五 夜の博物館 後編



──おや、私の偽物にでもうたのかね?


 アルバロザの声は、よくよく聞いてみると耳には何も聞こえていなかった。つまり耳を震わす音ではなく、直接心に言葉を届けるような不思議なやり方でもって彼は喋ったのだ。透き通った唇は動かず、その顔はただこちらを見守るように微笑んでいるばかりだ。


 勇者が魔剣ヴァレイスの話をすると、アルバロザは愉快そうに声を上げて──いや、声は出ていないのだが口を大きく開けて──笑った。そんな顔をすると穏やかで貴族的な雰囲気が一変して、空の街の騎士団長を思い出すような豪快で頼もしい男に見えた。


──それは、くっ……そのような愉快極まりない存在に私の名を使ってもらえるとは、光栄なことよ……その魔剣はおそらく、叡智の神の悪戯であろう


「叡智の神?」と勇者が問う。


──左様。エルフト神は基本的に厳しい御方だが、稀にそのようなお戯れをなさるのだ。道具や動物など、小さき存在へ高い知能を与えてみては、それがどのように振る舞うのかご覧になっておられる


「アルバロザ卿は……どうしてそんなことを知っているんだ? あの剣には賢者だって驚いていたのに」

 勇者がびっくりして尋ねると、アルバロザは少し眉を寄せて威厳たっぷりに苦笑した。今は黒っぽい色をしているその目は昔は何色をしていたのだろう、なんだか賢者とはまた違った雰囲気で全てを見通しているような不思議な目だ。


──死して初めて見えてくるものもあるのだ、勇者よ。死後の成長というと奇妙な響きだが、私も生前はもう少し血の気の多い……そうさな、物を考えない気質をしていた。そなたにもいずれわかる……おや、慄いたような顔をしているな。これは予言ではない。命ある以上いつかは死すると、それだけのことだ


 小さな子供を見るような目で、アルバロザは勇者に微笑んだ。

 そしてどこか遠くを、元々遠くを見ているような視線を更にもっとずっと遠くへ投げて、自分に言い聞かせるような口調で語り始めた。


──勇者よ。そなたの敬意は嬉しいが、私は決して英霊と呼ばれるような存在ではない。確かに嘗ては私を英雄と呼ぶ者もあったが、しかしそれは戦での話。国の名の下に数多くの同胞を殺したというだけに過ぎぬ……そして私は最期に、その虚構の偉業すらもことごとく破壊して果てたのだ


 彼の生きた四百年前といえば先代の勇者が魔王を倒す寸前、世界に最も淀みがこごっている時代だ。至るところで小競り合いが起き、紛争が起き、国と国とが残り少ない清浄な土地をかけて争い合っていた。


 フォーレス王家の騎士団長であったアルバロザは、その戦争で鬼神の如く活躍し、数多の勝利を勝ち取ったのだという。彼は英雄と呼ばれ、国中の民に讃えられ、崇められ、頼られた。


──しかし、それもごく僅かな間のことであった。敵方に強力な術師がおってな、一体どうやったのか何百という数の濁鬼を操り、私の部隊へとけしかけたのだ


濁鬼オーク?」

 聞いたことのない名に疑問を抱く勇者を見やったアルバロザは静かに唇の端を上げ、再び視線を逸らすと記憶を辿るように虚空を見つめた。


──人のわざで可能な限り濃縮した淀みを、魔術を用いて人間へ流し込み造られる化け物よ。それはもはや人の姿を取っておらぬ、口に出すのもおぞましい見目をしておった。魔獣なぞよりもずっと濃い淀み……憎悪に染まり切った彼奴等から部下を守ろうと、私はそれを斬った。黒く染まった血を頭から浴び……そして、私は狂った


 オークの血を浴びたアルバロザは狂乱──賢者が言うところの淀瘴てんしょうにかかったらしい。右も左もわからぬ憎しみに囚われ、彼はその強さでもってオークを、敵の兵を切り刻み、そして仲間を手に掛けた。


