行ってしまいますよ」

「あ、そっか」


 助け舟かと思ったが、よくよく聞くとそうでもない気がする。まあこの八日間で何度も同じようなやり取りを繰り返したのだから仕方ないかもしれないが、こんなにも突然に信じられないような幸福を手に入れてしまったのだ、もう少し「浮かれても仕方ない」みたいな感じで見守ってくれてもいいと思う。


 癒しを求めて魔法使いの方を見ると、彼は勇者の視線をどう受け止めたのか「林檎の樹が春の夜に見る夢のような、甘い甘い味がするね?」と言ってきた。いつもは優しいエルフにまで恥ずかしがらせるようなことを言われてしまって「ルーウェン、お前まで」とがっくり項垂れかけ……彼の言葉が妙に具体的なことにふと疑問を抱く。


「なあ……魔法使い、お前もしかして」

「黙れ」


 口づけの味の想像がつくようになる出来事が、と続けようとしたが、地の底から響くような低い声で言葉を遮られた。目をきらりとさせた吟遊詩人がそちらに矛先を向けたのがわかったが、その時突然やわらかい鐘の音が辺りに響いて、勇者はふわふわと体が水中に沈んでゆくような不思議な心地にゆっくりと意識を蝕まれ──その時に一体何を話していたのか、すっかり思い出せなくなってしまったのだった。





 さて、勇者がふと我に帰ったような心地がして辺りを見回すと、既にローリアや双子達は影も形もなく、ゴツゴツとした灰色の岩山で野営の準備をしているところだった。


「……あれ、何の話だったかな」

「そなたが呆けていた間に決まった今後の行程の話だ」


 そう教えてくれた賢者の声がいつもと違って呆れた感じになっていない。何か不自然だと思ったが、しかし目の前に地図を広げられるとすぐにそちらへ気を取られた。精緻な線で山や森や湖が描かれている地図はどうも賢者の手描きらしいのだが、丸められた羊皮紙がいかにも物語の中で勇者が広げているそれのようで、見る度にわくわくするのだ。


「現在地はここだ、タナン遺跡のほぼ真北に当たる。北の果てまではやや遠回りになるが、ここからゴドナ火山と竜峰ラグナドの中間地点へ向かう予定だ。ラグナドの竜王伝説は知っているか?」

「いや、知らない」

 伝説、という最高にわくわくする響きに少し身を乗り出す。


「ラグナドは太古の昔に、竜族の王ラグアフラムドルードが棲んでいたとされる伝説の地だ。そこには夥しい量の金銀財宝が蓄えられ、山のように巨大な黒竜がそれを守っていたという、半ば伝承で半ばお伽話と言って良い。内容の正確性はともかく、伝承というのは何かしらの切っ掛けがあって伝えられるものだ。つまりラグナド山は竜の生息地となっている可能性が考えられるために、そこは避けて通る」

「竜の棲む、伝説の地……」

 うっとり復唱すると、賢者が「言葉選びを誤ったか」みたいな顔をした。しかしもう遅い。


「なあ賢者、俺、そこへ行ってみたい……」

「竜は竜でもドラゴン種だ。ワイバーンとはわけが違う」

 きっぱりと首を振られた。しかしそんな面白そうな場所、その程度では諦めがつかない。

「でもお前と魔法使いは、砂漠の竜の巣で氷の竜に会ったんだろ? 家に泊めてもらってさ、ドラゴンと仲良くなって……お前らだけずるい!」

「ルアグルはおそらく相当な変わり者だ。あれほど気性の穏やかな竜など他に聞いたことがない。ドラゴン種と仲良くなりたいだけならば帰りにでも再びかの地を訪れれば良かろう」


 ここで「確かに」と言ってしまえばそのまま丸め込まれる。それがわかるくらいには、勇者は賢者の性格や頭の良さを理解していた。けれどそれと同じくらい、彼をその気にさせるにはどんな言葉を選べばいいのかも知っているつもりだ。


「……でもさ! ラグナドって山には、竜がいるかいないかわからないんだろ? お前だって確かめておきたくないか? 俺はまあちょっと馬鹿だけど狩人としてはちゃんとしてるんだ。がむしゃらに『友達になろうぜ』っていきなり叫んだり絶対しない。はじめは警戒されない遠くからこっそり観察するだけだ……その辺は弁えてる」


 賢者がぐっと言葉に詰まり、吟遊詩人が「あちゃあ……」と言いながら頭を抱えた。好奇心に負けそうになっている学者を見た魔法使いが「賢者が行きたいならば、僕はどこへでも行くよ」と微笑み、勇者が「ほら、三対二だぞ!」と顔を向けると、神官が困り顔のまま微笑んで「わかりました、お好きになさい……ただし即死だけはしてはなりませんよ。後は何があってもどうにかして差し上げます」と言った。


 よっしゃ! 勝った!


