四 夜の博物館 前編



 どこか遠くで、鐘の音がした。


「神殿の鐘です。夕べの祈りの時間を知らせる……」

 神官が少し寂しげな目をして音の方を仰ぐ。ついさっきそこの店で手に入れたばかりの菓子袋を渡してやると、一度きょとんとしてから「ふふ、大丈夫ですよ」と綻ぶように笑った。


 共通語を通訳できる彼と街で食料を調達して戻ると、妖精達は賢者と別れ、何やら庭園の隅の方に移動して遊んでいるようだった。片側に寄せて編んである吟遊詩人の髪に、これでもかというほど黄色や白のタンポポが飾り付けられている。甘い蜂蜜色に光る金髪に陽だまりのような花が映えて大変可愛らしく──彼の唯一凛々しい部分である瞳の表情が隠されている今、どう見ても少女にしか見えない様子になっていた。


「聞いてよ……花の茎からなんか白い汁が出てさ、髪がベタベタするからやめてって言ってるのに、妖精さんたらこんなにいっぱい差し込んでくるの」

 少女……少年が不満げに訴えると、この金髪の二人をどちらも「妖精さん」と呼んでいる神官が、戯れる子供達を愛でるような顔で微笑んだ。


「おやおや、お部屋に入ったら浄化して差し上げましょうね」

「うん、お願い……なんか頭が痒くなってきた気がするし」

「ふふ、任せなさい。それにしても、こんな庭園によくタンポポなんて生えていましたね」

 野の花に触れられて良かったですね、と微笑む神官に魔法使いが首を張って言う。


「はじめは無かったよ。僕が……種を撒いて、育てた」

「……おやまあ」


 魔法使いが神官に叱られているうちに勇者が博物館の職員に案内を頼み、一晩貸してもらえるという部屋の鍵を受け取る。整えられた庭にエルフがしこたま雑草を育ててしまったことを神官がぺこぺこ謝ると、ニーノと名乗ったひょろひょろの学者風の男は「お気になさらず。我々も一応学芸員ですから、妖精の戯れを受容し見守る程度の学はあります」と笑った。


「さっきお茶の準備をしてくれた人達とは制服が違うと思ってたが、学芸員?だからだったんだな」

「いえ、黒いお仕着せの皆様は王宮から送り込まれている護衛の方々ですよ。侍女や従僕としても教育を受けていらっしゃるとかで、普段はこっそり殿下方を見守っているんですが、ああしてお友達とお茶をなさったりする時は殿下が呼び寄せて給仕させているのです」

「へえ……そのわりに、豪華な菓子が色々出てきたが」

「ここは元々貴族の屋敷でしたので、厨房に食器の類は揃っているんです。ただ、どうやってあの速さで軽食やお茶菓子が提供されるのかは毎度のことながら謎ですね」

「……そっか」


 勇者が従僕兼護衛だという青年の人間離れした食器の片付け方を思い出しながら遠い目をしていると、ニーノが少し申し訳なさそうな苦笑になった。

「ですので、夜間は泊まり込みの研究職しか残っておらず……おもてなしにはきっとご満足いただけないと思います。展示物の解説ならばできるでしょうが、どうも睡眠不足で衰弱している研究狂いばかりなので、人の世話なんてとてもとても」


 そう言われてみれば、「変人度合いで言えば私が一番ましなんですが、とはいえ似たり寄ったりですから」と笑っている彼の目の下にも根深そうな隈が見える。以前は月の塔で魔術師達の世話をしていたという吟遊詩人が「わかるわかる、つい夜中まで仕事しちゃうんでしょ? でもちゃんと寝た方がいいよ」と笑った。勇者はそれに強く同意してから「あとで……ええと、お茶とかお持ちしてみましょう」と言っている男に首を振ってみせる。


「普段は野宿だし、世話とかは別にいいよ。部屋を貸してくれるだけで十分だ」

「そうですか? 良かった! 私の茶の味もあれですが、使用人棟しか人が泊まれるように整備されていなくて、実は部屋も狭いんですよ。でも野宿よりはいいと思います」


 すまなそうだったのが一転、あっけらかんと笑う。ここで食い下がって「いえいえ、お客様を云々」と言わないあたりが学者っぽいなと思ったが、勇者としては丁寧にもてなされるより勝手に使えという空気の方が気楽だ。


 それから寝不足の学芸員は心配の種がなくなって気が楽になったのか、えらく詳しくこの屋敷の建築様式だとか博物館の歴史だとかを話してくれた。勇者は半分聞き流していたが、神官は嬉しそうにあれこれ質問している。


