五 月の塔
「熱を出すかと思いましたが……不思議なくらい元気そうですね。勇者、痛みはどうですか?」
勇者は右手を裏表とひっくり返して、彼からしてみれば有り得ないほど均一に整った縫い目をまじまじと見ながら、上の空で答えた。
「すごいな、これ……ああいや、そりゃちょっとは痛いが、別に大丈夫だよ」
「そうだろうね……突き刺された瞬間も呻き声ひとつ上げなかったもんね……」
そう言って吟遊詩人が理解し難いと言わんばかりに首を振るので、勇者は顔を上げると「それは違うぞ」とはっきり否定した。
「あのな、あいつは馬鹿みたいに強いんだぞ? いくらなんでも俺だって痛かったが、呻き声なんて出してたらそれだけ隙ができるだろうが」
「あのね勇者。普通は必死に叫び声を我慢して、それでも堪え切れない呻き声になるんだよ……」
「は?」
噛み合わない応酬をしていると、熱が下がり始めたばかりの神官が苦笑して背にした木へ寄りかかった。
「……まあ、それほど辛くないのなら良かったです。ほら、そろそろ包帯を巻きますから手を貸してください。痛み止めと化膿止めを調合しますから、食後に飲みましょうね」
「あ、うん」
素直に頷いて手を差し出し、包帯を巻き終わるとすぐに食事になった。街までまだ距離がある今はパンが貴重だからと、朝食は魔法使いがどこからか引っこ抜いてきた謎の芋のスープだ。芋のくせに妙に緑っぽい色をしていたがスープの味はやはり絶品で、勇者はもうすっかりこの不思議なエルフが作る料理の虜なのだった。
「お前、手先は不器用なのに料理は本当に上手いよな……」
「一言多いですよ、勇者」
「あ、ごめん」
神官にたしなめられて謝ったが、魔法使いは最初から全く聞いていなかったらしくぼんやりと梢の隙間から空の方を見上げていた。動物のように白い部分の少ない目はいまいち何を考えているのかもどこを見ているのかもわかりにくいのだが、しかし淡い青色の瞳がため息の出るほど綺麗な色をしているので、こんな晴れた日には意味もなくつい長々と眺めてしまう。
「……ん?」
「あ、すまん。用はない。目の色が綺麗だと思って」
「……ん」
視線に気づいてこちらを見た魔法使いが、返事を聞くと僅かに頷いてまた空を眺める作業に戻る。どうやらこの美しい生き物には「照れる」という機能が備わっていないのか、彼はその奇跡のような容姿をどれだけ褒められても軽く耳を動かす以上の反応をしないので、勇者としても気軽に思ったことを口にできた。
「わかるよその気持ち……宝石に例えるのも勿体無いくらいの色だよね。何色って言えばいいのかな? 単純に薄青って呼ぶにはキラキラしてるし」
身を乗り出して妖精の瞳を覗き込んだ吟遊詩人が考え込むと、今度は話が聞こえていたらしい魔法使いもおっとりと首を傾げた。
「うーん……ひんやり、青、白……コールフレール、シュラーリエ」
「『冷えた朝の氷色』」
退屈そうな顔のわりに会話は追っていたのか、黙ってスープを味わっていた賢者が助け舟を出すと、魔法使いが耳をピンと立てて頷いた。
「そう、それ……冷えた朝……の、氷色」
「……へえ、今のってエルフ語か? 氷って俺は見たことないんだが……こんな色してるなら見てみたいな」
「魔術で作られる食用の氷は水晶のような透明だが、氷の張った湖は近い色をしているな」
「氷の張った……湖」
興味を引かれたのか少し腰を浮かせて伸び上がったエルフに賢者が軽く首を振る。
「国内で自然に湖が凍ることはない。地上に出た後、冬になるのを待ちなさい」
「うん……」
地上の冬を想像して楽しみになったのか、どことなく嬉しそうに妖精が頷く。敵に襲われた次の朝にしては緊張感の無い仲間達だが、しかし一応敵から身を隠そうという意識はあったらしい。食後は手早く荷物を纏めると、まだ少し具合が悪そうな神官を勇者が背負って先を急ぐことになった。
「ほら、乗れ」
「あの勇者、すみません、聖剣を背中からどかしていただけませんか」
「ああ、そういえばこれ危険物だったか。どうするかな……」
勇者はしばらく剣帯をいじくり回して聖剣を腹の方に持ってきたり腰にぶら下げたりしてみたが、どうにも人を背負った状態で絶対にぶつからない場所が思いつかず、面倒になって神官の方を腹側に抱えて行くことにした。
「痩せてるとはいえ神官もそこそこ背丈あるのに、子供みたいに抱えるね」
