六 大穴



 悲鳴を上げながらよたよた走る神官を捕まえて、茂みの陰に引きずり込んだ。

「だから走ると追いかけてくるって言ったろ! 狙われそうな時は座ってじっとしとけ!」

「ご、ごめんなさい」


 勇者は立ち上がって通り過ぎていった蜂の群れを目で追うと、ニヤリとして焚き火から火のついた薪を拾い上げた。

「あれだけ数がいるってことは、近くに巣があるな。蜜蜂の蜜にありつけるなんて、運がいいぞ」

「ねえ勇者、だからあれは蜜蜂じゃないってば! 一匹一匹が拳より大きいじゃん! 蜜蜂って小指の爪くらいの大きさの虫だから!」


 少しずつ森を歩くことに慣れてきたとはいえ、仲間達はまだ蜂も怖いようだった。小さな子供のように騒ぐ彼らに親心のようなものを抱いて、勇者はやれやれと安心させるように笑いかけてやる。


「何言ってんだ。ハエじゃあるまいし、蜂がそんなに小さいわけないだろ。ちゃんとやれば刺されないから、やり方よく見てろよ?」

「ねえやめてよ! 絶対やばいってば!」

「はいはい」

「蜜を蓄える種ではあるが、吟遊詩人の認識の方がより正確だな。あれの一般的な呼称は『蜜蜂』ではなく『殺人蜂』だ」

「ほらみろ! ねえ蜂の巣なんかほっといて早く行こうよ、蜂蜜なんて街に着いてから買えばいいじゃない」


 勇者は大騒ぎしている吟遊詩人を「いいから見とけ」と適当にあしらうと、火と煙で見張りの蜂を牽制しながら木に下がっている巣へ近づいた。そして、敵を排除せんと群れが飛び出してきた瞬間を見計らって足で強く地面を叩き、ハッと短く息を吐いて威嚇の気を放つ。


 蜜蜂の群れが一斉にくるりと背を向けて逃げていったのを見届けると、勇者は素早く巣へと歩み寄った。もたもたしていると戻ってきてしまうので、今のうちに巣ごと取ってその場を離れるのだ。


 しかし勇者が枝から巣を引き剥がそうとした時、木から飛び降りて風のように走り寄ってきた魔法使いが勇者のマントのフードをぐいと掴んで引っ張った。

「ぐっ、おい魔法使い、首が──」

「だ、だめ! 赤ちゃんがいるから、だめ!」

「あー、そういえばお前幼虫好きだったな……」

「貸して、針葉樹。僕がやる」


 そう言っていつになくキリリとして喋る魔法使いは、荷物から木の椀を取ってくると巣の下に当てがい、つっと人差し指の先で空中を上から下へなぞった。するとみるみるうちに蜂の巣からとろりと蜜が流れ出し、甘い色に輝きながら椀の中に溜められてゆく。


「おお、凄いな」

「赤ちゃんのごはんだから……少しだけね」

「おう」


 群れが戻って来る前に、小さな穴から中を覗き込んで幼虫を見ようとしている魔法使いをさっと小脇に抱えて巣から距離を取った。蜜のたっぷり入った椀を掲げて見せると吟遊詩人が頭を抱え、賢者が「そなたは本当に常識では計り知れぬな」と、どう聞いても褒めていない冷たい声で言った。


「あ、驚いたか? 俺もこれに気づいたのは十五の時なんだが、ああやって威嚇すると蜂が逃げるんだよ。裏技だが、お前らなら真似していいぞ」

「威嚇っていうか……塔でやった時も思ったけど、その無音で吼えるみたいな技さ、肉食型の魔獣が魔獣同士で喧嘩するときにやるやつじゃん……ねえ、なんでそんなことできるわけ? もうやだ、秘境の狩人怖い……」

「ふむ、私の記憶違いでなければそなたは確か口から火を吐くのが嫌だと言っていたが、もしや他の魔法を打ち出すのならば良いのかね? あれは魔吼まこうという魔獣が使う魔法の一種だ。恐らくだが、人の身で扱えるのは渦の魔力の影響であろうな。渦とは本来魔獣や魔族が持つ魔力で、人間には発現せぬのだが──」

