第一章 船旅

一 船出



「シラ……続きを、忘れたね」


 馬達に擬態の魔法をかけようとしている魔法使いが掲げていた腕を下ろすと、呪文を忘れたと言って小首を傾げた。よく唱えるのを忘れて呪文なしで魔法を使っているルーウェンだが、呪文そのものを忘れてしまうのはどうやら気になるらしい。


「『見通すシラ』ではない、『映し出すシラヴァール』だ。ルシナ=ミラ=シラヴァール。光よ惑い、映し出せ」


 賢者の言葉にふむと頷いた美しいエルフが、馬達の方へそっと手を差し伸べて、やわらかな声で呪文を唱える。

「ルシーナ=ミラール」


 いや、全然違うじゃないか……。


 おいおいと思った勇者は何か爆発とか、とんでもない失敗魔法が飛び出すのではないかと身構えたが、どうにも納得いかないことに魔法は問題なく発現したようで、空気が陽炎のように揺れて、きらびやかな一角獣達の姿がとした感じの地味な茶色い馬に姿を変えた。


 吟遊詩人が小さく「呪文って……」と呟いた声に腕を組んでうんうんと頷く。いつかは勇者もきりりと古語の呪文を叫んで火の玉を飛ばしたりしてみたいと思っていたが、こういうのを見るとなんだか真面目くさって呪文を唱えている方が馬鹿らしいような気がしてくるのだ。夢が壊れるからやめてほしい。


「──ミラ=シラヴァール」

「ミラール」

「シラヴァール」

「シラール」


 片手を髪の毛に突っ込んで頭を振った賢者が、かなり投げやりな感じで「もうそれでい」と言った。


「いや、いいのかよ……」

「擬態は完璧に発現しているのだ、後は本人の好きにすれば良かろう」

「呪文って……」

「──レタ君、落ち着いて!」


 吟遊詩人の慌てた声にハッと顔を上げると、地味な茶色の馬の一頭がすこぶる不機嫌な様子でぴょこんと跳ねたところだった。


「何だ、それレタなのか?」

「うん……多分だけど、ミュウちゃんが茶色の馬にされちゃったのが気に食わないみたい」

「はあ? ……おいレタ、ミュウはそこらの有象無象とは違う綺麗な有角馬なんだから、擬態なしで街に出たら変な目で見られるぞ」


 勇者がそう言うと暴れていた茶色の馬がピタリと硬直し、魔法をかけたエルフに歩み寄ると「良くやった」と言わんばかりに……たぶんあれは角をこすりつけたんだろう、少し手前でクイッと頭を揺らした。相変わらず賢いわりに単純なやつだ。


 そうして冴えない感じになった馬達を連れて、幽霊街の先にある港へ向かう。しかし早朝散歩に出た時に目をつけておいた大きな帆船を指差すと、吟遊詩人がぴくっと肩を竦ませて低い声で唸った。

「ねえ、確かに綺麗な船だけどさ……一般的にこういう船のこと『幽霊船』って呼ぶよね?」


 こっちに向かった時点で嫌な予感がしてたんだ、と少年がため息をつく。確かに、手入れの行き届いた船だが全体がぼんやりと霧のような白いもやに覆われていた。海の男らしい爽やかな笑顔を浮かべる乗組員達はみな半透明だ。まあ幽霊船といえば幽霊船なのだが、『幽霊宿』に泊まってみた感じからしても、できればこの街に出入りしている船から選びたいという気持ちがあった。


「まあそうかもしれんが……でも正直さ、その辺の生者の街から出てる船より信頼できないか?」

 それには一理あると思ったのか、心が決まらない様子で腕を組んだ吟遊詩人が隣を見上げると、賢者が腰の鞄から眼鏡を取り出して勇者が指した船に目を凝らす。


「フリーグ型の帆に火薬砲と魔導砲が合わせて五門、船首の人魚像……船の型としては海賊船だが……」

「船乗りさん達も傷跡だらけですね」神官が苦笑いで付け加える。

「えっ、海賊船? ……まあいいだろ、いい人達っぽいし!」


 海賊と聞いてわくわくしてしまったのがバレたらしく、吟遊詩人が呆れ顔で首を振った。

「ほんとに? 隅々まで手入れの行き届いた幽霊海賊船って、ちょっと情報多くない? ていうか賢者眼鏡似合うね」

「見るな」賢者が拒絶を込めた冷ややかな声でボソリと言う。かなり感じが悪いが、仲間達は既に慣れきっているので誰も気にしない。


 それからしばらく勇者と吟遊詩人は互いに乗る乗らないと粘り合っていたが、ひとまず話だけでも聞いてみようと話しかけた隻眼の船長が「リオーテ港? 予定はなかったが、大した遠回りでもないし乗せてってやるよ。ただ……そうなると出航はしばらく待ってくれな? 食料や水は大して積んでないんで、生者の兄ちゃん達と馬の分、ちょっくら街で調達してくるからよ」と感じ良く笑ったのを見て心が決まったようだった。


 乗組員の案内を受けて、おそるおそるタラップを登ると船に乗り込む。

「甲板だ! なあ、賢者! 甲板!」

「だから何だ、騒々しい」

「……おうおう、そんだけはしゃいでくれると嬉しいなあ。ファントースム号は俺達の誇りだからよ」

「ファントースム号っていうのか! かっこいいな!」

「だろ?」


 甲板に降り立つと、地面と違って停泊していても僅かに揺れている感じがした。荷物の積み込みはおおよそ終わっているらしく、二本の大きなマストに何人も人が登って帆を張り始めている。


