二 海の夜明け



 船室に窓はなかったが、火の魔力の恩恵でなんとなく太陽の位置を把握することのできる勇者には、もうすぐ日が昇るという時間に目覚めたことがわかった。


 船で過ごす夜はなかなか快適だった。波の音はさほど聞こえなかったが、マストが揺れているのだろうか、ゆったりと大きな船の揺れに合わせて僅かに木の軋む音が心地良い。船員の話を聞くところによると長く使われていないようだった部屋も、寝台の下まで丁寧に掃除されている。水周り、特に排水は魔導分解式という幽霊に似合わない最新の高価な設備を積んでいるらしく、潔癖症の賢者が大きく安堵のため息をついていたのには笑った。


 軽く顔を洗うと、夜明けの海を見ようと部屋を出る。まだ皆寝静まっているかと思っていたが廊下に出ると小さな話し声が聞こえてきたので、声を辿って馬房の方に顔を出した。


「起こせと言ったのはそなたであろう、魔法使い」

「……眠いよ」

「起きなさい。海の黎明を見逃して良いのか」

「起きて欲しければ……撫でろ」

「私がそなたに『起きて欲しい』などと考えている可能性がどれほどあると思うかね? 置いてゆくぞ」


 どうやらこちらは日の出を見るために早起きしたらしい二人のやりとりに微笑む。相変わらず綺麗なものが好きな仲間達だ。


「おはよう」

「ああ……おはよう」


 賢者が振り返ると、未だに慣れない感じで挨拶する。しかしこうしてやわらかい言葉を返してくれるようになったのは、彼にしてはかなりの進歩である。なんたって「おやすみ」はまだ言えずに「気の祝福を汝の夜に」とか眉間にしわを寄せて堅苦しく呟いているくらいだ。朝の挨拶も最初は「夜明けに水の恵みを」だった。はじめは気の領域の最高峰である賢者のレフルスが「水の恵み」という言葉を使うのを意外に思ったが、神官によるとそういうことではないらしい。例えばハイロが去り際に「気の祝福とともに良い夜を」と言うのは、気の審問官だからというわけではなく、つまり夜は気、朝は水とそれぞれの時間を司る神の名で挨拶するものなのだ。なかでも勇者は「夕焼けの炎をあなたの心に」という夕方の挨拶が気に入っていた。


 そんなことを思い返していると、干し桃の袋を手にきょとんとしていた先日の可愛い顔を思い出してしまって胸がずくんと疼いた。頭の奥がぼんやり痺れるような感じがして、その痺れを逃がすようにようにほうとため息をつく。確かにガラス玉のような目をしてはいるが、もしかするとそれが彼女の静かな雰囲気を引き立てて美しい人形のように見せているのかもしれない。ああ、そのガラスの瞳に一瞬だけ命が吹き込まれた瞬間は、まさに奇跡のようだった──


 ふと気づくと賢者が訝しそうな顔でこちらを見ていたので、ごまかすように彼の隣にしゃがみこむと、鹿に寄りかかって眠るエルフの頭をわしゃわしゃとかき混ぜた。すると魔法使いが目を閉じたまま、いつになく訛りのないヴェルトルート語ではっきりと言う。


「針葉樹」

「ああ、針葉樹だ。おはよう魔法使い、一緒に朝日を見ないか?」

「……見る」


 ふにゃふにゃと腕だけ伸ばしてみせる妖精を引っ張り起こしてやると、彼は満足げに息を吐いてようやく灰色がかった美しい薄青の目を開けた。ようやく起き出したエルフと、それからなぜか妖精が「ルシュも行く?」と誘った鹿と、それからついでに馬達まで連れてぞろぞろと甲板へ出る。


 そうやって皆で眺めた海の日の出はすこぶる美しかった。山の合間から見える朝日だってもちろん綺麗だが、水平線から昇る太陽は海の真ん中にキラキラ光る金色の道を作っているのだ。その道筋は何かを示すようにこちらに向かって伸びていて、思わずそこを辿って船を進めたくなるような不思議な魅力がある。魅了の魔法に心を引き寄せられるような感じとは違う、もっと厳かな……最高神である天の神が光の神でもあることを自然と思い出すような、あの道の向こうに神様がいるんじゃないかと思わせるような、そんな光だった。