「えっ?」


 己の魔力が魔獣と同じだと言われた勇者はたじろいで仲間を見回したが、それには賢者が馬鹿にした表情のまま首を振ると「最後まで聞きなさい」と言った。

 そわそわとなって口を閉じると、勇者の不安を悟ったらしい神官がすかさず、山を歩いている時の情けない悲鳴とは違う聖職者然とした声で優しく口を挟む。

「勇者、心配はいりません。お忘れですか、魔力の色とは神の祝福なのです。祝福とは喜ばしいものであって、それ以外の何ものでもありませんから」

「う、うん」


 緊張でもぞもぞしていると横から白い手が伸びてきて、勇者の持っている蜂蜜の椀に魔法使いが指を突っ込んだ。甘い金色に光るそれを口に入れた途端に周囲を漂うキラキラした光が一段階強くなって笑うと、神官も少し力の抜けた笑顔になりながら説明を続ける。


「魔王や魔族、そして魔獣は渦の神レヴィエルの被造物であると言われています。調整神はこの世の善悪の均衡を司り、そういった恐ろしげな生き物を生み出すと同時に、また聖剣のような強い善の存在にも加護を与えるのです」

「──故に、黎明の勇者の伝説にある『火の勇者』『渦の槍使い』という言い伝えは誤りであろうと私は考えている。わかりやすく戦いの象徴である火とは口伝を重ねる内に取り違えられたのだろうが、歴代の勇者に祝福を与えてきたのは渦の神である可能性が高い」


 賢者が黒いローブの腕を組んで先を繋いだ。その説明を一度で全て理解できたかと言われればそうでもなかったが、とりあえず自分の魔力に問題がなさそうなことはわかったので勇者はほっと息をつく。


「つまり俺が渦の魔力?を持ってるのは、勇者を選んでるのが渦の神だからだろうって、そういうことだよな? ……なあ、でも渦の神様って確か『お休み』とか言ってなかったか?」

「ええ、お休みですよ。ですから今回は神々の長姉であるフランヴェール神が勇者を選定し、本来の仲間の人数から一人減る代わりに、貴方が渦と火の両方を持っているのではないかと思います」


 優しく諭すような神官の声に不安が薄らいだところで、勇者はついに、ずっと気になって仕方のなかったことをおそるおそる尋ねた。


「──あのさ、なんで……休みなんだ?」


 神官はそんな勇者を見つめ返して、実に簡単に首を捻った。

「さあ?」

「さあって……そんな、いい加減な感じでいいのか?」

「良かろうと悪かろうと、神々のなさることを我々がどうにかできるわけではないのですから、ありのまま受け止めるしかありません」

「……まあ、そう言われればそうなんだが」


 勇者は神官の聖職者らしい善良で毅然とした態度を尊敬していたが、聖職者故のこういう妙に達観しているようなところは……ちょっとついていけねえなと思うこともあるのだった。





 道は深い森から斜面にぽっかりと開いた洞窟へと変わり、勇者達は尖った石の下がった天井の高い鍾乳洞を魔法の明かりで照らしながら進んでいた。濡れて滑りやすくなった岩の地面では神官だけでなく賢者も一度転びかけ、危ういところで勇者に支えられて世にも恐ろしい目つきになっている。


「よく考えるとさ……この国は全部地底なんだろ? 洞窟の中に洞窟があるって変な感じだよな」

「確かに……っ、そう、考えると、面白いですね」

「……少し休憩にするか?」


 ここまで来ると本格的に国境の街が近づいてきたらしく、歩きながら喋るとすぐに息切れしてしまう神官を除く剣の仲間達は「街に着いたらこの目立つ妖精をどうするか」という議題に頭を悩ませていた。


「顔と耳と、あと髪はマントで隠すとしてさ、その花とキラキラは……引っ込められないの?」

「……ひっこめる」

 吟遊詩人に尋ねられると、魔法使いが当惑したように耳を倒して足元を見下ろす。

「……どうやって?」

「いや、俺に聞かれても」


 なぜか頼るように勇者を見てきたので首を振ると妖精は賢者の方へ視線を移したが、しかし頼みの綱の学者は呆れたような不可解そうな顔で首を振った。

「星を纏うのはエルフの体質と聞き及んでいるが……そもそも、その花は何なのだ? その顔を見るに、そなたが好きで咲かせているのではないらしいが」

「えっ?」


 てっきり全てのエルフが花を引き連れて歩いているものとばかり思っていた勇者は驚いて魔法使いを見たが──なぜか彼はこれ以上ないほど耳を倒していやいやと首を振っていた。

「な、内緒……! 教えない」

「は?」


 勇者がぽかんとすると、賢者も眉を寄せて腰に手を当てた。

「知っているのならば教えなさい。私が知っているエルフはそなたの他にあと二人、つまりそなたの両親だが、そのどちらもそのような花は咲かせていなかった。何かわからねば対策も施しようがない」

