三 もやし勇者



 凶悪な獅子の魔獣が現れたのを見たラサは、勇敢にもすぐさま聖剣を抜いた。腰を落とし、しっかりと両手で柄を握っていつでも振り抜ける姿勢になる。大物を一撃で屠る時の構えだ。


「レヌ、牽制を! できるだけ目を潰せ!」

「はい!」


 元気の良い少女の声が答え、飛び跳ねるようにラサの隣に走ってきた銀髪の美少女が手にした弓を大きく引いて放った。矢は惜しくも魔獅子の眉間に当たって弾かれるが、そんな場所に当たっても魔獣は少しも怯む様子を見せない。


──狙いが甘いな……初心者か?


 夢うつつにそう考えて、また意識が深く沈んでゆく。


「くそっ、やはり怯みもしないか……バローグ、炎を!」

「心得ましたぞ」


 ラサがよく通る爽やかな声を荒らげて叫ぶと、今度は灰色のゆったりと布を巻きつけたような服を着た白髭の老人が歩み出て、手にした杖で地面をトントンと突きながら複雑に動かし、呪文を唱えた。


「フルーマガル=クシュラザール=レグアヴァラ!」


 どことなく海の魔女のそれに似ているような、聞き慣れない雰囲気の呪文だ。すると地面の上に打たれていた光の点がするすると線で繋がって星をいくつも重ね合わせたような紋様になり、ふわりと空中に浮かび上がった。こちらも見たことのない紋様だが、その中央に大きな炎の球体が現れ、老人が「けえ!」という言葉と共に大きく杖を振ると火の玉は真っ直ぐ魔獣に向かって飛んでいった。


──おお、かっこいい……賢者の魔術はあっさりし過ぎてて全然魔術師っぽくないからな。やっぱりこういうのがいいよな


 シダルはそこまで思って、そのとき唐突に今の状況を把握してぎょっとなった。体が自由に動かない。というか、勝手に動く。それも、自分の体じゃない。


「ラサよ、火の玉もさして効いておらぬようじゃ」

「なんてことだ……いや、お前達はもう下がれ。俺がやる。ルフラ、ロノ、俺は少し力を溜めたい。時間を稼げるか?」

「任せておけ」

「問題ない」


 口が勝手に動いて周囲の人間に指示を出すと、剣と盾を持った線の細い青年と、槍を構えた赤い服の少年が走り出ていった。青年が魔獅子の突進を盾で受け、その隙に槍の穂先に火を灯した少年が脇腹を貫く。が、獅子が大きく暴れて少年を弾き飛ばし、鋭い爪で彼の肩を切り裂いた。


「戻れルフラ……くっ!」


 叫んだラサ──どうやら今のシダルの体であり、持っている半透明の剣からして勇者であろう男が、魔獅子の大きな魔吼に怯んだ。それしきのことで大げさに怯んでいるのもあれだが、彼は特に威嚇し返すこともなく怒りと悔しさにキッと敵を睨んで、気を取り直して剣を構えたまま獅子の前に踊り出る。先程から何やらじっと深呼吸をしながら魔力を溜めていたようで、何に使うのか知らないが両腕にたっぷり力が集まっていた。彼が現れたことで魔獣の意識がそちらを向き、その隙に戦士風の青年が火の神官風の少年を支えながら離脱する。


「ファナ、すぐに彼の治療を!」

「お任せください、勇者様」


 淑やかな声に振り返れば、長い金髪を流した美しい女性が負傷した少年に手をかざして治療を始めていた。その手際の良さにラサはホッとして、改めて──


──いや、なんでこいつがいちいち全部指示してるんだ? というか、なぜ敵から目を離して神官なんか見てる? 馬鹿か? 馬鹿なのか?


 シダルはもうもどかしくてもどかしくて苛々していたが、しかし彼からしてみれば隙だらけで鈍臭いラサとして勝手に体が動いてしまう。


「人に仇なす獅子の魔獣よ、喰らえ──聖渦斬淀せいかざんてん剣!」


 彼は鋭く雄叫びを上げながら、内炎魔法のようなものを使って聖剣をかなりの速さで振り抜いた。あかがね色に透ける刃が突進してきた魔獣の首を大きく切り裂き、どす黒い血を噴き出して魔獅子が倒れる。と、その返り血を浴びてしまったラサは、どくんと急激な頭痛に襲われてその場に膝をついた。


