七 黒い谷へ



 そしていよいよ、北の果てへと向かう最後の旅が始まる朝になった。どすんと地面が揺れて、どうやら隣の竜の一家も起き出したようだとわかる。


「結局さ、あいつの家族以外の竜は一頭も見かけなかったよな……」


 竜族の王と名乗るくらいだからたくさんの竜を家来のように従えているのだと思っていた勇者は、少し残念に思いながらそう言って荷物を背負う。すると賢者が焚き火に向かって軽くベルを振り、魔法で火を消しながら言った。


「ドラゴン種は群れを作らぬ。王といっても、周辺の竜の中で最も強いという意味なのだろう」

「ああ、一番喧嘩が強くて広い縄張りを持ってるとか、そういうやつな。人間の王様よりも森の主とか、そっちに近い感じか」

「おそらくは」


──北の山の主人あるじとは、良い呼称だ


 洞窟の入り口から差し込む黒ずんだ朝日が遮られ、巨大な金色の目が中を覗き込んだ。地響きで彼の来訪がわかっていた勇者達が朝の挨拶をして、そろそろ旅立つと彼に告げる。


──翼を持たぬものが、如何にして北の地より世界を守る火の山脈の断崖絶壁を越える? まさか、死の谷を通るつもりか


「いかにも」

 黒竜の問いかけに賢者が頷いた。それを聞いて、竜の瞳が納得いかないように細められる。

「死の谷?」

 実に、勇者が冒険していそうな感じのおどろおどろしい地名だ。勇者が前のめりになると、ちらっと振り返った賢者がものすごく馬鹿にした顔をした。


──淀みの多くは山が盾となってこちらまで来ぬが、谷間には北からの濃い靄が流れ込み、その深さには竜ですら羽ばたく気力を失う。花の子など立ち入ればひとたまりもないぞ


「大丈夫だよ、僕にはルーフルーがいるから……手を繋いでいたら、絶望しない」

 すると魔法使いが小さな声で言って、ロギアスタドーラが「そうか、その黒は番であったか」と頷いた。

「まだ番ではないよ。今は魔法が使えなくなると困るから、恋人」


──求愛中でもなく、恋人とな。まるで人のようなことを言う


「そう。求愛中のように胸が高鳴るけれど、家族のようにひっついてもいいの。一度家族になってしまえばもう永遠に家族だから、今しか味わえないのだって」

 花の妖精が足元に花畑を広げながらうっとりと言った。誰がそんなこと教えたんだ、まさか賢者かと思ったが、吟遊詩人が「僕だよ」と小さな声で言う。

「恋人同士の期間を目一杯楽しもうとか、賢者がそんな発想に至るわけないでしょ」

「確かに」


──そうさな。そやつ、まさか日向にいるとは思わなんだが、よく見れば木陰ではないか。本来他と番って子を成すものではない故、恋愛ともなれば全くの未知であろう。よく射止めたな、花の子よ


「……うん」

 魔法使いが幸せそうに頷き、勇者達はじっと賢者を見た。黒い瞳が困惑した様子でこちらを見つめ返す。


「……私は、人間ではないのか?」

 ついに賢者が言った。


 すると竜は少しきょとんとした顔になって賢者に鼻を近づけ、念入りに匂いをかいだ。巨大な鼻がすんすんとして、その風に賢者の髪が強く靡く。一応吸うばかりで吐かないよう気遣ってくれたらしく、酸の匂いはしなかった。


──人の匂いなどせぬが


「肉体は人と同じに思えるが」

 賢者はぽつりと力なくそう答えた。が、竜の王は話に飽きたのかそれを無視すると、後ろを振り返って甘やかすようにぐるぐる唸った。黒い山の向こうからピヨと高い囀りが聞こえる。


「うわっ、のか」

 慌てて背負った荷物を降ろし、身構えた。突進してきた二頭の雛をなんとか受け止め、手のひらで額を押して肩を齧ろうとするのを止める。すると黒は更に興奮して翼をばたつかせながらギャーと鳴き、焦げ茶は周囲を見回すと魔法使いに駆け寄ってそっと伏せ、翼の付け根をかいてもらってくるくる鳴いた。


