第四章 終末の勇者
一 夜の大図書館
地下通路の人払いが終わったと連絡を受けたので部屋を出る準備をしていると、浮かれた様子の魔法使いが耳を立てて賢者の側へ歩み寄り、そっと左の肘のあたりを掴んだ。賢者は数秒の間ごく自然にそれを受け入れていたが、はたと気づいたように肘を引っ込めると「付き添い役は昨夜で終わりだ」と妖精を冷ややかに見下ろす。
「でも……手を繋ぎたいよ」
「神官と繋いでおきなさい。今日は奴が当番だ」
「……賢者は、どんな子を番にしたい?」
唐突な質問に、吟遊詩人が呪布の下の目を輝かせているに違いない動作でソファから身を乗り出し、賢者がとても嫌そうに眉をひそめて隣の妖精を見た。
「……私が好むように振る舞えば手を繋いで外を歩くやもしれぬと、そういう話か?」
「そうだけど……はずかしいから、言ってはだめだよ」
耳の先を真っ赤にして顔を両手で覆った仲間を困った顔で見下ろした賢者は、腕を組んで少し肩を落とすと言った。
「……何も全員と親しく触れ合わずとも良いだろう。あやつらに拒絶されたでもなし、あまり無理を言わないでくれ」
「……わかった。ごめんね」
纏っていた星をぽろぽろと床に落としながらソファに戻った魔法使いがあまりに萎れてしまったからか、賢者が少し気まずそうな顔をして「そなたを嫌っているのではない、触れ合い自体が苦手なのだ」と言い訳した。それを見た勇者は「あいつも随分仲間に優しくできるようになったなあ」と感心したが、しかし魔法使いは「わかっているよ」と呟くばかりで抱えた膝に顔を埋めてしまい、吟遊詩人から責めるように見上げられた黒い瞳が困ったように僅かに泳ぐ。
「……そなたに叡智の祝福をやろう、魔法使い」
唐突に妙なことを言い出した彼の言葉に神官が少し目を見張ってにっこりし、妖精が涙で湿った顔を上げた。
「……祝福」
「世界最大規模の図書館へ向かうのだ。一晩しか保たぬが、思考能力と記憶力が上がる」
「……うん」
魔法使いが興味なさげに頷くと、ソファへ歩み寄った賢者が眉間にしわを寄せながら魔法使いの隣へ座り──少し驚いたことに、軽く一度だけ月色の頭を撫でた。
「……星の賢者より花の愛し子へ、汝に叡智の加護があらんことを」
そして低い声で祈り文句のようなものをぼそぼそと呟いて、なんと、妖精の頭を片腕で引き寄せると額に唇を触れさせるではないか。その額に一瞬小さな影色の円模様が浮かんで、すぐに消える。
勇者は目を丸くし、恋するエルフの方は潤んだ目元を赤くしてその場で打ち震えていた。どこからどう見ても「好きな人に口づけされちゃった」みたいな顔だが、賢者は既に立ち上がって荷物の方へ歩き始めている。
「人間の祝福って……濡れた手で、おでこを撫でるのでは、ないの」
「それは水の祝福ですよ。土は頭に手を乗せますし、火は剣に口づけます」
「そ、そんな……僕、僕……」
「不快ならば浄化すればよかろう」
小さな鞄に紙やペンを詰めながら賢者がぼそりと不機嫌そうに言うと、魔法使いがぶんぶんと首を振る。
「違う……もう、もう一回」
「一度でも二度でも効果は同じだ」
それから数分後、すっかりご機嫌になった魔法使いは小さな声で鼻歌を歌いつつ、弾むように宿の地下通路を歩いていた。勇者はその後ろからゆっくり歩きながら、隣を疲れた様子で歩く賢者に話しかける。
「なあ、さっきなんで幻遷じゃなくて『星の賢者』って言ったんだ?」
「前者は誰が呼び始めたかわからぬ二つ名で、後者は正式な称号だ。私は星、先代は書架、先々代は水と、主力の研究に関連する称号が与えられる」
「与えられるって、誰に?」
「先代」
「ふうん、王様とかじゃないのか。じゃあなんで宮廷画家に肖像画なんて描かれてたんだ?」