「あの、勇者……せめて怪我をしていない方の腕に乗せてくださいな」
「いや、しばらく右手で剣を握るなって言ったのはお前だろ。なんかあったら左で抜くからこっちで正解だ──あ、首には掴まるなよ? 剣の柄に当たる。マント握っとけ」
「落ちそうで怖いです」
「落とさねえって」
正直に言うとでかい荷物がそれなりに邪魔だったが、その代わり息切れをしなくなった神官が進みがてら昨夜の話の続きをしてくれた。
「色のついている魔力を持つ人は、神から特別な祝福を受けていると言われています。例えば私の青は水の神から、賢者の灰色は気の神から」
「ふーん……で?」
わかったようなわかっていないような顔の勇者へ微笑ましそうにすると、神官は穏やかに先を続ける。
「祝福を得た魔力は、その神が司るものに対して強い適性ができます。フランヴェール神の愛し子であり、戦いと守護の気質を持つ内炎魔法が得意な勇者の場合、魔力は火の気を帯びていますね。貴方が触れた魔石は赤みがかった金色をしていましたでしょう? 貴方の魔力は火と渦が混ざったものですよ」
「触れたっていうか、口に押し込まれたんだけどな……ええとつまり、俺は赤っぽい魔力だから火の魔法が得意だと」
「ええ、その通りです」
しかし、色つき魔力は良いことばかりでもないらしい。簡単に言えば、得意なものができる代わりに苦手なものもできるのだそうだ。火と水は相容れず、気と土も反発し合う。
「こういう性質を把握しておくと、例えば昨夜の異端審問官は火の系統の術が得意で、水の浄化や癒しは使えないと、そういうことがわかるようになってくるわけです」
「なるほどなあ……覚えるのが大変そうだ」
「こうやってお話ししていればそのうち慣れますよ」
「だといいが」
曖昧に頷きながら、少し息が切れ始めている賢者を見てそろそろ休憩にするぞと声をかける。塔からかなり歩いてきたが、それに従って森も少しずつ深まってきていた。なだらかではあるが山に差し掛かり、上り坂が続いたことも仲間達が疲れ始めた原因になったのだろう。獣道を辿っていたので、少し気を張る必要はあるが道を作りながら進む手間はなかった。歩いているうちに少し開けた場所へ出たらしく、休むのに良さそうな場所を見つけたのか先を進んでいた賢者が立ち止まって振り返る。
「勇者、見なさい。あれが月の塔だ」
「月の塔だって?」
そして大変興味深い言葉を発したので、勇者はぱあっと顔を輝かせて最後の坂を一気に駆け上った。
「わ、急に走らないでください!」
「あっ、おい! 暴れるな!」
いきなり走り出した勇者も悪いのだが、慌てた神官が急に動いて顔面にしがみついたのはまずかった。前が見えないまま落としそうになるのを堪えた結果、勇者は藪に突っ込んで木のこぶに側頭部を強打した。
「あっ、ごめんなさい」
「おい……顔はやめろよ。危ないだろ」
頭を押さえてぼやきながら木立を抜けた勇者はその途端、谷を挟んで向こうの山の上に広がる光景に驚いてそれを見上げ、少し仰け反ったのが怖かったのか神官が咄嗟に髪をぎゅっと掴んだのに「いてっ」と声を上げた。
「あっ……ごめんなさい」
「いやいいけど、そんなに怖がらなくても落としやしないって……」
上の方は雲に隠れて見えない、天まで届く白い塔だった。賢者の塔と同じような円柱型だが、それよりずっと太く高く──畏怖すら感じるような大きさだ。外側をぐるりと回廊が取り囲んでいるらしく、凝った装飾の柱が立ち並ぶ様子は細やかに人の手がかかっている造形なのに、それが人知を超えているような雲も貫く高さをしているのが、どこか神がかっているような恐ろしさを感じさせられる。
「神様が作ったみたいな塔だな。空に届いてるじゃないか……」
「実際、岩天井まで繋がっているな」
「山をくり抜いてる……んだよな?」
よく見ると真ん中が細く上下が少し太い形は、整っているが天に繋がった山の形によく似ている。表面に薄く水が流れている様子なのも近い。
「……鍾乳石や
「せきじゅん」
「洞窟の天井から下がる、あるいは地面から伸びる、竜のとげのような石のことだ」
「……え? あれ山じゃないのか?」
「広義に捉えれば岩山と呼べるやもしれぬが、豊かな土壌を持ち森を育む地上の山とは全く別物だな」
「山に、森……」