「おい、焦げ茶はなんで俺にだけそんななんだよ……」

 黒にのし掛かられて肩を齧られながら唸る。焦げ茶の雛は妖精に可愛がられてすっかりご機嫌な顔で仲間達に一人ずつ撫でられて回り、そして最後に勇者のところに駆け戻ってきて黒が咬みついている方と反対の肩にがぶりと食らいついた。


「動きが……面白いからだと思うよ」魔法使いがそっと言う。

「いや、動きが面白いって何だよ……」

「針葉樹はぶつかっても全然大丈夫で、一緒に暴れてくれるよ」

「暴れてねえよ」


 顔をしかめると軽い魔吼を放って、驚いた子竜達が口を離した瞬間に跳ね起きる。すると二頭の大きな幼児は千切れんばかりに尻尾を振って再度飛びかかろうとし、洞窟に上半身を突っ込んだ母竜に背中の棘を咥えられ回収された。父竜の頭が突っ込まれている隙間に半ば無理やり体を押し込んだらしく、洞窟の入り口がぎゅうぎゅう詰めになったばかりか少しミシッと嫌な音を立てている。


「あ……助かったよ」

「ぐぅ」

「『やあ』だって」

「おう」


 母竜が首を捻って咥えた雛達を無造作に背に乗せると、小竜は慣れた動きで母の背の棘にしがみついた。黒は小さな前足で器用に棘の先端をぎゅっと掴み、ワイバーン型の焦げ茶は岩壁にへばりつくコウモリのように低く伏せて翼の鉤爪を引っ掛けている。そうして子供達がきちんと背に乗ったのを確かめると、琥珀はずりずりと後ずさりして洞窟を出て行った。もう少し別れの挨拶みたいな時間があるかと思ったが、全くもっていつも通りな感じだ。


──竜は家族以外と群れぬ故、友との別れを惜しまぬ。我もまた同様だ。出逢でおうた時には首を寄せ、獲物を分け合い、そして去りゆく翼は追わぬもの。妖精はやたら気に入りを増やすが、過度な執着は互いのためにならぬ


 吟遊詩人が「行っちゃった……」と寂しそうに呟いたのに反応したロギアスタドーラが、教え諭すような声で低く唸った。翅をくたりとさせたフェアリが勇者のマントに潜り込みながら「そうだね……」と呟く。勇者は悲しむ気持ちはよくわかると内心頷きつつも、男として竜族の王に格好良い去り際を見せたいと明るい声を出した。

「じゃあ『寂しくなるよ』じゃなくて『いずれまた』だな。そろそろ行くよ。また遊びに来たらここに泊めてくれるか?」


──うむ。しかし「死の谷」へ向かうとは……「また」があれば良いが


 未だ納得いかない様子の竜が落ち着かぬ様子で言う。

「うん。どうせさ、俺達は本当に北の果ての果てを目指してるんだ。ちょっと淀みが濃い谷間でどうにかなってるようじゃダメなんだよ。渦持ちの俺がついてるし、大丈夫だ」

 勇者がそう言うと、ロギアスタドーラはフンと岩を溶かす鼻息を吐き出してずるりと洞窟から頭を抜いた。


──そこまで言うならば、谷の入り口まで乗せてやろう。そして果てへと辿り着き、我が山へ真の蒼天を捧げるが良い。蒼き瞳の人の子よ


 酸海の黒竜はそう言うとゆっくりと巨体を巡らせて背を向け、持ち上げていた尻尾を地面に下ろす。それに礼を言って、剣の仲間達は竜の王の背によじ登った。


 飛び立った竜はゴドナ火山よりも遥かに高く雲の上、山脈の中でも一番標高の高い山の頂上近くにあるねぐらから舞い降りるように旋回し、山々の間を翼を傾けてすり抜けた。切り立った岩の壁が恐ろしい速さで近づいては通り過ぎてゆく景色に吟遊詩人が悲鳴を上げ、神官は目を開けることもできずに丸まって棘に縋りつく。


 顔を上げてじっと眼下の景色を見下ろしているのは勇者と賢者の二人だった。体を捻って振り返ると、木陰色の瞳が静かに見つめ返す。その目が勇者と同じものを見ていた事を確認すると再び地上の方を見た。