何気なく尋ねると、賢者はものすごく渋い顔になって勇者を横目で睨んだ。
「……書架の賢者は王族出身のため、宮廷画家ファラナスと懇意にしていたのだ」
「ああ、なるほどな」
そういえば肖像画の賢者は今と同じ嫌そうな顔をしていたなとひとしきり笑って、地下とは思えないほど綺麗に石畳の敷かれた地下通路を眺めた。魔石のランタンが所々の壁に掛けられているが、通路自体はかなり薄暗い。カツンカツンと足音が響いて長く影が伸びる様子は、どこかあの真夜中の博物館を思い起こさせるような気もする。しかし浮かれた妖精がいつもの三倍は足元に花を咲かせているので、そこに不気味さはなくただ幻想的なばかりだった。
重い鉄の金具が軋む音を立てる木の扉をくぐった先を見て、勇者は「随分四角っぽい図書館だな」と思った。彼にとって本がたくさんある場所といえば賢者の塔で、大きな図書館と聞いて丸い塔の壁に沿って弧を描く本棚を想像していたので、四角くて背の高い棚がまるで墓石か何かのように均等な感覚でずらりと並んでいる様子はなかなか面白かった。
足元にはふかふかの赤い絨毯が敷かれ、高い天井には小さめのシャンデリアがいくつもぶら下がっていた。が、賢者曰くあまり煌々と照らすと魔力波で本が傷むとかで、館内は少し薄暗く、閲覧席で本を読むときは小さなランプで手元を明るくするらしい。
建物は三階建てで、ここは中央の吹き抜けだった。ちらりと見える二階と三階を見てしまうと、階段を駆け上がってあの手摺越しに上からこちらを見下ろしてみたくなり、それを賢者に言うとものすごく馬鹿にした視線をよこされる。
とその時、本棚の影から滲み出るように一人ほ灰色のローブ姿の人間が現れたので、異端審問官が現れたのかと思った勇者は咄嗟に仲間の前に躍り出ると短剣を引き抜いた。が、よく見ると書類を抱えた弱そうな人間で、勇者の握っている短剣の刃先を凝視して細かく震えている。
「ごめんね司書さん。これ野生の生き物だから、ちょっとびっくりするとこうなっちゃうの。ほら短剣しまって、勇者」
「ああ……すまない」
「い、い、いいえ……」
ミロルが着ていた学生服に少し雰囲気が似たローブに四角い帽子を被った司書の男は、ぷるぷると細かく首を振ると「よ、ようこそ。リオーテ・ヴァラ、こ、国立中央大図書館へ」と言いながら震える手で持っていた書類を差し出した。勇者が受け取ろうと一歩前に出るとビクッとして一歩下がるので、代わりに神官が進み出て受け取る。
「館内の地図を頂きましたよ、賢者」
「ああ……助かる」
「そ、そ、そんな。め、滅相もないことで、ご、ご、ございます」
「そんなに怯えなくても、もう何もしないって」
勇者が呆れて言うと、司書はがくがくと震えながら首を振った。
「い、いえ。
「よくわからんが、それがいつものお前の喋り方ならそれでいいよ」
明らかに顔が怯えてるじゃないかと思いながら言うと、司書はホッとしたように少しだけ肩の力を抜いた。どうやら怯えの原因の大半は短剣ではなく気の強そうな勇者に話し方を咎められる可能性だったようで、普段から嫌な顔をされることが多いのだろうかと思うと少々気の毒になる。
「ねえ勇者、初対面の人にお前とか……いや、今更か」
何か吟遊詩人が失礼なことを言っているが、勇者とてそう誰にでも馴れ馴れしい口を利くわけではない。だってこいつがあんまり怯えたウサギみたいに震えるから──とそこまで考えて、いや失礼なのは俺の方かと思い直した。
「ああ、ええと……司書殿、歓迎ありがとう。賢者もここに来られるのを楽しみにしてて……その、閉館後に仕事を増やしてすまんな」