──私は結局、事態を知った神殿より派遣された火神官かしんかんらによって討伐された。私の屍は水の浄化によって凝った淀みを散らされ、しかし浄化で消し去れぬそれは空気で薄めるように周辺へ撒き散らされることとなった。その場所はその後数年、草も生えぬ土地であった


 そしてその後悔に苛まれたままずっと天の国へ行く決心もつかず、かつて自分の屋敷であったここで四百年こうしているのだというアルバロザの言葉を聞いて、勇者は鼻をすすると袖で目元をごしごし擦った。


──勇者よ、そなたが泣くことではあるまいに……すまぬな、酷な話に付き合わせた。ずっと……誰かにこの心境を打ち明けたかったのだ。そのように真摯に受け止められ、救われる思いだよ


「アルバロザ卿……あなたは仲間を背に守って、先頭に立って戦ったから血を浴びたんだろう? そんなの……誰もあなたを責めない、責められるはずがない。俺があなたの仲間だったら、あなたがこうして後悔し続けていることが何より辛いと思う。なあ、きっと皆が天の国で再会の時を待ってるよ」

 声が掠れるのを堪えながら言葉を絞り出す。するとそれに微笑みを返したアルバロザは勇者に音もなく歩み寄って、感触のない手で彼の頬を撫でた。触れられた場所がひやりと冷たくなる。黒く透けた瞳が勇者の目をじっと覗き込み、ほうと一つため息をついた。


──ああ、美しい空の色だ。久方ぶりに、こんな鮮やかな色を見た……。不思議なことだ、慰められているとわかるのに、そなたに言われるとなぜかそれが真理だと思えてしまう。色は違えど、その光は遺してきた息子を思い出す……あの子もそなたのように澄んだ目をした男だった。そう、妻と息子には可哀想なことをしてしまった。若くして家長を失い、きっと苦労したろう


 そして、近くで見ると傷だらけの鎧を纏った死せる騎士は、勇者の頰から手を離すと子に忠告する父親の顔をして静かに告げた。


──淀みに気をつけなさい、若き勇者よ。あれは恐ろしい。どれほど清く生きることをねごうても、その努力をほんの一瞬で、全て打ち壊してしまう。それが例え命より大切な友であろうと関わりなく……否、大切であればあるほど傷つけ、そして傷つけさせてしまう。そなたはきっと私と同じ、仲間と肩を並べれば強くなり、そして友を失えば弱くなる性質の人間だ。世界を救いたくば、淀みに気をつけなさい


 実感の伴った重い警告へ神妙に頷くと、それを見たアルバロザはニカッと騎士らしい明るい笑みを浮かべて勇者の頭をくしゃりと撫でた。触られている感覚こそなかったが、その力強い手つきが薬師だった父とあまりに違っていて勇者はふっと微笑んだ。彼に育てられた息子は、きっと勇敢な人間だったのだろう。そんな彼にも会ってみたいと……四百年も昔の人間が急に身近になった感覚は自分でも不思議に思える。


 急速にこの時間の終わりが近づいているのだと、なぜかわかった。アルバロザが背筋を伸ばして強く微笑む。初めとは何かが違う晴れやかなその姿は、確かに国を守る英雄だった。


 誇り高き英霊が声なき声で、高らかに言う。


──さて、目覚めの時が近い。別れは惜しいが、私はそなたの作る未来を天の国より家族と……そして仲間と共に見守るとしよう。さらばだ、蒼天の勇者よ! 健闘を祈る!