──だせぇ……


 ガンガンと痛む頭を抱えて呻きながら、シダルは心の中でさらに苛立った。おそらく剣の仲間達であろう人々が「ラサ、なんてことだ!」「勇者様! そんな、私達を庇って」とか慌てている声が聞こえる。良い人達ではあるのだろうが、それにも段々と苛々してきた。動揺する女性の声を淡々とした少年の声が一喝し、周囲を浄化の気配が取り巻く。べとべとしていた魔獣の血が洗い流されて、何やらぶつぶつ葛藤のような言葉を呟きながら倒れていたラサが、正気に戻ったように身を起こした。


「勇者様!」

「……すまない、助かったよファナ。俺も情けないな、この程度の魔獣を相手に血を浴びて倒れるとは」


──ほんとにな


 シダルはそう思ったが、剣の仲間達はそうでもなかったらしい。次々に彼を慰めてその勇気と強さを讃える言葉をかけているが、シダルは既にそんなものは聞き流し始めていた。


 そんなことより彼の大切な仲間達はどうなった? ここはどこで、この状況は何だ? 何か幻術のようなものに彼だけが嵌まっているのなら良いが、それを判断しようにも、賢者に相談どころか視線を自由に動かすことすら不可能な今は、本当にどうすることもできない。


「皆、離れてくれ。浄化を始める」

 その時、推定「例の本の主人公の勇者」がふらつきながら立ち上がり、仲間達を下がらせて倒したばかりの魔獣の前に立った。おお、と思ったシダルが注目していると、彼は何やら気合いを入れるような感じで深く息を吐いて、聖剣に魔力を込めながら一気に魔獣の死骸へそれを突き刺した。


──え、そこに刺すのかよ


 シダルは思ったが、どうやら彼にとってそれは普通のことらしい。まあいいかと金の炎が燃え上がるのを待ったが、しかし聖剣の金色の輝きが増すと、炎ではなく剣を突き刺した魔獣そのものが金色に光り始めた。


 金の光は徐々に周囲の地面に広がりながら淀みを浄化してゆく。その様を仲間達が息を飲んで見つめ、そうして光が収まった頃には、魔獣の死骸はどこか禍々しい気配が消えて、まるで普通の動物のように静かにそこに横たわっているのだった。


──へえ、魔獣は消えないのか……これは、食う分を除けなくていいから便利だな


 今のところそれだけは少し羨ましかった。が、彼らは特にその獲物を捌いて食べることもなく、人里が遠いからか埋めるなり焼くなりして処理することもなく、ふらりとその場を立ち去った。既にかなり北まで来ているのか周囲は見るからに恵みの少なそうな森で、ここで大きな獲物を捨てるのは愚かだとどうしても思ってしまう。


──あんな気持ち悪い生き物食べたくないとかいう、賢者みたいな奴らなんだろうか。それにしても、わがままばかり言ってられないだろうに


 呆れた顔をしたいのにできないというのは、どうにももどかしい。しかもこのラサという男が、こんなにひょろっとした体つきで偉そうに仲間へ戦闘の指示を出しているのが恥ずかしくて仕方なかった。休憩に立ち寄った泉に映った顔は銀髪に紫の瞳の美青年ではあるのだが、まあシダルにしてみればもやしだ。魔術師ならまだしも、戦士として皆の信頼を集めるにはどう考えても格好がつかない。


「お兄ちゃん、干し肉も減ってきたし少し狩りに出てくるね。ウサギか何かいるといいんだけど」

「ああ、気をつけてな」

「わかってますってば! もう、過保護なんだから!」


 くすりと笑って楽しげに駆けて行った銀髪の弓使いは、どうやら勇者の妹のようだった。しかし、ウサギを狩ろうという時に気配も足音も消さぬ時点で、明らかに狩猟は素人だ。あの弓の腕といい、おそらく吟遊詩人と同じように全く経験がないまま剣の仲間に選ばれ、そして吟遊詩人と違って才能には恵まれなかったのだろう。


──いやいや、三本同時に矢を射って全部当てたりするシダルがおかしいんだって。僕はあの子もそこそこな腕だと思うよ?