「ねえ神官、言ってることは頼もしいけどさ……こんな時に男気を発揮しなくてもいいから」

 吟遊詩人が首を振りながら疲れた声で言う。

「おやまあ、しかし少しは楽しい冒険もして心を明るくしませんと……北は淀みが濃いのですから」

「いやいやいや、勇者も賢者も魔法使いも恋人ができたばっかりで最高に浮かれてるんだから、今のうちにさっと北へ向かう方が絶対いいって」

「黙れ」


 なんとなく今日二回目な気がする賢者の低い声が聞こえた。が、一回目がいつだったのか思い出せない。しかしどうやら吟遊詩人の台詞が決め手になったらしく、少年の言う通りにすれば浮かれていることを認める形になると思った賢者が強引に竜の山行きを決めてくれた。よしよしと思って頷いていると、しっかり者の妖精が不満そうな顔でこちらを睨んでくる。全然怖くない。


「……まあ、いいけどさあ。ほんとに、絶対、いきなり威嚇して竜を怒らせたりしないでよ? 勇者」

「そんなことしないって。お前は俺を何だと思ってるんだよ」

「野生の狼」


 言うと思った、と心の中で言いながら少しいじけて焚き火に薪を放り込むと、吟遊詩人が言いすぎたと思ったのか「……ねえ勇者、火の山を離れて言葉遣いが元に戻ったね」と話題を変えてきた。


「は? 言葉遣い?」

 唐突に何だと思ったら、ドワーフ達に影響されて勇者の口調が少し乱れていたという話らしい。「ガーズのところに通ってる時だったら『んなことしねえよ』って言ったでしょ?」と言う吟遊詩人が釣られやすい勇者を馬鹿にするでもなく、ただ「元に戻って良かった」といった顔をしているので少し恥ずかしくなった。この上品な仲間達は勇者が乱暴な言葉遣いで話すのをずっと我慢していたのだろうかと皆を見回したが、一番言語に煩そうな賢者が完全に興味がなさそうな顔をしていたのでそこまででもなかったのだろう。ホッとしていつも繊細な歌詞を歌う芸術家の妖精に「ごめん、気をつける」と微笑んだ。


 と、話している内にぽつぽつと雨が降ってきたので、急いで木陰に天幕を張る。既に暦の上では春から雨季になろうかという時期だが、こちらは気候が違うらしく何日も強い雨が降り続くような様子はない。この雨だってそうひどくならずに朝までには降り止みそうな気配がしていたが、しかし気候の違いはそれだけではなかった。顔に当たる雨は氷で冷やしたように冷たく、空気も地面もとても春を終えようかという季節には思えない冷え込み方だ。


 真夏でも氷点下を下回るという北の果ては、目の前に見えている山脈を越えればもうそう遠くない。それこそ山の向こうはもうほとんど木も草も生えない土地になるそうなので、こうして森で休める日はもう残り少ないのだ。森が無い土地なんて……夢の世界で見知ってはいたが、あのぼんやりと感覚の薄い本の中での出来事と、実際に肌で感じる空気は全然違う。いよいよ果てへと近づいているのが感じられる環境の変化に、心がざわついた。仲間達もじっと空を睨んでいる勇者の感情が移ってしまったのだろうか、一人また一人と仕事の手を止めて北を振り返る。


「……ここには、雨の月も夏の日もないのだね。ゴドナがもたらす火の恵みからも遠のいて、春も秋もなく、ずっと冬のまま動かない」

 魔法使いが呟くように言って、寒そうにマントの前をかき合わせた。その横顔がとても寂しそうに見えたからか、勇者が何か言葉を掛ける前に賢者が肩を竦めて腕を組む。


「妖精の眼を持つそなたらには空が黒く見えるのであろうが、その不安と寒さを混同するな」

 バシッと言われると、何だか少し目の前のもやが晴れるような感じがした。言われてみれば確かに全てを一緒くたにして、本当は怖くもなんともないものまで不安に思っていたような感じがする。


 なるほどなと思って頷いていると、賢者は少しだけ微笑んだような顔になって先を続けた。

「常冬であるからこその静寂に満ちた美しい情景もある。果実類の蓄えは潤沢で、身を寄せ合いあたため合える仲間もいるのだ。そなたらはただ旅先での稀有な光景を目に焼きつけ、淀みを晴らした先に広がる、星明かりに照らされた銀世界を待ち望めば良い……それまで、靄の向こうに輝く星の位置は私が示してやる」


「……うん」

 その言葉を大切そうに受け取った魔法使いが、すっかり恋の虜になった瞳をして黒いマントの端をそっと握った。この妖精は賢者のこういう言葉選びが好きなんだろうなと思って、なんだか微笑ましいような気まずいようなむずむずした気持ちになる。


 幸せそうなエルフを見ているといつの間にか黒くて冷たい不安は全て溶け出して、ただ目の前にそびえる伝説の山へ向ける溢れんばかりの期待だけが残った。





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