五 血紅の夕焼け 後編



 無策のままがむしゃらに飛び込もうとした勇者に向かって、ライが「来るな!」と叫んだ。なんとか勇者だけでも遠ざけようと必死な顔に悪いと思いながらも、盾の術を編み上げながら走る。たとえ世界がどうなろうとも、仲間の危機に指を咥えて見ていることなんてシダルにはできない。ライに比べても勇者の盾はそれほど優秀ではないが、それでも、僅かにでも時間が稼げれば、仲間を一人多く逃がせるかもしれない。


「──邪魔だシダル、下がれ!」


 しかし賢者の怒鳴り声がして、止まろうとして止まり切れず、やむなく木に激突しながらなんとか停止した。すると魔法陣と顕現陣が混ざり合ったような銀色の紋様が広がって、ざあっと赤く色を変える。三重の球体が回りながら輝くようなそれは、以前見たものよりも随分と小さいが、海の上で幽霊船を海竜から守った盾と同じものだ。


 その盾に、凄まじい速度で魔竜が突っ込んだ。しかしビィンと音を立てて鋭い鉤爪を盾が弾き、怒りの咆哮が上がる。仲間を害そうとする様子に激しい怒りが込み上げて勇者が魔吼を放つと、敵を認識した魔竜がこちらを向いた。放たれた勇者の魔力が賢者の作る盾に燃え移って、爪の先を浄化された竜が慌てたように少し舞い上がる。


「術者を倒せ!」


 魔力の光の向こうから賢者の声がする。すると勇者が竜と睨み合うのをやめる前に、盾の紋様の隙間をすり抜けてガレの炎の矢が目にも留まらぬ速さで飛んだ。盾の上で燃える浄化の炎の中を突き抜けて紫色になったそれが、跳ね除けようとする風の術を突き破って真っ直ぐラダの胸に突き立つ。炎の矢は盾から巻き取った浄化の力で審問官の胸に大穴を開け、ラダは声もなく崩れ落ちた。勇者はそこまで確認すると、すぐさま魔竜に向き直る。


「こっちだ! 来い!」


 もう一度魔吼を放った。魔竜が盾から離れて地面に降り立ち、ずんずんとこちらに迫ってくる。一歩進む度に地面が揺れた。棘に覆われた、ワイバーンよりずっと大きな体躯は目にしただけで畏怖の感情を呼び起こし、吐く息さえも強大な生き物であるということを知らしめるように恐ろしげな音がした。こちらをひたと見つめる真っ赤な瞳が、宝石のように好奇心でキラキラしていて──ふむ、なぜだろう。あまり敵意を感じない。


「……お前」


 考えながら剣を持っていない方の手を差し伸べると、首を伸ばした黒い竜が手のひらに鼻を押しつけてくんくんとかいだ。軽く鼻筋を撫でながら聖剣の柄をぎゅっと握り、そして仲間達の方へ目を遣る。赤と青のまだらに燃える大きな盾がふっと消え、神殿長を睨むフラノの横顔を見る──そして勇者は剣を鞘へ収めると、その隣の弓に手を掛けた。


「フラノ!」

 火の第一審問官がさっと振り返る。

「獲物は譲ってやる!」


 金の瞳がすっと細められ、片手でくるりと回した槍の炎がぼうっと大きく燃え上がった。勇者はそれを確認してにやりと笑うと、仲間の妖精を高らかに呼び寄せた。

「──魔法使い!」


 治療中の神官を守るように立っていたエルフが、顔を上げると風のようにこちらへ駆けてきた。わざとなのか勢い余ってなのか勇者に軽く体当たりすると、目の前にある熟れた苺色の瞳をじっと見つめて手を伸ばす。


「……おいで、からす」

「いや、カラスじゃねえよ」


 魔法使いは両手で魔竜の頭を「よしよし、かわいいね」と撫で回し、竜がぐるぐると喉を鳴らして目を瞑った。魔獣のくせに一体どうしてこんな様子なんだと思ったが、しかし今は都合がいい。


