第三章 死の谷

一 見えない場所(吟遊詩人視点)



 谷は遥か昔に山が二つに割れた跡のような、崖と崖の隙間のような場所だと賢者が言った。そう、簡単に谷と言ってもよくある山の間に川が流れているような場所ではないらしい。


 黒竜が着地のために淀みの中へ突っ込んでから、呪布を巻いても外しても、周囲は真っ暗でほとんど何も見えなかった。勇者が地面に剣を刺して作ってくれている小さな浄化の領域の中だけが、青い炎の明かりではっきりと視認できる。しかしその先は歩幅にして一、二歩分の距離の地面がぼんやりと見えているだけだ。


 何も見えない、何も見えないと繰り返し言うと、そんな吟遊詩人の背中を勇者がポンと叩いて「大丈夫だ」と笑いかけた。

「お前は目が良すぎるからな……今まで気づかなかったが、どうも俺や魔法使いよりずっと淀みの色が強く見えてるらしい。俺達はもう少し先まで見えるし、賢者と神官は目が慣れた真夜中の森と同じくらいには見通せるそうだ」


「ふふ、私の方が吟遊詩人より遠くまで見えるなんて新鮮ですね」

 神官が少し得意げな感じににこにこして言った。賢者ですら妖精の目を持たない己に淀みが黒く見えることを少し恐れているようなのに、相変わらず図太いというかなんというか、変なところで頼もしい人だ。


 仲間達曰く、青緑の石を抱えて巣へ帰っていった黒竜は吟遊詩人達を真っ二つに割れた山の中腹──丁度谷を真横から覗き込めるような場所に降ろしたらしい。通りで随分と急斜面だと思ったが、一体なぜそんな中途半端な場所にと疑問に思う。


「足場が悪いらしくて谷底は歩きにくいんだと。上は急勾配で風も強くて、その点この崖には細い道が……ほら、蜃気楼の谷間で歩いた岩棚みたいな道が、ずっと向こうまで続いてるみたいだ」


 天体観測用の小型望遠鏡を下ろした賢者が勇者の言葉に頷いた。どうやら暗くても向こう側の様子がわかるような術を使っていたらしく、ぐるぐると小さな銀色の回廊陣のようなものが筒の周囲を回転していたのがふっと消える。その色に思わず魔法使いの手を握っているのかと目を走らせて確認したが、左手には少し光を弱くした魔石があるだけだった。


「少なくとも見える範囲はそのような様子だ。地図上では向こう側までおよそ三日の距離だが、壁面に穴が多いので休める場所はあるだろう。無ければまあ、吸着の術を使って落下しないよう慎重に眠れば良い」

「疲れたら俺が交代で背負ってやるしな」

 三日は走り続けられるおかしな体力をした青年が爽やかに笑って言った。


「……うん」

「順番は賢者、魔法使い、俺、吟遊詩人、神官……いや、どうしようかな。賢者、魔法使い、吟遊詩人、いや」

「ここはマントであたたまる場所だから、大丈夫だよ。眠くならなければ落ちないし、あたたかければ魔法も使える」

 腕を組んで悩み始めた勇者に魔法使いが声をかけた。


「そうか、いや……でも、お前達が視界に入ってないと気が休まらない」

 勇者が少し弱々しく言うのに、吟遊詩人と神官も揃って頷いた。二人が落ちていったあの光景は忘れようにも忘れられないし、同じような地形となれば見張っていないと気が済まない。

「それなら僕が先頭で……その後ろが賢者、吟遊詩人、神官、勇者だね。落ちそうになっても、魔法で持ち上げてあげる。そのために……僕は、ルーフルーと、まだ恋人」

 最後の方はかなりもじもじと髪の毛をいじりながらエルフが言った。


「……いや、やっぱり俺が先頭を行くよ。動物はいなくても魔獣が出るかもしれない。あとはまあ、気にせず並べ。よく考えたら魔法使いは淀みに弱いし、賢者は義足だし、吟遊詩人は前が見えないし、神官は神官だし……」