 神官にも見せてやろうと思って踵を返すと、馬まで連れて騒々しく出てきたからか、ちょうど神官と吟遊詩人が目をこすりながら甲板に上がってきたところだった。


「おはようございます」

「おはよう……おいロサラスお前、顔が真っ青だぞ」

「ええ、ちょっと……いえ、かなり酔ってしまって。でも朝の風に当たってこの景色を見たら少し楽になりましたよ」

「酔ったって、馬車の時みたいなやつか」


 なんだかものすごくげっそりしているので、人魚達ではないが今にも死にそうに見えてちょっと怯んだ。どうやら船の揺れに目を回しているらしいが、ガタガタ揺れながらどんどん周囲の景色が変わっていく馬車と違ってこんなにゆったりしているのに、どうしてこうなってしまうのだろう。


 症状が重いらしく魔法使いの水の祝福では治りきらなかったが、賢者が手のひらで神官の両耳を塞いで何かぶつぶつと呟くとかなり吐き気が治まったようだった。


「乗り物酔いは、平衡感覚を司る器官が過度に刺激されることで起こる神経の失調だ。故に心理面から神経の調子を整えれば治まることが多い。一時的なものだが、解ける頃には身体が揺れに慣れているはずだ」

「へえ……なるほどなあ」


 腕を組んで頷いていると、歩み寄って来た賢者がちょいちょいと人差し指の先で手招きしたので耳を貸す。なんだかわからないが、この男がひそひそと内緒話をすることなどめったにないのでちょっと楽しい。


「同時に『偽薬』と呼ばれる暗示をかけてある──つまり今のあやつは『自分はもう酔わない』と思い込んでいるため、あまり刺激しないようにしなさい。『もう具合は悪くないか』などと聞いて酔いを意識させるな。忘れさせておけ」

「え、うん……わかった」


 恐々目を向けると、神官はすっかり晴れやかな顔で手すりに寄りかかりながら朝日を眺めている。何かの暗示にかけられているようには全く見えないことに却ってぞっとした。


「……昨日の昼はあんなに日差しが強かったのに、朝はちょっと寒いくらい冷えるな」

「海で風が冷やされるのもありますけど、もう秋ですからね」


 本当に顔色が良くなった神官を凝視しないように気をつけながら、少し体が冷えてきたので中へ戻る。気分転換ができた様子の馬達を馬房に戻すと、早速といった様子で寝床に寝そべった鹿のルシュが、勇者を見上げてキューっと立て付けの悪い扉が軋むような声で鳴いた。


「え、何だ?」

 思わず尋ねると、それに返事をするようにまた長々と鳴く。


「……こいつどうしたんだ?」

 飼い主のエルフに顔を向けると、彼はまた少し眠くなってきたような顔で鹿の隣に座りながらゆったりと頷いた。


「ただ、鳴いているよ」

「え?」

「そういう、気分なだけ」

「は?」


 そんな不可解な鹿を枕にしている不可解な妖精は、結局この馬用の船室に住み着いたようだったが、しかし馬達にとってそれは良いことであるようだった。部屋の中はほんのりと優しい花の香りがして、深い森のような気配が充満している。甲板で潮風に当たっている時よりも安心した顔をしているのは、おそらく気のせいではないだろう。


 かくいう勇者も、なんだかこのところ海続きで少し気疲れしていたのが癒される気がして、空いている馬房に入ると藁の布団にごろりと横になってみた。吟遊詩人が「勇者まで……」と呟くのが聞こえたが、目を閉じると森の地面に横たわっているような感じがして心地良い。