 妙に長い説明を要約すると、話している間に到着した目の前の部屋は昔この博物館が貴族の屋敷だったころ、住み込みの使用人が寝起きする場所だったらしい。しかしそれでもこぢんまりとしたそこは十分に綺麗な造りであったし、共用だという談話室や給湯室、風呂はかなり広々としていた。


 案内してくれたニーノに礼を言って別れ、各々荷物を置いてから廊下を挟んで向かいにある談話室に集合する。壁際に……これが剥製というやつだろうか? 博物館らしく、詰め物か何かをして死んだ鳥を生きている姿に見せかけたようなものが飾ってあった。そちらをちらっと見た魔法使いが気持ち悪そうに距離を取ったので、ガラスの覆いの上からマントを掛けておく。


 しばらく茶を淹れたりして体を休めていると、空が暗くなった頃には研究棟へ行っていた賢者が戻ってきた。

「お帰りなさい、何のお手伝いだったんです?」

「エルート語の文書の翻訳と、植物化石の同定だ」


 神官の質問に答えながら椅子にかけ、魔法使いが差し出した茶を軽く胸に手を当ててから両手で受け取る。人と話して疲れた様子の彼が一口飲んで静かに息をついたところで、勇者は思い切って黒ローブの学者に「例の名前」で呼びかけてみた。


「……メル?」


 こちらに顔を向けた賢者が、少し居心地悪そうに勇者を見つめ返す。

「……何だ」

「なあ……お前、そんな可愛い名前だったのか?」

 似合わないなと思いながら勇者がおずおずと尋ねると、賢者は嫌そうに顔をしかめて首を横に振った。


「魔法名だ」

「え?」

 魔法名とは何だろうか。耳慣れない言葉に考えを巡らせていると、神官がテーブルに食事を並べ始めながら教えてくれる。


「月の塔に籍を置いている人に与えられる、あるいは魔法や魔術で功績を挙げた人に塔から贈られる、魔法の使い手としての名前ですよ。聖泉メルは、気の神域の泉の名ですね。叡智が湧き出ていると言われる、とても綺麗な場所です」

「……月の塔? お前、魔術師になるには魔力が足りないとか言ってなかったか?」


 疑問の視線を投げると、早々に飲み干したらしく空になった茶器を片付けるために立ち上がっていた賢者が、振り返って軽く肩を竦めた。

「名を与えられるのは術者だけでなく、魔力量で基準値を下回る研究者も含まれる。魔術の使用に関してさしたる才はないが、魔法陣の研究はいくつか行っていてな」

「へえ。確かにそういうの好きそうだよな」


 なるほどそれなら納得だと頷いていると、神官が「いえ、彼の『研究』はそんな簡単な話ではありませんよ。研究だけで魔法名をもらえるなんて滅多にないことです」と首を振った。


「今代の賢者は魔術師としても名が知れている……といいますか、転移魔術の発明者として歴史に名を残す魔術研究者ですよ。それにレフルスには『幻遷の賢者テルファム=トルムセージ』という二つ名も──」

「その名はやめなさい」

 神官は仲間の偉業が誇らしいのかあまり見たことのない少し自慢げな微笑みを浮かべていたが、彼がどこぞの魔剣が好みそうな響きの名前を口に出した途端、賢者がいつになく早口に話を遮った。


「幻遷の……ふふっ、ださい──痛い! やめてよ、ごめんって!」

 そして吟遊詩人がこそっと呟いてにやけるのを見下ろしたかと思うと恐ろしい速さで耳をつまんで捻り上げ、次いで興味深げに「テルファムージ……」とそれを復唱した魔法使いの長い耳も素早く狩る。


「……いたっ、痛いよ賢者……耳は、耳はだめ……ねえ、意地悪するなら、ミルルって呼ぶよ! 痛い……ルーフルー! イーラクルラファーナ!」

 賢者がふんと鼻を鳴らして両手に持った耳を離すと、妖精達は慌てて魔王から距離を取って神官の陰に隠れた。


「……ミルル?」

「メルの、フェアリ語風の愛称だな」

 勇者の疑問へ賢者がため息混じりに答えた。その説明を補足するように、魔法使いが不貞腐れた声で囁く。


妖精語フィアレは、可愛く呼ぶ時に使う……ミルルのばか。エルフの耳は、やわらかいのに」

「……なあ、流石に賢者に『ミルル』はちょっと気持ち悪いから……やめてやれよ」


 勇者としては賢者を助けてやったつもりだったが、気持ち悪いと言われたのが不愉快だったのかなぜか勇者の方が彼に睨まれてしまった。賢者は長身で、まあ雄々しさとは対極にいるような感じだが……そこで身を寄せ合って怯えている二人と違ってその容姿に女性的なところは全くない。可愛い名前が似合わずとも別に良かろうに、気難しい奴だ。