「賢者! マストだ!」

「勇者よ。急に知能が低下したようだが、何か悪いものでも食したか? 良いから騎馬用の船室に馬を連れてゆきなさい」

「船室!」


 船の真ん中あたりに中へ入れる入口があって、そこから乗組員の案内で階段を降りて船室へと向かう。騎馬用だという船室はうまやのように一頭ずつ区切られている場所と、少し歩いたりできる広々としたスペースが設けられていた。


「どこでも好きに使ってくれ。一応世話係と獣医もいるから世話は任せてくれても構わんが……どうする? それ、普通の馬じゃないだろ?」

「え、わかるのか」

 勇者が目を丸くすると、いかにも海賊といった感じで頭に布を巻きつけた幽霊の男がニッと笑った。

「まあ、俺も死んで長いからな」

「私は医師で、浄化も使えますから世話はこちらで行います」

 神官がそう言うと、男はあっさり頷いて餌の場所を教えると「人間用の船室はそこの廊下沿い全部だ。好きなとこ使え」と言って上へ上がっていった。


「あ、すごい。ちゃんと有角馬用の乾燥花が入ってるよ」

「でも……乾いていると、美味しくないね」

 馬達に向かってぱちりと瞬きをして擬態を解いてやっていた魔法使いが、振り返るとほとんど聞こえないくらい小さな音でため息をつく。


「そりゃそうだけど、生花は日持ちしないからしょうがないよ」

 吟遊詩人が苦笑したが、魔法使いは少し考える様子を見せると、部屋の隅に置いてある藁の束を崩して床にばら撒き始めた。そして腰の革袋から何やら小さな粒のようなものをぱらぱらと撒くと、あっと言う間に植物の芽が伸びて小さな花畑ができる。


「こっちは……お布団に使おうね」

 そう呟いたエルフが乾いている方の花を寝床用に用意された藁の中に混ぜ込んでゆくと、さっそく花鹿のルシュが壁で区切られたそこへ入り込んで気持ち良さそうに寝そべった。


「そいつ、ほんとに寝るの好きだな……」

「ルシュと僕は……同じ部屋ね。針葉樹シダールはどこにする?」

「え、いやお前……ここに泊まる気か?」


 眉をひそめて花の香りが漂い始めた厩を見つめると、後ろで吟遊詩人が吹き出す音が聞こえた。隣の大陸までの数週間を厩で暮らすつもりらしい妖精を勇者はなんとか説得しようとしたが、しかしそのとき上から「おーい! そろそろ出航だぞ!」と声が聞こえてきたので、ひとまずエルフの奇行は置いておいて、皆で外に出ることになった。


 甲板に出ると、何と表現すれば良いのだろう、いかにも海賊船の船長っぽい帽子を被って黒い眼帯をした幽霊が、シートとタックがナントカと幽霊らしくない良く通るがらがら声で指示を飛ばしていた。船員達があちこちのロープを引っ張ると帆が少しずつ角度を変えて斜めになり、そしてばんと風をはらむ。


「錨を上げろ!」

 船長が叫んだのに「錨……!」と思ってきょろきょろと辺りを見回すと、マストから飛び降りてきた乗組員が船尾付近の床に嵌め込まれている大きな魔石をドンと片足で踏んだ。すると漂っていた魔力の気配がふっと消え、船が風を受けてゆっくりと動き始める。


「船出だ! ラウラ海流へ、とおりかあぁじ!」

 船長が高らかに叫んで凄い勢いで舵をぐるぐると回した。すると港に横付けになっていた船がゆっくりと向きを変えて海の方へ走り始める。船を覆っていた薄いもやがさあっと流れていった。


「とおりかじって何だ?」

 賢者を見上げて尋ねる。色々聞きたい話が出てくることを見越して、あらかじめ隣を陣取ってあったのだ。


「取舵。左へ旋回すること」

「よく本に出てくる『面舵いっぱーい!』ってやつは?」

「右へ旋回」


 淡々と答えてくれる賢者は、快晴の青空ときらめく海を背景に爽やかな潮風で髪をなびかせているのがとことん似合わない。人魚の国を出て以来暑くてもマントを着込んで脱ごうとしない姿といい、元気な船員達と比べるとこいつの方が幽霊っぽいなと思ったが、今は質問に答えてもらわねばならないので黙っておいた。


「へえ……あの丸いのを回すと舵が取れるんだよな」

「左様」


 船が向きを変えるのに合わせて、船員達が次々にロープを引いて帆が風を受け続けるように角度を調整する。これぞ海の男という感じでかっこいいなと思っていると、ニヤッと笑った船長が勇者に声をかけた。


「舵取りやってみるか、兄ちゃん!」

「いいのか!?」

 期待を隠しきれずに目を見開いて叫ぶと、船長が楽しくて仕方がないという様子で豪快な笑い声を上げた。

「もうちょっと沖へ出たらな!」

「やった!」


 喜びのあまり両手の拳を握って勢いよく掲げると、視界の端で賢者が呆れた顔をしているのが見えた。が、はしゃいでいるのは勇者だけではなかったらしく、吟遊詩人も小さな声で「船長さん、僕もやってみたい……」と話しかけている。


「おうよ、やってみなやってみな! こんな可愛い嬢ちゃんに動かしてもらえたら、ファントースム号も喜ぶってもんよ!」

「船長! その子、男の子っすよ!」マストの上の見張り台から船員が叫ぶ。

「ああ!? そりゃすまん! 生前からどうも鈍くてなあ、はっはっは!」

「ううん、よく間違われるから」


 そんな具合で海の旅は幽霊船にも関わらず、大変明るく爽やかな船出から始まった。


 勇者はしばらく船が進む様子を眺めると吟遊詩人を連れて船の探検に乗り出し──そして船員の道具が積んである船底に近い場所で、いかにも海賊らしい感じの武器と財宝の山を発見してちょっとたじろいだのだった。





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