 バサリとマントを翻す音がしたかと思うと、真っ暗な談話室だった。……ソファに横になって眠っていたらしく、腹に毛布が掛けられている。顔を上げれば、あの小さな書斎の壁にかけたはずのランタンが机の上に光を失って転がっていた。


 ひとつ息をして眉をひそめ、そして次の瞬間ソファから跳ね起きた。


「夢……いや、賢者……賢者!」


 勇者が廊下へ走り出て扉を叩くと、中でごそごそと音がして、小さな燭台を持った賢者が──おそらくこれは眠たげな顔なのだろう、蝋燭の明かりを全く反射しない闇そのもののような目を眇め、幽霊騎士の百倍は怖い目つきで戸を開けた。ここは談話室と違って窓のない廊下だ。小さな火がなければ目の前にかざした手も見えないような暗さの中、前髪が片目にかかって肩に羽織ったローブが少し乱れている仲間の姿に、勇者は本能的に息を呑んで飛び退った。


「……何だ、こんな時分に騒々しい」

 冥界から響いてくるような押し殺した低い声に総毛立ったが、勇者は両腕で自分を抱くようにしながら今しがた体験したことを話そうとした。が、話が長くなりそうだと踏んだ賢者はすっと目を伏せて──ただ少し伏し目がちになっただけで勇者を黙らせると、体を引いて彼を部屋に招き入れた。通りすがりに湯沸かしの魔石に触れると勇者には小さな書き物机の前の椅子を指し示し、自分は寝台に腰掛ける。


「……それで、怖い夢でも見たのかね?」

 寝起きはいつも機嫌が悪い賢者が、優しげな声で嘲るように尋ねる。完全に態度が悪かったが、しかし全くいつも通りな彼の様子に勇者は却って落ち着いた。


 何度も「支離滅裂だ。順を追って話しなさい」と言われながら夢か現実かわからぬ奇妙な体験を話す。すると賢者が徐々に興味を惹かれてきた顔で「死して初めて、見えるもの……」と呟いたので、勇者はこいつが知識欲のあまり明日にも死ぬのではないかと思ってぞっとした。思わず「おい、まさかそれを見るために死にたいなんて言わないよな」と言葉をかけると──その時すぐ後ろから「だ、だめ……」とかすかな声が聞こえてきて勇者は飛び上がった。


「うわあ!!」


 振り返ると、いつの間にかそこには心配そうに賢者を見つめるエルフが耳をへたりと寝かせて立っていて、勇者が叫び声を上げる。なんだ、いつ、どこから現れた? 幽霊かよ。


「お、お前いつの間に」

「最初からそなたの後ろにいたが……」

 賢者が困惑したように言うと、魔法使いも困ったように「針葉樹が、慌てている音がしたから……」と頷く。


「はあ? 嘘だろ、光ってなかったから気づかなかった……」

「鋭敏な感覚を持つそなたが、何ゆえいつも魔法使いの気配だけは察知できぬのだ」

「いや、森の気配と一緒だから、なんか近くにあるのが当たり前なんだよな……」

「ねえ、賢者……死んではだめだよ……」


 間の抜けた会話に混ざった魔法使いの怯える声には、賢者が苛立ったような顔で腕を組んだ。

「そのようなことのために死ぬはずがなかろう。一体私を何だと思っている」


「……勉強馬鹿?」

 勇者がぼそっと言うと、間髪入れずに眉を寄せた賢者が、魔法使いに軽く顎をしゃくって「やれ」と言った。何だろうと振り返ると、隣に佇んていたエルフが指先で勇者の耳をつまんでピッと引っ張る。全然痛くない。


「弱すぎる」

「でも……強くしたら、痛いよ」

「痛くしなさい」

「いや、やめてくれよ」


 全く、そのような感じで彼の仲間達は呑気というか、どんな時でも話し始めると空気が締まらないのだが──その後なんとか話を戻して聞いてもらったところ、少なくともアルバロザ卿との出会いはただの夢ではなさそうだった。


「それが真にロザ当人の霊魂であったのか、あるいは一種の天啓──彼の姿を介して告げられた神の導きであるかはわからぬが……オークの存在といい、業火の騎士アルバ=ロザについてといい、そなたが……そして私すらも知らぬ当時の詳細な情報を得ているということは、意識へ何らかの介入があったと考えられる」