「絶対……教えない!」


 頑なというより我儘に見えるその様子に賢者は大きくため息をつくと、威圧するような目でびくりと魔法使いを立ち止まらせ、しゃがみこんで透き通った花を一輪ぶちりと千切って睨むように観察した。

「まあ、何にしろ魔法であることは確かで、魔力が光を帯びることで可視化しているのも確かだ。実験的にはなるが、星と纏めてその光反応を消す魔術を施そう。面積が必要だ、背中を出しなさい」


 そう言って何か策があるらしい賢者が立ち上がって見下ろすと、しかし魔法使いはそれにもぷいとそっぽを向いた。

「……嫌だ」

「何ゆえ」

「……はずかしいよ」


 馬鹿なことを言うなと強引に服を剥ぎにかかるかと思ったが、意外にも賢者は腕を組んで面倒そうな顔をしただけだった。

「ならば、腕ならば良いか」

「……肘までね!」


 気難しい魔王が言うことを聞くのが楽しいのか、なぜかちょっと偉そうな様子になってきた魔法使いの肩を賢者が素早く掴み、目にも留まらぬ速さで頭をはたいた。途端に萎れた様子になって大人しくなったエルフをふんと馬鹿にすると、賢者は近くにあった比較的濡れていない岩へ腰掛ける。

「そなたらも少し休息を取りなさい。この妖精の我儘を聞くには魔法陣の小型化を図る必要がある。少し時間が欲しい」


 皆がわらわらと座れる場所を探し、吟遊詩人が暇つぶしにリュートの練習を始めた。空中にあれこれ図を書いて考え込み始めた賢者は頭を使うのが楽しいのか、作っていた嫌そうな顔が少し崩れて瞳を生き生きとさせている。勇者も少し気分転換しようと、何か面白いものを探して周囲を見回した。すると、先日話題に出てから気になっていた物を見つけて歩み寄る。


「お前……ちっちゃい山だったんだな」

 膝丈まで伸びた、石筍というらしいとげのような岩の隣にしゃがみ込んで勇者が話しかけていると、岩に寄りかかって地図を眺めていた神官がプッと吹き出して振り返った。

「勇者……あなたって、時々すごく可愛らしくなりますよね」


 少し気を抜き過ぎていたようだ。顔が赤くなりそうなのをごまかすように「……そうか?」と素っ気なく返すと、余計に笑われてしまった。狩人としての誇り高い自分像をガラガラと崩されてシダルは内心焦ったが、しかし彼はもう「有能な狩人」の自分にしか価値を見出せなかった狼とは違うのだと思って、恥ずかしさを我慢すると腹のあたりでそわそわさせていた腕を下ろす。すると向こうの方で賢者の手元を覗き込んでいた妖精が近寄ってきて「針葉樹は、可愛くなっていたの? もう一度やってごらん……」と言いながら彼の頭を何度も撫でたので、再び羞恥心が湧き上がってそっぽを向いた。


 そして一時間もしないうちに──勇者も少しずつ皆に教わって時計の読み方を覚えてきたのだ──丸い魔法陣を不思議な帯型に書き換えた賢者が、魔法使いの袖を捲って魔術を施し始めた。

 実を言うと、鍾乳石から滴る水を避けるために黒いマントのフードを下ろし、腕を指でなぞって黒い魔法陣を刻みつけた賢者がいつぞやの気の神官を彷彿とさせて勇者はぞっとした。魔術が働いたのか妖精の纏う森の気配がぞわりと影のようなもので覆われる感じがして、蝋燭の火が消えるようにふっと花も星も見えなくなる。さすが賢者と言うべきか魔術は一度で成功したものの、洞窟の暗さも相まってかなり恐ろしい光景だった。


「──気の魔力は風としての性質と同時に、夜の気質もまた持ち合わせている。水、土、火、気の神々にはそれぞれ司る時間帯があり、気神エルフトは夜の神だ。故に気の魔力は他と違い光を発するのではなく吸収し、魔法陣は影で描かれる。つまりそのような性質を持つ気の魔術によって、魔法使いの花の魔力が放つ光を吸収しているのだ。魔法使い、それに魔力を注いでみなさい」

 賢者が指示すると、花の消えた地面を触って不思議そうに耳をぴょこぴょこさせていた魔法使いが、腕の紋様に視線を移した。するとじわじわと紋様が端から光り出し、やがてすっかり賢者の黒から魔法使いの銀色へと入れ替わる。しかしどうやらそれで魔法が解けるのではないらしく、花も星も消えたままだ。