「乗るぞ、ルーウェン」

「……ん?」


 目を瞬いた妖精を抱えて、魔竜の鞍に飛び乗った。脇腹を蹴って「離陸ラフタ!」と指示してみたが、竜は不思議そうに長い首を勇者達の方へ向けているばかりだ。


「まあ、そうだよな──おい、頼む」

「……飛んでくれる?」

 しかし魔法使いが囁くと、魔竜は少し首を傾げてから黒い大きな翼を広げた。上体をぐっと下げ、後脚を踏ん張って飛び立つ姿勢に入る。


 そして勇者と魔法使いは、魔竜の背に乗って宙へ舞い上がった。こちらを見上げた神殿長がぽかんとした様子で動きを止めているのがいい気味だ。そのまま上から狙い撃ちしてやろうと矢を手に取ったところで、神殿長が何やらさっと腕を振って周囲の人間に指示を出した。


 素早く一矢射たが、ワイバーンとは違う独特の揺れ方に合わせられず、外した。頰を掠って地面に突き立った竜銀の矢に、神殿長が顔色を悪くして術の盾を張る。あいつも盾を使えたのかと歯噛みしつつ、次は貫通させてやると限界まで弓を引き絞った、その時だった。


 敵の異端審問官達が一斉に懐から黒い魔石を取り出し、彼らを運んできたのとは比べものにならない大きな転移の魔法陣を描き出した。すぐさま黒い竜巻のように淀みが吹き荒れ、そして陣の中から現れたのは、百に届こうかという数のオークだ。


 降りるかとどまるか、迷った。有利な上空から攻撃するのと、仲間に近い場所に降りるのと、どちらがより確実に友を守れるのかわからない。とその時、勇者の前に半分抱きかかえられながら座っている魔法使いがのんびりした声で「あ、ウール」と言った。見ると、賢者の伝令鳥が魔法使いの腕にとまって嘴を開くところだった。


「とどまりなさい。魔法使いの魔弓を利用して、浄化の矢を射かけるように」


 どうもレフルスの本名である「シラ」は古語で「見通す」という意味らしい。彼はその名の通り勇者の考えなどお見通しらしかった。眼下に纏まった仲間達の中から治療を終えたロサラスが立ち上がり、魔石を握りながら大きな浄化の顕現陣を立ち上げる。オークの前には火の審問官達が立ち塞がり、中央で身構えた吟遊詩人が投擲用のナイフを握って全方位を警戒している。とりあえず、下は大丈夫そうだ。


「……よし、魔法使い。魔法の弓矢を──おっと」


 ふわふわと羽ばたきながらその場で浮いていた魔竜が好き勝手に飛び回り始めたので、勇者は慌てて艶やかな黒い鱗に覆われた首を叩くと「おい、さっきと同じように止まっててくれ」と話しかけた。しかし魔竜は勇者の言葉をちっとも理解していないらしく、のんびりとオーク達の上を飛び回りながらもぐもぐと何かを食んでいる仕草を繰り返している。そして一際大きく口を開けて黒い淀みの塊を飲み込むと、満足そうに「ぐぅ」と小さく鳴いた。


 淀みを……食べてる?


 そういえばさっきから魔竜が通る度に空気の黒さが薄くなっている気がして首を捻っていると、魔法使いが「美味しいのかな……」と不安げな声で言った。どうやら彼にも、魔竜が空気に溶けた淀みを意図的に摂取しているように見えたようだ。


 しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない、勇者は耳を下げたままじっと竜の口元を見つめているエルフの肩を叩いて我に返らせると、手を差し出した。


