二 隠し扉



「なあ魔法使い……何だその扉? どうやって出した?」

「……こっそり、隠れていたね」

「そんな、ウサギかなんかみたいに」


 勇者が近づいてよく見ようとすると、いつの間にか黒い手袋を嵌めた賢者がさっと腕を出してそれを遮り、通りすがりに外した眼鏡を魔法使いに押しつけながら「扉に描かれているのは鍵の魔法陣だ。古い術は綻びの危険が大きい、少し離れていなさい」と言ってひとり扉のそばへ歩み寄る。魔法使いが受け取った眼鏡をじっと見つめ、そっと掛けてみると不快そうに目を細めてすぐに外した。


 賢者はしばらく、扉に彫られた複雑な魔法陣の線を鞄から取り出した細いペンのようなものでなぞったりしていたが、一通り調べ終わったのかひとつ頷くと「ふむ、術の破綻はない。近寄ってもよろしい」と高圧的な調子で言った。なんでそんなに偉そうなんだよ、と勇者は少し思ったが、しかしどうやら魔術仕掛けらしい扉が気になって仕方がなかったので、大人しく近寄ってまじまじと眺める。


「この図書館は建設時の図面を目にしたことがあるが、このような扉は記載されていなかった。しかし……新たに増設されたものにも見えぬ。隣室までの距離からして地下室であろうが……どのようにしてこの書棚の仕掛けを開けた?」

「足音の響き方が違ったから……探したら、棚の裏に魔法陣があったよ」


 賢者が真面目な顔をしたからか魔法使いがいつもより訛りの少ない発音で答えると、「……ほう」と黒い目が感心したように少し細められ、妖精が透き通った綺麗な色の瞳でそれをじっと見つめた。


「……あの人間を呼んでこようか。人間は支配欲や帰属意識が強いから、未発見の隠し扉ならばきっと報告されることを望むと思うよ」

 少し冷たさを感じるくらい綺麗で品の良いヴェルトルート語で魔法使いが話すので、皆が驚いて彼に注目した。すると魔法使いは「濁音が多くて伸びのない発音は……リファール語でなくても愛を告げているみたいで恥ずかしいのだけれど、でも僕は群れの皆をとても愛しているから、そろそろ、良いかなと思うよ」と恥じらいながら小さな声で言った。どうやら彼がもうしばらく前から話ないのではなく話なかったらしいことに気づいたのか、暇を見つけては幼い話し方をするエルフに美しい発音を教え込もうとしていた賢者が疲れた顔をする。が、流石にそろそろ妖精の不可解さに慣れたのか、半眼のまま数秒見つめると「仕方がないな」と言うように少しだけ眉を下げて口の端を上げた。


 そんな魔法使いの「話さなかった理由」に関する持論は例によってさっぱり意味がわからなかったが、しかし愛情深いエルフがまたひとつ仲間に心を許したのだということは理解できた。勇者はニッと笑って魔法使いの頭を撫でようと手を上げたが……流暢に話す彼がとても大人びて見えて少しためらった後、手を下ろす。しかしその直後に、妖精がいつもの間延びした拙い発音で「な、撫でないの」と耳を寝かせたので、ふっと息を吹き出してキラキラしている髪の毛をぐちゃぐちゃに掻き回した。水のように滑らかな感触から手を離した瞬間、絡まり合っていた長い髪がさらりと解けて背中に流れ落ちる。


「……いや、行ってみよう」

 賢者の声がした。一瞬何のことかと思ったが、そういえば隠し扉の話であった。

「隠された地下室が発見されたとなれば、図書騎士の調査が入り、視察が許されたとしても大仰な護衛と案内がつく」


 振り返ると、少々強引に話を引き戻した賢者が、封印された未知の扉を前にまるで少年のように悪戯っぽく笑っている。それを真正面から見た魔法使いはどうやら胸を射抜かれてしまったらしく、マントの端をぎゅっと握って耳を震わせた。そうしているとやはりいつも通り美しい子鹿のようで、少し安心する。


「五代前、鍵の賢者本人の手によるものに見えるが……少なくとも魔力痕が相当古い、閉ざされて二百年は経っているな。勇者、手を」

 そんな妖精の気持ちを知ってか知らずか……いや、確実に知らずに賢者は興味津々で扉を調べ、後ろ手に勇者を手招いた。言われた通り手を差し出すと、ちらと振り返って首を振る。