 ふと、そう言って笑う吟遊詩人の声が聞こえた気がして、勇者は急に寂しくて不安でたまらなくなった。そして何より、仲間達がこの世界に巻き込まれているのかどうか一切わからないことが、恐ろしくて仕方ない。特に繊細な吟遊詩人は、魔法使いは、突然こんな状況に置かれたら心を壊してしまうのではなかろうか。


「そなただけじゃよ」


 ふいに背後から、バローグと呼ばれていた魔術師らしき老人の声が聞こえた。しかし赤い服の少年と話しているラサには聞こえなかったのか振り返ることもなく、よってシダルもその声の方向を確かめることはできなかった。いつの間にか周囲の音がどこか遠く、しわがれた優しい声だけが耳にはっきりと響く。


「そなただけじゃ、蒼天の勇者よ。この物語に落とされたのはそなたのみ。故に、よく見聞きすることじゃ。エルフトの与えし叡智の恵みを、終末の真実を、魔王の真実を。よく見聞きし、考え、そして叡智の愛し子へ届けなさい。そなたから見た世界の真実を」


──なんでこの爺さんが、俺に向かって、どういうことだ


 全く纏まらない思考が頭を巡ったが、驚いたことにそれに返答があった。それは確かにラサの耳を通して聞こえてくるのに、彼は気づきもせずに仲間達と会話を続けている。


「我が名はルフィアル、気の神に遣わされし叡智の聖木兎である。風を持たぬそなたに、神託を授けに参った」


──聖ミミズクって……なんか、可愛いな


「であろう。我ほどに愛らしいミミズクは世におらぬと、エルフト様も常々仰せだ。このように風切り羽根の一本もない、老いさらばえた人間の姿しか見せてやれぬことが哀れよ」


──そうか、残念だな


 勇者が心の中で少し笑うと、ふっと影の気配が薄くなった感じがした。周囲に元通り音が戻ってきて、バローグは普通の老人として勇者ラサと談笑を始めている。ああ、せっかく賢者の近くにいる時のような空気だったのにと残念に思い、しかし仲間達が無事であることを知って安堵していると──その時、ビリビリと頭を貫くような濃い魔力の気配がシダルを襲った。


──賢者!


 咄嗟にそう思った。ラサは反応していない。ひんやりとしていて、穏やかで、でも鋭く全てを見通すような魔力の気配。


──勇者、聞こえるか

──レフルス、レフルス! 俺、これ、あの、俺……


 頭の中に響いた低い声に、ああ、これこそ本物の安堵だと、先ほど抱いた淡い感情をシダルは記憶の彼方に押しやった。自分にしては随分冷静だった思考が全部吹き飛んで、彼に縋るばかりで何も言葉が出てこない。


──落ち着きなさい。そなたは今、書物に仕掛けられていた魔術に囚われている。現実の体はあの地下室にあり、夢を見ている状態だ。私は気の術で意識に介入しているが、この術はそなたへの負担が大きい。長くは行わぬゆえ、黙って聞きなさい。

──わ、わかった。でも、さっき

──黙れと言ったろう。現時点で、そなたが意識を失ってからおよそ半時間だ。そなたの体感がどうなっているかわからぬが、こちらの時間でおよそ一時間おきに同様の介入を行う。不安であろうが、それを待ちなさい。そなたの体は神官が確実に生命を維持し、その間に私が解術を試みている。が、何か陣の通りの魔術というよりは神がかり的なものを感じる。私の直感でしかないが、しかしそれが神の采配であればただ感謝して受ければ良く、魔術であれば私が解くだけだ。そなたは何も心配するな。術中で見聞きしたことを可能な限り記憶し、目覚めた時に私に報告しなさい。良いな、切るぞ?

──ま、待ってくれ!


 淡々とした賢者の声があっさり去ろうとして、勇者は慌ててそれを遮った。


──何だ、手短に述べなさい

──さっき「登場人物」の一人が、エルフト神の遣いのミミズクだって名乗った。真実を見て、お前に伝えろって

──そうか、であればそのようにしなさい。では解術も介入も要らぬな


 そして深い安堵の滲んだ賢者の声がそんな冷たいことを言うので、勇者は半分恐慌状態に陥りながら友に取り縋る。


──介入は欲しい! 頼む! 絶対欲しい!

──ああ、わかったから、あまり興奮するな。心拍数が上がっていると神官に文句を言われた。ではまた一時間後だ。今度こそ術を切るぞ

──レ、レフルス……が、頑張れって言ってくれ

──何を馬鹿な……いや、頑張りなさい。今、そなたの右手は吟遊詩人が握っている。皆そなたと共にあるゆえ、案ずるな


 ふつりと声が途切れ、ひんやりした賢者の気配がなくなった。右手に意識を集中させるが、ラサが手入れをしている聖剣の感触があるばかりで何もわからない。涙が出そうな気持ちだが、今は自由に泣くことすらできなかった。


 しかし、勇者が握りつぶされるような心の痛みに耐えた時のことだった。ほんの僅かに神官の水の気配がして……すっと気持ちが落ち着いてゆくのが、ああ、はっきりと感じられる。


 本当に仲間が側にいるのだとわかって、勇者はようやく、歩き出したラサと共に顔を上げて前を見た。





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