「俺の魔力で、魔法の弓矢を作ってくれ。それでオークを射る」

「……ごめんね。僕にはルーフルーがいるから」

「は?」

 すごく申し訳なさそうに首を振って断られた。意味がわからない。


「いや……そうしてくれないとその賢者が危ないんだが」

 軽々とオーク達を切り裂いているライを見る。危なげないが、如何せん数が多い。間を抜けそうになっている奴は吟遊詩人が的確に仕留めているが、しかし彼とてナイフは百本も持っていないし、顔色も悪い。早く加勢せねば。


「だって直接肌から魔力を吸うなんて、浮気……」

「じゃあ聖剣でいいから!」


 よくわからなかったがそう言って、魔力のたっぷり込められたハイアルートの柄を差し出した。妖精は「それなら……」と言いながら柄に触れて魔力を一気に全部吸い出し、青い炎の弓矢を作って下に向けて引き絞る。


「おい待て! 俺がやる」

 慌てて妖精の手を上から掴むと、角度と弦の引き具合を調整してきちんと狙い直させた。こいつと違って勇者の魔力は無尽蔵ではないのだ。あまり外してもらっては困る。


 空色の炎の矢が次々に降り注いで、オークを光の粒に変えた。淡々と殺してしまうのはかわいそうだが、今は仕方がない。細い矢の一本一本にはそれほど強い力が込められなかったが、それでも人一人分を浄化するくらいなら十分足りた。しかし火の山で祝福を受けたからこそ、これほどの数の魔法を打てるのだ。神はここまで見越して勇者に力を与えたのだろうかと、弓を引きながら少し畏れるような気持ちになって考える。


 空色と金色が混ざり合った炎の雨を縫うように、フラノが駆けてゆくのが見えた。背後に仲間を庇って闘っているライやガレと違って、無造作に敵を跳ね除けながら真っ直ぐに神殿長を目指している。


「……背中は俺に任せろ」

 彼の背に剣を振り上げたオークを射抜いて、そう小さく呟いた。ちゃんとやれよ、フラノ。お前を信じて、お前に託すんだからな。


 神殿長は槍の先に白い炎を灯したフラノを睨み、大きな盾で神官や怪我人達を守っているログをちらりと見て舌打ちすると、再び自ら黒い顕現陣の盾を作り出した。しかしフラノはなんでもないように一撃でそれを叩き割り、神殿長が初めて強く焦った顔をして盾を張り直す。いなすように傾けてかざしたおかげで次の一撃は辛うじて砕かれずに済んだが、術には大きなヒビが入り、紋様が崩れて効果を失い始めている。


「転移を! ルザ、レ……」


 叫びながら振り返った神殿長の目が、粉々になったルザレの遺体に向けられた。素早く周囲を見回す。胸に風穴を開けられて倒れ伏したラダ、灰も残らなかったカイラーナ、無差別に周囲を襲うオークに引き裂かれ殺された者に、ガレの矢で射抜かれた者、シダルの浄化の矢で消え去る最中の者。彼が道具のように使い捨てた仲間達は、誰一人として残っていなかった。


 素早く何かを決断した神殿長が、フラノに向かって何かを振りかけた。蓋が抜かれる直前にそれが魔獣の血の入った小瓶であることに気づいた勇者が、フラノと神殿長の間に素早く炎の矢を射る。青空色の炎が燃え広がって空中の血液を消し去り、矢が地面に突き立つ。そこから燃え広がった炎に足を焼かれ、神殿長が大きく体勢を崩した。その間ぴくりとも動かなかったフラノが、神殿長を睨んだまま小さく頷く。うんじゃない、自分でもちゃんと避けろ。


 神殿長が淀み色の盾を粉々に崩し、大きな隙を作りながら地面に倒れてゆく。手を取って支えてくれる仲間は、もう彼には存在しなかった。


 赤黒い夕闇の中で眩しく燃える純白の炎が、その胸を刺し貫いた。仰向けに転がった神殿長が、ゆっくりと瞬いて、そしてふっと、何かが抜け落ちたように瞳から生命の光が失われた。









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