「ねえ勇者、私だけ何か」

「よし、行くぞ」


 勇者が聖剣を地面から引き抜いて鞘に戻すと、ふっと明かりが消えて何も見えなくなった。今までそんな経験をほとんどしたことがなかった吟遊詩人が恐怖で体を固くすると、誰かの手が帽子の上から頭に乗せられたのを感じて少しホッとする。


「勇者、ハイアルートを抜いておきなさい。魔力光では淀みの闇を照らさぬようだ」

「わかった」


 吟遊詩人は帽子を潰しながら乱暴に頭を撫でていたのが賢者だったことにかなり驚きつつ、それを悟られないように後ろへ手を回して広がろうとする翅をぎゅっと押さえつけた。魔法使いに背中を押されて最も明かりに近い勇者の真後ろに導かれ、魔法使いの後ろに賢者、神官と続いた。どうやら「目の悪い順」に並んだらしいと気付いた勇者が「なるほどな」と呟き、普段よりもかなりゆっくりとした歩調で歩き始める。背中に描かれた浄化の陣がかなりの速度で魔力を吸い取っていたが、それでも息を吸いたくないくらいの黒くて重たくて暗い空気だ。


「使用した魔石は魔法使いに回しなさい」

 後ろから賢者の声が聞こえた。ベルトに下げた鞄から銀色の魔石を取り出して握りながら振り返ったが、真後ろの魔法使いの顔も輪郭しか見えず、唯一目の前にはっきり見える勇者のマントを掴む。淀みの気配があまりに濃くて、賢者と神官の気配は足音と息遣いでしかわからない。しかし今までずっと優れた魔力視に頼って生きてきた吟遊詩人はそれ以外で周囲の状況を読むことに長けておらず、少しでも注意を途切れさせれば見失ってしまいそうでぞっとした。


「勇者……勇者、怖い」

 小さく呟いた瞬間に、勇者がさっと振り返って吟遊詩人の手を取った。傷跡のある右手がぼうっと青空色に輝いて、体の中をあたたかい気配が巡る感じがする。


 すっと、気持ちが楽になった。どうやら少し淀みに少しやられていたらしく、眉をひそめた勇者が「魔法使いは大丈夫か」と尋ねている。

「僕は……全然大丈夫だよ。だってルーフルーが手を──」

「黙りなさい」

 どうやら手を繋いで歩いているらしい。神官がくすりと笑う声がして、皆一緒なのだと思うとどっと安心感が戻ってきた。





 それからひたすら闇の中を歩いて、歩いて、歩いていた。


 道は細いものの基本は平坦で、かなりゆっくり進んでいたために神官も疲れて遅れたり転んだりせずについてこられているようだった。しかし緊張が続くと疲れやすいからと頻繁に休憩を取り、そろりそろりと慎重に進む。谷底に川は流れておらず、風もなかったために谷は不気味なほど静かで、本当はこんな場所一気に駆け抜けてしまいたかったが、その度に前を歩く勇者の落ち着いて余裕のある背中を見てその衝動を堪えた。


 もう、かなり前から時間の感覚がなくなっている。時計を何度も取り出して、聖剣の明かりにかざすと時間を確かめた。もう随分前に昼食を食べたのに、まだ日の入りまで二時間もある。三日くらいは経ったんじゃないかと思ったのに。


「……ねえ、北の果てって全部こんな風に真っ暗なのかな」


 もしや使命を終えるまでずっとこの闇が続くのではと想像した途端にものすごく恐ろしくなって、声が震えた。すると勇者が再び振り返って吟遊詩人を浄化し、痛くてたまらなかった胸がほわりとあたたかくなる。


「わからないな……ラサは妖精の目を持ってなかったから、夢ではわりと普通に見えてたんだ……いや、違う。俺達よりずっとギリギリな到着だったのに、水の浄化だけで凌いでたな。あそこの淀みはここまでひどくないんだと思う。理由はわからないが、ここだけがすごく濃いんじゃないか? あいつらは谷じゃなくて魔術を使って崖をよじ登るみたいに山を越えてたし」