 ミルルもメルもやめろだとか、魔法使いの魔法名はリフというのだとか、そんな話をしながら夕食をとって──この辺りの屋台の味はイマイチだと思ったところまでは覚えている。


 ふっと目を覚ますと、談話室は明かりを落とされて真っ暗になっていた。ソファに横になって眠っていたらしく、腹に毛布が掛けられている。そこまでされて起きなかったとは自分もすっかり仲間の気配に慣れたものだと、不思議な気持ちで毛布を畳んだ。風呂に入り損ねたが、頭を触ってみた感じだと神官か魔法使いが浄化をかけてくれたようだった。


 机の上へ手を伸ばし、誰かが準備しておいてくれたらしい魔導ランタンに光を入れながら立ち上がる。以前見たものより少し赤みがかった明かりはあたたかい色合いで、吟遊詩人の話を思い出す限りこちらの方が少し安物なのかもしれないが、これはこれで美しかった。


 談話室を出て、花模様の絨毯を夕焼け色に照らしながら歩いている時は、部屋へ入ったら着替えてすぐに休もうと思っていた。しかし部屋の前に着いた時、勇者はふと好奇心に捕らわれた。ランタンを高くかざして廊下の向こうまで照らす。あそこの角を曲がって廊下を一本抜ければ、そこはもう真夜中の博物館だ──とても、探検してみたい。いや、するしかない。


 気配を消してそうっと仲間達の眠る部屋の前を歩く。賢者に見つかれば怒られるに決まっているので、野ウサギに忍び寄る時の衣擦れの音ひとつ立てない歩き方で素早く通り抜けた。神話を描いた天井画の下を過ぎて数段しかない小さな階段を下りると、大きく開けた空間へ出る。


「竜の、骨?」

 展示室へ入ると、高い天井へ届かんばかりに巨大な生物の骨が立ち上がって威嚇の姿勢を取っていた。その形は故郷の商人が連れていた竜に少し似ていたが、それよりずっと大きいし牙も鋭い。カシャンと音を立ててランタンを掲げると揺れる明かりに合わせて影が大きく伸び縮みして、まるで今にも襲ってきそうな迫力がある。足元に文字の書かれた板が目に入って、何かの説明だろうと屈みこんで明かりを近づけたが、共通語なので読めなかった。


 明日、賢者に読んでもらおう……いや、だめだ。夜中に忍び込んだのがバレる。

 どうやって明日、自然に賢者をここへ連れ出そうか考えを巡らせながら歩みを進めた。竜だけでなくおそらく魔獣だろうこんがらがった形の獣の骨や、談話室にもあったような鳥の剥製、植物の葉が宝石に姿を変えたような化石が、暗闇の中で息をひそめるように陳列されている。


 そうして死んだ生き物が並べられている部屋を眺めているうちに、勇者はまるで自分が死後の世界を歩いているような気分になってきた。全てが死に絶えたような静寂の中、ただ規則正しく響く足音だけが己の生を証明している。


 そんな世界を見渡している時、勇者はふと部屋の隅にひっそりと隠されたような扉を見つけ、そして目を奪われた。縁取りの装飾が美しいだけで何の変哲もない木の扉なのだが、なぜか心惹かれる……見れば見るほど、この扉を開けなければならないという気持ちにさせられる魅力があった。


 持ち手に手を掛けて引くと、古そうに見えるそれは不思議なくらいすっと音もなく開いた。吸い寄せられるように中へと足を進める。

 室内は小さな書斎のようになっていた。賢者の塔のように天井までぎっしりと本で埋めつくされているのではなかったが、凝った彫刻の施された本棚が壁際に並び、分厚い樫の一枚板で作られた書き物机が置いてある。


──おや、久方ぶりの客人が根源の国の勇者とは、また面白い


 聞こえた声に顔を上げる。戸を開けた時には誰もいなかったはずの本棚の前に、この古風な書斎には不似合いな鎧姿の男が佇んでいた。


「あなたは……」

 男の体は灰色がかって色味が薄く、背後の景色が透けて見えていたが、なぜかそれを見つめる勇者の精神に驚きの色はなかった。ランタンを壁に掛けて扉を閉めると、半透明の男が整えられた顎髭に触れながら穏やかに微笑む。


──我が名はルイード・アルバ=ロザ。四百年ほど昔に死した、過去の遺物よ。勇者殿、今宵はよくぞ参られた。力無き死者の身ゆえ大した持て成しはできぬが、歓迎しよう


 穏やかながら威厳を感じるその言葉を聞いて、勇者ははてと首を傾げた。


「英霊アルバロザ卿の……本物?」





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