第二部 使命
プロローグ 星空(賢者視点)
剣の仲間達は魔法使いのことを時折、どこか幼児を愛でるような目で見る。それは彼の少し拙く聞こえる巻き舌の下手なエルフ語訛りや、妖精らしい純粋な感性、ゆったりとした仕草に基づくのだろう。しかし、それは彼らが母語で話す魔法使いを知らぬからである──そう賢者は考えていた。
魔法使いの語調は確かにヴェルトルート語としては随分と間延びしているが、エルフ語としては然程でもない。まあ少し眠たげな話し方ではあるが、彼はそれを補って余りある豊富な語彙と、それを繊細に組み上げられる頭脳を持ち合わせていた。 エルフらしい詩的な言葉選びは魔法の使い手というより詩人と話しているようだったが、少なくとも幼児には程遠い。
「空を見上げて覚える感動といえば、虹だとか、糸のように細い月だとか、そういうものだったのだけれど」
新月の夜空を見上げた魔法使いが緩やかなエルフ語で歌うように、いつもよりほんの僅かに生き生きとした様子で語る。
「夜半の空というものはこんなに美しいのだね、
凍った湖面のようにひんやりと表情を浮かべない瞳には、森の巨木に叡智を見出すような、妖精族独特の神秘的な賢さが見え隠れしていた。
そう、あれを見たのは何年前だったろうか。突然変異で強い魔力を持った白鳥が、地底湖の上へ滑るように舞い降りながら水面を青白く凍らせてゆく光景は今も忘れられない。このエルフの瞳は、あの時の美しい銀青色によく似ていると思う。
「そう、星の光は……歌が聞こえるようだ。この小さな光を歌にしたら、どんなに素敵だろう。僕の技量ではとても足りないけれど……吟遊詩人には、それができると思う?」
「さて……どうだろうか」
幻想的に響く囁き声は聞いていて心地良く、魔法使いと話す時の賢者は言葉数が少なくなる傾向にあった。成人でありながら昼寝がしたいと譲らなかったり、あり得ない数の玩具を買い込んだりと異種族の価値観には不可解なところもあったが、それでもやはり
「僕は賢者の書く星の話がとても好きなのだけれど……賢者は今までに星空を見たことがあった?」
「こうして本物の空を見たのは大穴の底から一度きりだ。その一度の夜空が忘れられず、天文学に傾倒した。それ以来見ていたのは望遠鏡越しの空だな」
「望遠鏡?」
そう言って不思議そうに手にした単眼鏡を眺めるエルフに、それではないと説明してやる。
「岩盤を透過して見ることのできる魔導望遠鏡が塔の最上階にある。が、やはりこうして肉眼で見る空とは、文字通り天地の差だ」
「岩を透かして見る星の光なんて、とても不思議で詩的なものに思えるけれど」
「そうだな。私にもそういう視点があれば、もう少し楽しめたのやもしれぬ」
美の女神の被造物であるエルフはやはり美しいものに敏感だが、強く感情を揺り動かすように血の通った解釈をする吟遊詩人と違って、こちらはまっさらに凪いだままの心でただ美を受け入れるような、そんな人間には理解が難しい不思議な感性を持っていた。
賢者はそんな彼の価値観を大抵は尊敬と尊重をもって観察していたが、やはり異種族であり他者である以上、時には受け入れがたいような考えもあった。
「ああ、
話しながらふと賢者の背後に目を奪われた妖精が指差したのは、エルフ語だと流麗な名だが、ヴェルトルート語ではコイシモドキと呼ばれている妙に丸っこい蛾の幼虫だった。もこもことした緑の毛の間から覗く、まあつぶらと言えなくもない黒い瞳が、食べている最中の
「どうしてこんなにも丸いのだろう。この柔らかな葉が美味しくて仕方がないのだね。たくさんお食べ」
エルフはそう言ってこの世のものならぬ麗しい笑みを浮かべると、子猫にするように指先で毛虫の顎の下を優しくくすぐった。
「この子はきっと素晴らしい浮島になるよ。特別艶のある毛並みをしているし、良い葉を選ぶのも上手だ。賢者もそう思わない?」
胴が太過ぎてのろのろとした低空飛行しかできない丸い蛾を浮島に例えるのは美しいと思ったが、今は一刻も早く毛虫の話題から離れて欲しかった。
「賢者、なぜ離れてゆくの?」
「すまないが、その手で触らないでくれ。それは毒虫だぞ」
「あ、ごめんね」
ここで毛虫なぞ見るのも気色が悪いと一言で無下にできないあたり、自分も多少甘いところがあるのだなと賢者は思った。
◇
