八 舞踏会 後編



 優雅な曲に合わせて、足を踏み出す。ハイロは踊りながら周囲の客の様子を探っているらしく、背に回した手のひらからほんの僅かに魔力の気配が伝わってきた。ここまで近づかなければわからない器用な術の使い方に関心しつつも、集中しているのを他に悟られないようにか、間近で自分の顔を見つめてくる薄茶の瞳が恐ろしいほど愛らしく……勇者の心はもう壊れてしまいそうだった。


 なんか、なんかいい匂いがする……。


 魔法使いから漂ってくる少し青っぽい花の香りとは違う、花の「ような」と表現するのがふさわしい甘い香りが鼻腔をくすぐって、彼はこの一週間寝る間も惜しんで舞踏の練習をした自分を心の中で褒め称えた。あれだけ努力していなければ、今頃すっかり足運びを忘れて彼女の華奢な足を踏んでしまっていたことだろう。


 踊るハイロはさぞ美しかろうと思っていたが、よく考えるとこんな抱きしめるような距離で自分も一緒に回っていたらよくわからなかった。とはいえ彼女が他の男と踊るのを側で眺めるのは癪だと思ったが、そもそも彼女は自分としか踊らないと宣言していたことに思い至ると、浮かれるあまり踊っているのに踊り出したくなり、思わず彼女を抱え上げてぐるりと回した。


「勇者殿……私、舞踏は本当に基礎しかできませんから、そういうのは難しいです」

「可愛いな──いや、すまん」


 着地で少しよろめいた彼女を支えた後は曲の終わりまで大人しく踊って、決められた形の礼をすると壁際まで下がる。給仕に酒精の含まれない檸檬水を頼むと、賢者に教わった通りに一口だけ飲んで飲み口をハンカチで拭き、ハイロに渡した。それを大人しく受け取って飲んでいる美しいドレス姿の──とても異端審問官には見えない彼女を見ていると、勇者は初めて彼女を神殿から救い出したいというだけでなく、愛を告げて自分の恋人にしたいという思いが湧き上がって困惑した。


 いや落ち着け、落ち着けシダル……そうだ、魔法使いはどこへ行っただろう。


 いつだって眺めているだけで心が安らぐ花の妖精の姿を探していると、彼よりも先に吟遊詩人とミロルが踊っているのを見つけた。揃いの深緑の衣装に互いの髪の色を暗くしたようなマントを身につけたフェアリ達は、二人とも大変小柄とはいえバランスとしてはすらりと手足の長い体型をしているので、仕立て屋の目論見通り本当に紅薔薇の妖精とその騎士のように見えた。そんな彼らを周囲の貴婦人が可愛くてたまらないという風に胸を押さえて見つめているに気づくと、あんなにお似合いなのに吟遊詩人は彼女のことを好きにならないのだろうかと勇者は少し微笑んで思った。


「……勇者殿、少しテラスへ出ませんか」

「えっ……あ、ああ……い、行こうか」


 舞踏会のテラスといえば恋人同士が人目を忍んで語り合ったり、社交を厭うお姫様と王子様が運命の出会いを果たしたりするイメージしかなかった勇者は、ハイロの提案にかなり動揺しながらも彼女に付き従って大きな窓から外へ出た。


「薄暗いかと思ったが、結構綺麗だな」

「それは勿論、招待客の為に解放されているのですから居心地よく整えられていますし、特段王宮でなくとも、自慢の庭園には明かりを置いておくものですよ……それでも広間に比べれば人目が少ないですから、密談が多いのですよね」

「へ、へえ……」


 彼と静かなところで話をしたいのやもなんて空想は夢のまた夢だったことがわかって、勇者は内心やっぱりなと苦笑しながら彼女の邪魔をしないように……いや、この場合はもしかしなくても邪魔をした方が良いのではなかろうか? この国と神殿と、どちらが勇者達の味方かといえば間違いなくこの国の方で、よく考えれば彼女は敵だから……それなら、仕事中の彼女に少し強引に話しかけても良い気がする。


「……ああいう庭、お前は好きか? 俺はどうも整いすぎてて落ち着かないんだが」

 口に出してからあまりに情緒のない台詞だったと思ったが、ハイロはそれに呆れる様子も邪魔をされて不快な様子もなく、普通に振り返った。


「そうですね……自然の花畑の方が私は好きですが、こうして庭師が愛情をかけて手を入れた庭園も美しいと思います。……ああ、そういえばここの庭園の薔薇は全て賢者殿の作った品種のみで構成されているそうですよ」

「……マジか」


 そこまで来ると狂気を感じるなと、季節柄咲いていない株もあるものの、見渡す限り薔薇ばかり植えられている夜の庭園を見下ろした。もう冬になりかけているのか最近は随分と冷え込んでいるので花が咲き乱れているという雰囲気ではなかったが、あちこちに凝った意匠の魔石のランタンが飾られているので充分幻想的だ。


 夜空を地上に下ろしてきたような光景を眺めていると少し感傷的な気持ちになって、勇者はしばらく黙って遠くの明かりを見つめていた。隣のハイロが静かにしているのは彼と同じ気持ちなのだろうか、それとも諜報の仕事を再開しているのだろうか。


「君と……何のしがらみもなくただ友として出会えれば良かったのに」

「私も、そう思います」


 ぽつりと零した言葉をハイロが拾い上げ、しかも同意してくれたことに舞い上がった勇者はそわそわとしながら彼女を見つめたが、彼女が今にも泣きそうに眉を寄せていることに気づいて目を丸くした。