「と、とんでもございません。わ、わ、私はこの仕事が好きで好きで、ここへ住み込んでいるくらいですから、今日の日を、と、とても楽しみにしておりました。私はこの辺りにおりますから、ご、ご案内がご入用の際は、何なりとお尋ねください。ほ、ほ、他の人間は裏へ下がらせましたので、どうぞ、ごゆっくり」
司書は先程までより少し流暢になった口調でそう言うと、恭しく礼をして勇者達に道を開けた。怯えた表情がなくなれば淡々とした賢そうな男で、賢者へ過剰に憧れる視線を向けることもなく、後ろをついて回ることもなく、ただ仲間達が静かに図書館を楽しめるように気遣ってくれる。
それに安心したらしい賢者が少しやわらかい表情を向けると、司書も穏やかに微笑み返し、この国に来てようやくまともな人間に出会えた仲間に勇者は心の中で「良かったな」と声をかけた──が、背を向けて歩き出してからちらりと振り返った先の司書が跪いて天を仰ぎ両手で顔を覆っていたので、慌てて賢者が気づかないよう、あちこち指差しながらあれは何の本だと尋ねて気を逸らした。
どうやら賢者はただ大きな図書館に遊びに来たかったのではなく、何か調べ物があるようで、本棚に振られている番号のようなもの──数字も古語なので勇者には読めない──を見ながら歩き出す。
「何か探してるのか?」
「過去の勇者の記録を。歴代の勇者は帰還後、魔王について頑なに口を閉ざし語らなかったと伝えられているが、真実
「賢者でも知らないことがこの図書館にあるのか?」
「私とて、触れた情報しか記憶できぬ。各国にはそれぞれ国外には出さぬ情報があるもので……そうでなくとも、全てを知った気になって調査や研究を怠るような人間に、賢者の位は与えられない」
「ふうん……まあ確かに、お前にも知らないことくらいあるよな」
エルフの恋心とかさ、と言いたかったが我慢した。どうやら吟遊詩人も同じ台詞を堪えたらしく、目が合って苦笑し合う。
建築好きの神官が言うにはこの図書館は少し変わった──図書館というより博物館に近い構造をしているらしく、普通は大きな部屋に全ての本を集めるところを、ある程度分野ごとに小さな部屋で区切っているのだそうだ。
「ここもだいぶ豪華な作りだが、アルバロザ卿の博物館みたいに元は誰かの家だったのか?」
「いいえ、この建物は図書館としておよそ四百年前に建てられたものですよ。書架の国とも呼ばれる国ですから、図書関連の施設は特別凝っているのでしょうね。王立図書館はもっと凄いですよ。貴重書の書庫だけでなく、全ての本棚に書籍保護術がかけられているのですって」
「え、何の術だって?」
耳慣れない単語について勇者が聞き返すと、先を歩いていた賢者が振り返りそうになったので、後ろを見せてはならぬと慌てて隣に並ぶ。
「先代、書架の賢者の開発した魔術だ。紙の経年劣化を抑制し、虫や
「本も……日焼けするのか?」
「光による色褪せや繊維の劣化を指しているのだ、愚か者め」
本の背表紙が赤くなって痛い痛いと泣いているところを想像していた勇者は黙り込んだが、その時入っていた歴史関連の部屋に奥でギシギシと妙な音がしたので顔を上げて振り返り、そしてぎょっとして一歩後ずさった。少し遅れてそれを見た賢者が、眉根を寄せてじっと考え込む顔になる。
奇妙な現象が起こっていた。本棚の一つが軋みを上げながらゆっくりと床の上を滑るように動き……なんとその後ろに、小さな鉄の扉が見えるではないか。
また変な扉かよ……。
少し前に似たような扉の先で幽霊に遭遇している勇者は顔をしかめて、仕掛けを発動させたらしい魔法使いを見遣った。
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