「え、僕そっちの方が良かった……なんで谷を選んだの?」

「壁面へ吸着する魔術を使い続けた魔術師が幾度も喀血かっけつし、岩棚に腰を下ろしても強風を警戒してほとんど眠れず、恐怖と疲労で弓士が淀瘴にかかり、皆全身擦り傷だらけで、失神した魔術師を抱えて落下した騎士が深手を負ったと聞いたからだ」


 後ろから賢者の声がして、真っ暗とはいえ先程は少し道幅の広い場所で魔法使いに抱きしめられ、勇者に頭を撫でられながら昼寝休憩を取った今の状況を思って渋々頷く。すると、そんな吟遊詩人を見てふっと笑った勇者が顔を上げて明るい声を出した。


「洞窟だ、今日はあそこで休むぞ。……流石に俺も真っ暗なのが続いて気が滅入ってきた。飯作る間にでも何か歌ってくれよ」

「あ……うん」


 見えない暗い怖いと思い詰めながら進む時間がひとまず終わったことに安堵すれば、今までの休憩時間に一度も歌っていなかったことに思い至った。こんな時こそ「吟遊詩人」が一番役に立つのに、一体自分は何をしていたのだろうか。足音の響き方からしてかなり狭い洞窟に入り、皆が荷物を下ろすのも待たずにリュートを取り出して、地面に座り込むと繊細に繊細に、魔法使いが爪弾くハープの音色を思い出しながら前奏を奏でた。


 旅の間に少しずつ編曲を重ねてきたこの曲のはじまりは、小さな星の光が雨のように降り注ぐ、流星雨の音だ。きらめく流れ星で始まって、次第に穏やかになり、そして静寂のなかに美しい満点の星空が残る。



  遠い光が降る

  きらめきとなって

  眠りに落ちそうに瞬く星の光が

  瞳を通って心の泉に沈む


  遠い光が降る

  きらめきとなって

  月とも海とも違う小さな輝き

  夜空をきららかに飾り

  黒をより黒くする



 確か初めて地上に出る前の晩に、まだヴェルトルート語の辿々たどたどしかった魔法使いに頼まれて作った星の歌だ。星好きの妖精が一番気に入っている曲で、これを歌うと嬉しくなったエルフがそこらじゅうに星をばら撒くので、次第に喜ぶ魔法使いを見たい仲間達の間でも定番の歌になっていった、そんな特別な一曲だ。勇者が洞窟の床に聖剣を突き刺すとさあっと淀みが晴れ、地面近くを空色の小さな炎がチラチラ燃える清浄な領域に、銀色の星がキラキラと舞う。


「──マントの陣を発現させておかねば肌寒い、夕暮れ前だが……北の果てに近くなったこの地では、もう雨季を終えて夏に入る頃だ」


 周囲を漂う星のひとつにそっと触れながら、賢者が静かな声で言った。物語の始まりのように綺麗な言葉遣いは彼が少し優しい気分になっていて、特に星の話を始める時に使う口調だ。エルフが瞳をきらりとさせ、皆が手を止めて……天どころか地も、進む先も見えない真っ暗な世界に星を見出そうと耳を傾ける。


「このような土地では雪が降り積もっていない光景こそが夏らしく、冬には黒ずんでいた苔が僅かに青くやわらかくなるのが、果ての夏の色なのだ。フォーレスで見る空と砂の海で見る空は、同じ夏の星座でも異なったものが見えると教えたな。今宵はこの火の山脈から見える星の話をしようと思うが……その前に勇者、少し試したいことがある」


 しかし賢者は、今すぐに星の話を始めるつもりはないようだった。指名された勇者がきょとんして「何だ?」と尋ねると、賢者が言った。


「そなたが常々行っているあの守りと浄化の儀式を、元の姿に復元したい」





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