「……意識へ、介入」


 この男にそんな風に言われると急に怖くなってきて、勇者は肩をすぼめると身震いした。そうか、あれは夢でもなんでもなく、俺は本当に幽霊に会ったのか。死んだ人間と喋るなんて、そんな、そんなこと──


 すると心優しい妖精がそっと肩に手を置いて──魔力がぞわっとした──静かな声で「少し……違う話をしようか」と囁いた。寒気を散らしたくてこくこくと頷くと、妖精はのんびりした口調で自分が美しいと思う魔法についての話を始める。それに相槌を打っているうちに、ふと魔法使いの唱える呪文について尋ねたいと思っていたことを思い出した。


「──唱えてる時と唱えてない時があるよな? あれってどう違うんだ?」

「思い出した時は……唱えているよ」

「……ん? 呪文、覚えてないのか?」

「呪文は、覚えているけれど……唱えるのを、忘れるね」


 賢者の補足を聞いた感じだと、どうやら呪文というのは元来魔術に使うためのものであって、魔法にはあまり深く関係がないらしい。月の塔では慣習として唱えるよう教育されるが、想像力が優れている者であれば特に無くても困らない程度のものであり、また呪文も魔術も、人間以外の種族は使わないものであるそうだ。


「……なあ、じゃああれできるか? 無言でさ、指を鳴らして蝋燭に火を灯すやつ」

 小説の中で凄腕の魔術師がよくやっている華麗な技を催促すれば、魔法使いは少し首を傾げて壁際の燭台に立っている火の消えた蝋燭を見つめ、腕を伸ばして親指と中指の先を触れ合わせた。その様子はいかにも魔法の使い手という感じで、勇者はすっかり気分を高揚させてそれを見つめる。


 何か考えていた様子のエルフの目が、狙いを定めるようにすっと細められた。それだけで震えるほど絵になっていて、期待が高まってゆく。伸びやかな腕が僅かにしなるように動くと──


 シュッと指先が柔らかく擦れる音と共に、小さな炎が灯った。


「魔法使い……お前、指鳴らせないのな」

「……火はついたよ」

「ああ、そうだな……」

「その件だが、ズレているぞ」


 顔を向けると、燭台の方を眺めて賢者が呆れた顔をしていた。視線を追って目を遣れば、なぜか蝋燭の芯の先から小指の爪ほど間を開けた空中に小さな火が浮いている。


「……なんだこれ」

「ちょっと、外したね」

「外したって……そんなことあるのか? 蝋燭に火を灯すってそういうことなのか? これ、蝋燭燃えてないよな?」

「概念の組み立てがおかしいからこうなる」


 魔法使いは考え深げな顔で賢者と勇者の顔を見比べると、ひょいと手を伸ばして燭台の持ち手を掴み、ほんの少しだけ持ち上げて炎に芯を触れさせた。火はより燃えやすい蝋燭に移ったらしく、十も数えないうちに蝋の溶ける匂いが漂ってくる。


「はい、できた」

「ああ、うん……ありがとう」

「非常識極まりないな」


 魔法は全く格好がつかなかったが、それをひとしきり笑って賢者が淹れてくれた心の落ち着く薬草茶を飲むと、珍しく冷えるような恐怖に強張っていた腹の底がゆっくりと解されていった。


 そうだ。よく考えればあの誇り高い英霊よりも賢者の方がずっと怖いじゃないか。だというのに、自分は何に怯えていたのだろう。そう思いながら追い払われるように賢者の部屋を出ると、なんだか今夜はよく眠れそうな気がした──が、やはり暗い中で一人になりたくなかったので、一緒に来るかと尋ねる魔法使いの部屋に転がり込むと、寝台の上で枕を抱えて丸まった妖精が手招きするのを断り……その夜は、聖剣を肩に立て掛け扉を背に座り込んで眠ったのだった。





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