「今ので魔術の権限が私から魔法使いへ移った。魔術とは、魔法陣を用いることである程度体質や魔力の色を無視した魔法が使えるようにする技術だ。光の性質が強い魔力でも、魔法陣があれば変換式を組み込むことで影の魔術を発現させることが容易となる。まあこやつは本来ならば性質の相性など魔力量でどうとでもなるはずだが、それをどうにかするには器用さが足りぬらしい」

 段々とわからない顔になってきた勇者を見てニヤっとした吟遊詩人が「つまりさ、なんとなく本能で魔法を使ってる妖精さんでも、魔法陣があれば小難しいことができるってことじゃない?」と言った。


「故にこやつには魔術を覚えさせたいのだが、どうにも未だ範囲指定の円一つ描けぬ」

 そう言われた魔法使いがあまりに哀れな様子になったので、可哀想に思った勇者は足元をすごい速さで走っていたよくわからない脚のたくさんある虫を捕まえて、ひょいと渡してやった。魔法使いは興味深げな顔になって手の中の虫を撫でたが、その代わり賢者がひどい嫌悪の表情になって数歩距離を取った。

 そうして光らなくなったエルフを連れて、一行は暗い洞窟を抜けた。外はこんなに明るかったかと思うきららかで眩しい太陽の光に目を細め──そして少し目が慣れたころ何気なく空へ目をやった勇者はヒュッと息を呑み、物心ついてから初めて何もないところで転んでしまう。


 空に、巨大な穴が開いていた。


 いや、正確に言えば穴が開いているのは空ではなかった。というよりも、今まで空と信じて見上げてきたものが本当に岩天井だったのだと、勇者は初めてその身に思い知らされた。その「穴」に近づくにつれ見慣れた青い空の色が薄まり、視線を動かすと少しずつ赤みがかった灰色が加わって、いつの間にかゴツゴツした岩へと変わる。頭上に開いた巨大な岩穴──その大きさをどのくらいと言い表せば良いのだろうか。勇者の語彙ではとにかく巨大としか言いようがなかったが、強いて言えば、山なんて大きさでは全く足りなかった。


 けれど勇者を何より驚かせたのは、空に大きな岩穴が開いているというその不思議な光景ではなかった。


 その巨大な穴の先に、本物の空が見えたのだ。


 今まで見ていた空が美しい青色だったならば、この色は──この光に満ち溢れた、涙が出るくらい鮮やかにきらめく青い色は一体何色なのだろう。


「勇者の瞳の色ってさ、空色だったんだね……」


 それまで黙って目の前の景色に圧倒されていた吟遊詩人がぽつりと言った。

「……そうだね」

 返事に困っている勇者の代わりに魔法使いの静かな囁き声がそれに答え、淡い色の目がこちらをひたりと見た。

「空の色だよ……鳥達が爽やかに、どこまでも……高く飛べる、青空の色」


 いつも小鳥や木ばかり見ているこのエルフと目が合うことはあまり無いのだが、たまにその氷色の目にはっきりと覗き込まれるその時は、常のぼんやりとした雰囲気が鳴りを潜め、人ならざるものの神秘性ばかりが際立つのだった。無表情であることには変わりないのだが、それが却って森の巨木に敬意を抱くような──こいつは喋らないだけで実はとんでもなく賢いのではないかと思うような、そういう風な生き物に見えるのだ。


 そんなエルフが己の瞳の色をあの美しい空に例えたのは光栄に思ったが、しかし勇者は自分の瞳の色を思い出しながら頭上を見て首を振った。

「いや……確かに青いが、あんなに綺麗な色じゃないだろ」

「ううん、よく似てるよ。勇者は笑ってる自分の顔を鏡で見たことないんじゃない? 勇者って笑うとさ、目がきらっとしてすごく綺麗な色に光るんだよ。それ見てると、この人は綺麗な心をしてるんだろうなっていつも思うんだけど──あ、赤くなった」

「ふふ、吟遊詩人は褒め上手ですからね」


 吟遊詩人の言葉がなんだかむず痒い。勇者は困ってしまって洞窟を出た時に脱いでいたマントのフードをぎゅっと掴んで下ろした。

 故郷の村の男達は、軽々しく称賛を口にするのは男らしくないだとか、男同士で褒め合うのは気持ち悪いだとかで、あまり身の回りの人間を口に出して褒めない奴らばかりだった。それと比べて何の忌避もなく他者を手放しに褒められる仲間達を、勇者はこちらの方がずっと格好いいと思っていたが……しかしその褒め言葉が自分に向くとなると、気の抜けた姿を見られた焦りとはまた違って、どうにも居心地が悪い。