腕を組んで唸る。すると、思考の迷路に入り込んでしまった勇者を見て苦笑した吟遊詩人が、塔の上の方を指差しながら話題を変えた。
「魔法使いの部屋は確か上から三番目くらいの階だよ」
その驚くべき言葉に目を丸くして、勇者は一旦考え事を放り投げるといつのまにか背後で木に登って遊んでいるエルフを振り返った。
「お前、雲の向こうから来たんだな……」
揺れる木の葉に夢中で全く話を聞いていない妖精を見つめながら少し感動していると、その様子をじっと見守っていた吟遊詩人がふむと腕を組んで言った。
「勇者ってさあ……意外と、詩人だよね」
「……うん?」
思いがけない言葉に間の抜けた声を返しながら見れば、にやりと楽しさの滲むような笑みが返ってくる。
「勇者のそういう……初めて知るもの一つひとつに感動できるとこさ、すごくいいと思うよ。ね、曲つけてあげるから一曲歌詞書いてみない?」
勇者は褒められて悪い気分ではなかったが、それはちょっと、いや全く興味がなかった。
「いや……遠慮しとく」
「残念。才能あると思うんだけどなあ」
「作るより、お前の歌を聞いてる方が楽しいよ」
「あ、そう言ってくれる? じゃあ休憩がてら一曲披露しようかな」
少年がその場を仕切るように少し華やいだ声で朗らかに言うと、漂っている歩き疲れた空気が爽やかに塗り変わる気がした。吟遊詩人は「さあ、みんな座りなよ!」と明るい声を掛け、ゴロゴロと散らばっている岩の一つに腰掛けた。鞄からリュートを取り出すとすっかり慣れた手つきで音を合わせ、華麗に和音をかき鳴らす。
始まった曲は太陽のように楽しげで、しかし細い糸が複雑に織り込まれてゆくような、不思議な色味を感じる音色をしていた。背筋を伸ばしてほんの少し姿勢を変えただけで、ちょっと前まで小さな子供のようだった彼の雰囲気がすっと、華やかながらも真摯で大人びたものに変わる。目元を覆う黒い呪布がいつもよりずっと神秘的に見えた。
明るい笑顔を振りまく少年が一人の音楽家へと変わるこの瞬間が勇者は好きだった。作り込まれた芸術というのは時に魔法よりも魔法めいていて、見えていないはずの景色が見えるようなそんな心地にさせられる。
そう考えているうちに、澄んだ声がはじめの一節を歌った。
僕らは旅に出た!
荷物を背負って
マントがたなびく
僕らは旅に出た!
馬はいないけど
二本の脚がある
広がるのは見たことない
不思議な景色
雄大で、壮大な光景
出会うのは人ならざる
妖精に、精霊に
きっと竜にも出会える
僕らは旅に出た!
先が恐ろしくても
地図を片手に
進み続けよう
だってそれが
僕らの旅だから
僕らの道だから
楽しく始まり、ほんの少しの不安を呼び起こし、そして全部を勇気と希望に染めて消えていった。自分でも気づいていなかった心の奥の濁った疲れが洗い流され、その空いた場所に今すぐ歩き出したいような期待が流し込まれる。物事とは続けるほどに最初の眩しい気持ちを忘れていってしまうものだが、彼の音楽がある限り、勇者はどんなに長い旅になっても仲間と過ごす今の幸福な気持ちを無くさずにいられる気がした。
雲に隠れて天辺が見えない不思議な塔を見上げる。この森を抜ければそこはもう国境だ。勇者にとって初めての街は、そして初めての地上は、どんな新しい景色を見せてくれるのだろう。不穏な影に追われていても、勇者はそんな未来を想像すると次の朝が楽しみで仕方がないのだった。
とその時、のんびり歌に合わせて体を揺らしていたエルフが勇者に向かって囁いた。
「雲の向こうから来たのは……針葉樹の方だよ」
「ん?」
振り返ると、魔法使いがこちらを見慣れない動物でも観察するかのような視線でじっと見ている。
「アサは、この大洞窟ではなくて、空の向こうにある横穴の先にあるから……魔法の空に隠れて誰も穴の存在に気づかないし、岩壁はつるつるで、水が流れていて、竜でもなければそこまで上がれない……途中の道には、時空の歪みがたくさんある……だから、秘境なんだよ」
「は?」
あっちの方だね、と細い指先が向けられた先の空を眺めて、勇者はぽかんとした。自分がそんなとんでもない場所から来たとは到底思えず、とりあえずじっと眉を寄せて仲間達を見回し、考えるのはまた今度にすることにした。
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