賢者に振られてしまった魔法使いは耳を僅かに後ろへ傾けてしゅんとすると、ヴェルトルート語に切り替えて勇者へ毛虫を見せに行った。
「
「毛虫? 何だ、また可愛いのがいたのか? お前ほんとに幼虫が好きだな」
「うん……こいしもどきの赤ちゃんだよ」
精悍な外見の割に普段は穏やかな気質をしている青年のマントを引っ張って、魔法使いがまだ一度も脱皮をしていないであろう小さな緑葉浮島の個体を指す。幼子に遊びをねだられた父親のような苦笑を浮かべた勇者は、膝に手をついて屈み込むと丸い幼虫を目にして訝しげに目を細めた。
「こいし……あ、小石か。何だこいつ、随分丸いな。食い過ぎか?」
「違うよ……元から丸いんだよ。そして、とても丸い蛾になる。素敵だね」
「ああ、まあ……うん、そうだな」
「たくさん食べる……いい赤ちゃんだよ」
「赤ちゃんって……いや、まあ、元気に育つといいな」
そう、あやつはこのような言葉遣いをするから幼児のような扱いを受けるのだ。母語でない言語が拙くなるのは仕方がないが、それにしてももう少し何とかしてやれないかと、賢者は頭の中で妖精の言葉遣いを矯正する計画を立て始める。
「うん。可愛いけれど、触ってはだめだよ……人間には、毒なのだって」
「おい、もしかして賢者にひっつけようとしたのか? あいつは潔癖症なんだからだめだぞ?」
「ひっつけてない。見せただけ」
「ならいいが……」
旅へ出て仲間と比較することで初めて気づいたことだが、確かに自分には潔癖のきらいがあるようだった。あまり見せぬようにしていたつもりだったが、勇者には悟られていたと知って思わず少し唇を引き結ぶ。
どうやら故郷の村ではあまり周囲と上手くいっていなかったらしい勇者は、他者の感情を汲み取る能力に少し異常なほど長けていた。彼は他者との親密な関わりを強く望むと同時に、少々不均衡なほど多数へ迎合できない誇り高い性分も持ち合わせている。おそらくそんな自分の信念を捨てぬまま周囲と仲良くなろうと努力した結果ああなったのだろう。不器用だが、好ましく思える男だった。
剣の仲間に選ばれたと知った時、社交性に乏しく人との関わりを嫌う自分が始終他者と行動を共にすることなどできるのかと気が遠くなったが、いざ仲間達と対面してみれば……まあ時折近しい気配に眠れぬ夜はあれど、意外にもそれほど大きな苦痛を感じることはなかった。
流石は神の選びし人間といったところか、彼らはそれぞれに優れた能力を持ち、善悪や己の役割について考えられるだけの賢さを持ち、そして誠実で寛容な心根を持ち合わせている。確かに、勇者が疑問を抱いていたという通り歴代の剣伴と比較すれば戦いの力を持たぬ者が多いが、しかし賢者はその点についてはあまり心配をしていなかった。
おそらく、今回の「浄化」──魔王討伐による淀みの解消は今までと何かが違う。善悪の均衡を司る
剣の仲間に加わった鷲族出身の青年が、いくら楽聖と称して差し支えない才の持ち主とはいえ、その類稀な瞳の力ではなく吟遊詩人としての役割を与えられているのには果たして何の意味があるのだろうか。攻撃と策略に優れた人間の魔術師ではなく、花を咲かせ朝露を集めるようなエルフの魔法使いが選ばれた理由は、何であろうか。
その「何か」を突き止めるのが、己に課された使命であると賢者は考えていた。
でなければ、この学殖以外に大した能力を持たぬ自分は、この仲間の中で足手纏いになることしかできない。神官は己の体力のなさを申し訳ないと繰り返し述べるが、彼ほど優れた治癒の力を持つ人間は世界中のどこを探しても他にはいない。ヴェルトルートのファーリアスといえば、かつて魔術事故で四肢を失った人間を五体満足に治療して見せたという伝説の
それぞれの使命を見定め、能力を引き出し、勇気を与え、北の果てから仲間達を生きて帰らせる。
剣の仲間としての賢者はそうあらねばならなかった。しかしただ学問を追究することだけを旨として生きてきた彼にとって、それは難しい役目であった。
仲間がいれば俺は立っていられると、突然課された使命を──世界と同じだけの重さがある使命を軽々と受け止めて見せた勇者のようにはいかぬやもしれなかったが、自分は自分なりにそれを受け入れこなしてゆこうと、賢者は星の位置を書き留めるペンをぐっと握りしめた。
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