「おい、どうした? 大丈夫か」

「……どうしてわかってくださらないのですか、勇者殿。勇敢で誠実な心根をお持ちの貴方が、正しき道を見抜けぬ方とは思えません。私達人間が今までの歴史の中でどれだけの生き物を滅ぼし、どれだけの自然を傷つけてきたか」

「……ハイロ」


 勇者は少し声を大きくした彼女が注目されないように少し体の位置をずらしたが、しかし彼女が何か術を使っているらしくテラスにいる人間がこちらを見る様子はなかった。


「人が人としての形を持つようになる前に、魔王や淀みというものは存在しなかったと言われています。つまり魔族をお造りになった善悪の神レヴィエル、そして神々の母たる闇の神はもう何万年も前から、人はこの世にあってはならないと仰せなのです。レヴィエルの愛し子たるあなたは、水神ではなく、渦神の意思を汲まなければなりません」


 ガラス玉の瞳がふわりと曇り、それが薄く潤んで透き通る。抱きしめてやりたかったが、下手に弱いものを慰めるような扱いは却って彼女を傷つけると思い直し、ぎゅっとマントの下に隠れた右の拳を握る。

 

「……でも俺はさ、魔獣を倒したり淀みを浄化したりすることで渦の神から『神罰』を受けたことはないよ。人間である俺に加護を与えてくれた神様が人間を滅ぼそうとしているとは思わないし……それにさ、俺は勇者だけど、やっぱり人間だから、自分の手の届く範囲のことしかわからないんだ。何と言われようと俺は俺の大事な仲間を絶対守りたいし、ハイロ、お前が誰かに憎しみを向けられて、傷つけられて殺されるような未来は絶対許せない」

「罰を受けなければ何をしても良いと仰るのですか。身の回りの数人さえ幸せならば、世界がどうなってもいいと、そう仰るのですか!」


 どうして、こんなにも心が届かないのだろうか。どうしてこんなガラス玉のような目をしているのに、何か強い意思があるかのように拳を握るのだろうか。


 何を言っても届かないなら……言いたいことを言っても、いいだろうか。


「或いは、そうなのかもしれない。……ハイロ、俺は君が好きだから、世界の何より君を守りたいんだ」


 全く思ってもみない言葉だったのだろう、きょとんと毒気を抜かれた様子で見開かれた薄茶の瞳に、ざあっと星の色が走った。

「私を、好きとは」

「君に惚れてる。神殿の人なのはわかってるが、叶うなら、一番そばで君を守りたい」


 ぎゅっとテラスの手すりに捕まったハイロが、うろうろと庭園の薔薇から薔薇へ視線を彷徨わせた。

「ガレが……ライを特別に思っているように?」

「よく知らないが、多分そうだ」

「私、私を、博愛ではなく」

「うん、一番特別だ」


 小さな声で「そうですか」と呟いたハイロは、瞳を茶色と金色の間でゆらゆらと不安定に光らせながら、ふらりと無言で会場の方へ戻って行った。勇者はそれをゆっくり歩いて追いかけながら、悲しみのすっかり取れた彼女の気配に満足し──そして思ったよりは手応えがありそうだとほんの少しだけ期待した。





 そのまま何事もなく舞踏会は終わり、一緒に宿の部屋へ戻るかと思っていたハイロとガレは王宮の馬車乗り場で、勇者達以外の誰にも気づかれることなく器用に姿を消した。


「……る、ルーウェン、ルーウェン……どうしよう、俺」

「針葉樹……どうしたの」

 馬車へ乗り込み、ひと段落して我に帰った勇者が隣に座った魔法使いに縋ると、優しい妖精はおっとりと首を傾げた。


「ハイロに、ハイロに好きって言っちまった……」

「愛を伝えるのは、よいことだね」


 相談相手を間違えたことに気づいた勇者が頭を抱えると、向かいの吟遊詩人が目をまん丸くして深紅のマントを胸元にぎゅっと抱きしめた。

「うそぉ……やるねシダル、それはなかなかの勇者だよ」


 段々と楽しくなってきたらしく瞳を輝かせ始めた吟遊詩人を見てこいつもダメだと思ったが、しかし賢者と神官はどう考えても論外なので、迷った末にちょっぴり顔を赤くして口元を押さえているミロルへ視線を向けた。


「あ、ええと、私ですか? そうですね、彼女のことはほとんど存じませんが……好意を伝える時に、交際も申し込んだのですか?」

「い、いや……好きって言っただけだ」

「ならば、今はそっとしておいて差し上げるのが良いかと思います。神殿の方ですから恋愛の経験はないでしょうし……あまり反応を窺うと怖がらせてしまうかもしれません」

「はい、師匠……」

「そわそわせず、今まで通りですよ」

「はい」


 従順に答える勇者に吟遊詩人がブッと吹き出し、それを見咎めたミロルが「もう、大事なことよ。女の子は大事に大事に扱ってあげないといけないんだから」と釘を刺した。


「はいはい、大事にね。わかってるって、ミロル」

「もう、そうじゃないってば……」


 いつの間にか敬称なしの愛称で幼馴染を呼ぶようになっている吟遊詩人が綺麗な赤毛をよしよしと撫で回し、ミロルが髪と同じくらい真っ赤になって縮こまった。それを見ていた勇者はなんだかどっと疲れが襲ってきて背もたれに深くもたれると、宿に着くまでの間、気力を使い果たしてすっかり不機嫌になっている賢者を眺めて心を和ませたのだった。





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