 視線を下ろせば、その空の色を一筋も邪魔したくないと言わんばかりの、白一色で埋め尽くされた街が小さく見えた。穴から街へ、まるで神の国に続く道筋のように天から光の柱が降り注ぐ。そしてその光の柱の中を昇るように、水晶で出来ているように見える細い透明な階段が、光を散らせながら高く高く、空の穴を超えて地上まで続いているのだった。


 そして勇者が照れくささを誤魔化すためによそ見をしていた、その時のことだった。


「賢者の目は……」


 一人だけ会話に加わっていなかった彼を話に入れようとしたらしいエルフがその一言を発した瞬間、ピリッとその場の空気に緊張が走った。皆が息を止めて一斉に空から視線を外し、恐怖の瞳の持ち主を恐々と見る。


 それまで我関せずといった顔で空を見ていた賢者が、ちらりと視線だけで振り返った。何度見ても慣れない、闇を凝縮したような目。ああ、賽は投げられてしまった。ゴクリと唾を飲んだ勇者はとりあえず、魔法使いが叩かれそうになったら防いでやろうと身構え──


「賢者の目は……夜の木陰色だね」

「そうか」

 そして特に何の表情も浮かべず大穴へ視線を戻す賢者を、仲間達がどっと息をついて、一つ山を越えたような安堵の顔で見届けた。


「良かった……魔法使いの感性が妖精さんで良かった……」

「……ほう。ではそなたの感性ではどのように見えているのか、聞かせてもらおうか」

「あ、やばい。助けて神官」

「またそんなに楽しそうな顔をして……意地悪はおやめなさい、賢者」

「ふん」


 そうやって仲間達は、そんな和やかなようなそうでもないような会話を交わし、そろそろ街の方へ降りようかと話しつつも、しかしみな目を逸らすのが名残惜しくてその場から動けないまま空を見つめていた。


 空が綺麗だった。


 夕日の鮮やかさにほんの少し足を止める事はあっても、昼間の空をこんなにも夢中で眺めたことなど今までにない。地上に出たら、あの鮮やかな青い色が視界いっぱいに広がるのだろうか。そう思うと早く足を進めたいのに、今のこの瞬間の感動が終わってしまうのが惜しいのだ。


「──覚えておきなさい、これが『知る』ということだ」


 するとそんな面々をどこか満足そうに見ていた賢者が、彼にしては優しく聞こえる声で静かに言った。

「そしてそなたらが空の美しさを知ったのは、この根源の地に生まれたからでもある。地上の空しか知らぬ者の大半は、この光を当たり前と深く見つめることもせず、目にしていながら気づかぬままに生きているのだ」

「これを、気づかない?」


 信じられない気持ちで賢者に視線を移すと、彼はそんな勇者に口の端を上げて少し嬉しそうに笑った。

「己の中の空虚な無知はしかし、それが無知から知へと鮮やかに変わるその時、何よりも得難い宝となり得る──好奇心を持ちなさい。知らぬことを知ろうとしなさい。そうすれば、そなたらの心には美しい宝が際限なく降り積もってゆくだろう」


 神官が空を見上げたまま、ほうと感嘆のため息をついて優しく言った。

「私は今まで背の紋にどれだけの感情を奪われていたのか、まるで初めて見るようにこの空の美しさには言葉もないですが……賢者、貴方の知に対する姿勢にも私は感動しましたよ。妖精さんが貴方に懐いているのにも納得です、エルフの好みそうな感性をしていらっしゃる」

「賢者はね……とても素敵な、星の本を書くんだよ。僕……賢者の書く文章が、とても好き」

「星の本? 詩集とかか?」


 それはかなり読んでみたいと思って勇者は身を乗り出したが、賢者が途端に嫌そうな顔になってじとりと見下ろした。

「……私が詩集を出版するような人間に見えるか? 天文学の本だ」

「あ、なるほど」


 そうして、ようやく美しい景色から視線を外した剣の仲間達は、眼下に見える白い街へ向かってゆっくりと坂を下っていった。勇者は最後尾からそれを眺めると微笑んで、そして綺麗なものを見て機嫌が良さそうな魔法使いの後ろ姿にふと思った。


 あれ? 賢者の瞳が『夜の木陰色』って……もしかして月の光も届かない真っ暗闇って意味じゃないか?


 ひとつ頷いて、気づかなかったことにした。





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