「いや、右手だ。扉の中央に触れて魔力を流せ。渦のみだ」


 背筋を伸ばして鼻から静かに息を吸い込み、魔力をぎゅっと体の中心にひっこめながらぺたりと扉の魔法陣の真ん中に手を当てた。扉を浄化するような気持ちで金の炎を脳裏に呼び起こす。すると中央から燃え上がるように魔法陣が金色に染め上げられ、ぼうっと揺らめくように輝いた後、扉が小さくカチリと音を立てた。


「暗唱紋を知らずとも、渦の魔力で開くようになっている。私と違い渦持ちが側に居たわけでもあるまいに、一体どのようにして……いや、もしや魔獣を使ったのか?」

 珍しく独り言を呟きながら考え込み始めた賢者が、勇者を「側にいる」人間と表現したことに少し心があたたまった。大の人嫌いの彼がようやく仲間達を自分の近くに寄り添うものとして捉え始めたのだと思うと、感慨深い。


「……開けていいか?」

 鍵の開いた音を聞いて勇者がわくわくと尋ねると、賢者が光の反射しない瞳を楽しげに細めて頷く。が、彼はギィと音を立てて開いた扉の内側からもうもうと埃が立ち上るのを見るや否や、嫌そうな顔になってマントで鼻と口を覆うと数歩後ずさった。


「うわ、すごい埃だな……」

「浄化は待ちなさい、魔法使い。埃の一粒が重要な資料となる場合もある」


 勇者が咳き込むのをこらえて口元を覆うと、賢者が埃を清めようとしたらしい魔法使いを制止する、布越しのくぐもった声が聞こえた。皆で嫌そうに眉を寄せた顔を見合わせて、マントの端で口を覆うとおそるおそる扉の周りに集まる。


「よし……俺が先頭、次に賢者、神官、吟遊詩人、魔法使いの順で行くぞ」

 手のひらに金色の炎を灯した勇者が一段ずつ階段を下りる。天井が低く、壁の床も黒い石でできていた。十数段下りると鍵の無い小さな扉があって、賢者に視線で確認を取ると身構えながらそっと取っ手を握って引く。


 あまりにも埃が分厚く積もっているので、これは仕方ないと賢者の指示を受けた神官が室内の埃を一掃する。とその時、術をかけた神官が血相を変えて賢者を見上げた。


「術の規模に対して浄化が甘い。おそらくどこかで魔力を吸われました」

「そこの床から、上に向かったよ! 扉の方だ!」


 吟遊詩人の声を聞いて、最後尾の魔法使いが部屋を飛び出して階段を駆け上がった。勇者も慌ててそれを追いかけるが、魔法使いの目の前で扉がバタンと閉まり、外で軋みを上げながら本棚が動く音がする。


「おい、閉じ込められたぞ! ぶち破るか?」

 魔法使いが軽く揺すった扉は、ガチャガチャと音を立てるばかりで鍵が掛けられている様子だった。それを見た勇者が下から歩いて上がってきた賢者に尋ねると、彼は「少し待ちなさい、バンデッラーよ……」と疲れた魔王のような力のない低い声で勇者を押し退け、魔法使いの肩に手を掛けた。


「代わりなさい。魔法陣を確かめる」

「……うん」


 急に大人しくなった妖精が肩に乗せられた手をちらちらと見ながら端に避けると、賢者が扉の裏の魔法陣に指を這わせる。

「隠し部屋ゆえ、入室後に扉を隠し外部からの侵入を防ぐための仕掛けだな。当然内側から開けられる」

「そうか……良かった」


 そんな風に言うのだから一度開けて見せてくれるのかと思ったが、そこまで親切ではなかったらしい。さっさと奥の書庫の方へ下りていってしまったので、どうも釈然としないまま何度も扉を振り返りつつ、魔法使いの後ろから彼の後を追う。


 階段の下は小さな書庫になっているようだった。壁沿いに並んだ古い木の本棚に、分厚い革表紙の本がぎっしり詰め込まれている。本の背表紙には題名が金色の字で刻印されているものが多かったが、どれもこれも古語なのか外国語なのか、勇者には読めないものばかりだ。