 また少し高度を下げた竜の頭の向こうに、どす黒い谷が見えている。そこから吹き寄せる淀みの気配に顔をしかめた。目を凝らすと、何か大きな生き物の骨のようなものがあちこちに散らばっているようだ。

「ここからでは詳しく判別がつかぬが、竜だな」

 ビュンビュンと唸る風の音の中でもなぜかよく通る声で賢者が呟く。


──竜族の縄張り争いはそもそもが命懸けなのだ。淀みの濃い場で争えばやりすぎるとわかっていて馬鹿をやる若造の末路だな


 ロギアスタドーラが呆れた声で言う。それでも仲間の死に思うところがあるのか、舞い降りる体勢に入る前に悲しい声で咆哮を上げた。すると神官の術のような強い浄化の気配がどこまでも遠くに広がって、朝方なのに底の見えない谷の靄が少しだけ後ろに退く。竜自身の魔法で守られていた勇者達は無事だったが、竜に力んでいるようなそぶりは全くないのにも関わらず、魔力圧で周囲の山々がビリビリと鳴った。


「お前、水持ちだったのか……」

 人や妖精とは格の違う力に圧倒されながら言う。魔法使いの魔力は竜にも匹敵すると聞いていたが、それは大体イチゴやレモンと同じか少し少ないくらいで、歳を重ねて山のように大きくなったこのドラゴンとは全く比べ物にならなかった。


「水と地が半分ずつだね。まあ彼の本質が酸の海なら、妥当だと思うよ」

 勇者の言葉に吟遊詩人が弱々しく答え、竜がバサバサと強く羽ばたいて舞い降り始めると再び大きな棘にぎゅっと抱きついた。こいつは自前の綺麗な翅があるのに、どうしてそんなに落ちるのが怖いのだろうか。


 竜王は勇者達が地面に降りたのを確かめるとのっそり脇の方へ数歩歩き、白骨化するまで淀みに晒され続けたからか、黒ずんでしまった骨をツンと鼻でつついて悲しげにした。比較的新しい亡骸なのか、半分砂になりかけている他の骨よりは状態が良く、魔石も綺麗に残っているようだ。勇者が歩み出て腰骨の辺りに転がっている黒いガラスのような岩に手を触れると、低い声で「竜の誇りに触れるな」とロギアスタドーラが唸る。


「……このままここに置いておいたらかわいそうだろ」

 炎を流すと、魔力はほとんどが浄化に使われたのか岩は透明になるばかりで色がつかなかった。あまりに大きくて染められそうもないと残念に思っていると、それをじっと見ていた竜が鼻先をそっと寄せ、あっという間に勇者の魔力を押し出して森を映した真夏の湖のような美しい青緑に染め上げた。


──こうして輝かせるのか


 竜の王がぽつりと言った。大事そうに魔石を後脚の鉤爪で掴んで、きゅうと切ない声で鳴く。

「ここの淀みもさ、もうすぐ晴れるから」

 そんな竜を見上げて勇者は言った。緑がかった金色の瞳がぎょろりとこちらを向いて、実力を推し量るようにじっと見下ろす。


──そなたは人らしくもなく、優しさを知る生き物のようだ。多くの幸福のためにひとつの善きものを壊す覚悟はあるのか、人の子よ


「ないよ。でも、必ずどっちも救ってやるって意地ならある」


──そうか、そなたは知っておるのか


 大きな瞳が優しく細められた。シダルに定められた運命を哀れむような、それでいて少しだけ期待するような視線だ。


 それで充分だった。詳しくはハイロ達にも言えなかった世界の真実を知っている存在がいて、そしてその上で僅かでも勇者の傲慢な意地を認め、今までとは違う可能性を期待してくれるだけで、勇気が湧いてくる気がした。


「またな」

 ニッと笑って拳を突き出すと、竜王は仲間の遺した宝石にそうしたように、そっと大切そうに大きな鼻を寄せた。


──ああ、また


 唸った拍子に漏れた鼻息で瞬時に拳が焼けただれ、妖精達が悲鳴を上げる大騒ぎになった。





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