「禁書庫だな」

 ざっと本棚の検分を終えた賢者が楽しそうに言った。


「生命の創造、死者蘇生、生物兵器の開発……主に生命に関する、過去に危険と判断された研究や論文の類が多いが……淀みや北の果てに関連した書物が無いとも限らぬ。少し探すのを手伝いなさい」

「いや、どれもヴェルトルート語じゃないし、読めないよ」

「そなたの助けなど端から期待しておらぬ。神官と魔法使いに頼んだのだ」

 賢者が冷たく言って勇者に背を向け、本棚の中の一冊を手に取ってパラパラと捲った。


「私、古語はエルート語とアルレア語しか読めませんよ」

 神官が自信なさげに言うと、賢者が問題ないと軽く頷いた。

「表紙の年代からして、大抵はそのどちらかだろう。そちらの端から確認し、読めないものは私に渡しなさい」


「アルレア語って?」

 勇者が尋ねた。古エルート語は魔法の呪文に使われている言葉だが、アルレア語というのは聞いたことがない。


「エルート語よりも更に前の時代に使われていた言語ですね。神典の半分くらいはこの言葉で書かれています。祈りにも使われていますから、勇者も少し聞き覚えがあるはずですよ。ほら『ユ・エテス=ティア・ハツェ』とか。あれは『神の前にあって私は平穏』って意味ですけど」

「ああ、祈りの最後の歌のところのやつか。『スクラゼナ=イルトルヴェール』ってやつはどっちなんだ?」

「『イルト・ルヴァ=フュム・ナ=スクラゼナ』というアルレア語のエルート訳だ。略式の祈りにはエルート語の方が多く使われる。意味は『水の祝福が汝に訪れるように』」


 勇者が興味津々で尋ねると、今度は部屋の反対側で本を読んでいた賢者が上の空で答えてくれた。しかしあれはどう見ても「ざっと内容を確かめるつもりが意外と面白くてつい読んでしまっている時の顔」なのだが、良いのだろうか。


「ふうん、なるほどな……なあ、アサの村でスクラゼナって言うと『うるせえぞ!』って意味なんだが、なんか関係あるか?」

「ふむ……難しいところだが、そなたの話す訛りの傾向からするに、水の祝福よりも気の『スルス』が由来している可能性の方が高いな。動詞にすると『スラシナ』となる。つまり『賢くなれ』だ……勇者よ、知的好奇心が旺盛なのは良いことだが、質問は後にしなさい。今はこちらの書棚の確認が先だ」

「あ、すまん」


 勇者は「お前だって本の続きを読んでたじゃないか」と言おうかどうか迷ったが、どうせ不機嫌に睨まれるだけなのでやめておいた。とはいえ暇なので、ずらりと並んだ本を眺めて何冊か手に取り、中に描かれている実験器具や気持ちの悪い動物の挿絵を眺めてみる。


 そうしているうちに、ふと綺麗な本を見つけて勇者は立ち止まった。いや、その背表紙の何が綺麗かと言われれば、中央に描かれた剣が優美なくらいで他と大差ないのだが……どことなく心惹かれるというか、眺めているとなんだか特別な物語が書き留められているのではという気がしてくるのだ。


 吸い寄せられるように手に取り、表紙を捲った。だが案の定題名は古い言葉で、勇者には読めない。それを少し残念に思ってふうとため息をついた瞬間──本の中心から突如金色の魔法陣が燃えるように浮かび上がって、勇者は仰天して叫び声を上げた。


「け、賢者! これ、これ何だ!?」

「そなたの魔力で発現している、本を捨てろ!」


 鋭い怒鳴り声がして、勇者はどんどん輝きを強くしているその本を人のいない部屋の隅に向かって放り捨てた。目を丸くした神官が近くにいた吟遊詩人を引き寄せると、賢者が魔法使いの腕をぐいと引いてマントの中に抱き込み、勇者に手を差し伸べた。しかし勇者がその手を取ろうと腕を伸ばしかけた時、光が大きく眩さを増し、思わずぎゅっと目を閉じる。視界が暗くなった途端に目眩のような強い眠気が押し寄せて、ぐらりとよろめいた。強い魔力の気配が部屋中にあふれ、勇者の全身を飲み込んでゆく。


 どこからか、静かなフクロウの鳴き声が聞こえた気がした。





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