「俺も今夜はここで寝ようかな……」

「え、ちょっと、嘘でしょ? なんで?」

「森の気配がする……」

「いやいや、だからってそれはないでしょ。ほんとに野生動物なの?」

「うーん……」


 吟遊詩人が揺り起こそうとするのに背を向けて少しうとうとする。しかし心地良い森の空気に身を委ねていると、急に船が大きく揺れて勇者は飛び起きた。


「何だ!?」

 素早く周囲を確認する。思ったより長く眠っていたらしく、魔法使い以外の仲間達は部屋へ戻ったようだ。


「勇者……静かに」

「あ、すまん」


 耳の良いエルフを怖がらせてしまったかと思ったが、彼はどちらかというと馬達を怖がらせないようにという意図でそう言ったようだった。動揺しているアルザとクルムの首筋を撫でて優しく「大丈夫だよ……」と囁くと、勇者へ「甲板に、出るよ」と頷きかける。


「レタ、俺は様子を見てくる。皆を頼んだぞ!」

 ミュウに鼻を寄せてやっていたレタが勇者に目を合わせて小さくいななくのを確認すると、階段を駆け上がって甲板へ繋がる扉を勢いよく開ける、と目の前に巨大な白い物体が横たわっているのを見て急停止した。


「は!?」

 驚愕に任せて視線を右往左往させると、何か大きな生き物の触手のようだった。それが船体にべったりと絡みついて、というか大きな吸盤で吸いついているような──


「何だこれ!」

「イカだよイカ! 見りゃわかんだろ!」

 船長がからりとした声でそう言いながら、腰から抜いたサーベルを無造作に馬鹿でかいイカの脚へ突き刺した。


「船長!」

「あー、大丈夫だ。この程度日常茶飯事だからよ、船室に戻ってな。なあに、一、二時間で片がつく──いや待てよ、もしかして兄ちゃん達、魔力余ってたりするか」

「何に使う魔力だ」

 いつの間にか後ろに立っていた賢者が気持ち悪そうに巨大な吸盤を見ながら尋ねた。


「いやな、俺が昔調子に乗って取り付けた魔導式の盾があってよ。発動させられるだけの膨大な魔力なんざ、だあれも持っちゃいなかったんで忘れてたが……それが使えればただのでかいイカくらい一発でのせる」

 船長が楽しそうに笑いながら目の前の白い脚をばさりと切り落とす。うねっていたそれが甲板に落ちたべちゃっという音にぞっとしたような顔をしながら、賢者が頷いた。


「良いものを積んでいるな。私では不可能だが、魔法使いならば発動できる。すぐに向かおう──私達だけで船長室へ立ち入っても良いだろうか」

「おっ、マジか! 鍵が掛かってるんで、部屋には俺も行く。いやあ、ファントースムの魔導機器が発動する機会がくるとは、長生きはしてみるもんだぜ! あ、もう死んでたか! はっはっは!」

「お、面白くない……」


 勇者の後ろで吟遊詩人が慄いたように呟いた。聖剣でイカの脚を斬り払いながら皆で固まって船尾側にある船長室へ転がり込む。すると大きな机の天板に複雑な魔法陣が彫り込まれているようなものが置いてあり、賢者がそこに嵌め込まれている魔石のひとつを指差した。

「ここから魔力を。魔術ゆえ、呪文は私が唱えよう。九割まで充填したら代わりなさい」

「うん……」


 魔法使いがそっと触れると、指先から水を注ぐように銀色の魔力が流れ出すのが透明な魔石を透かして見えた。一個目の魔石が染まりきると、そこから川が流れるように魔法陣へと魔力が注がれ始め、複雑な紋様が光り輝いて次第に部屋中を明るく照らした。


「フルム=スクラ=ル・ナウィラ」

 魔法使いと場所を変わった賢者が魔石に手を当てながら唱える。すると机の魔法陣から中央の魔石に向かって恐ろしい勢いで魔力の光が吸われてゆき、そして部屋の外で鳥肌の立つような魔力の気配がした。


 振り返ると、メインマストの根元に嵌め込まれていた大型の魔石から、うっすらと見える銀色の球型をした魔法陣がビィンと──フラノが使う顕現術の盾を叩いた時のような音を立てて大きく広がり、船を覆うように絡みついてきていた巨大なイカの脚を全て弾き飛ばした。分界ぶんかいは船全体を大きな球で覆うように広がり……水は通している様子なのに、イカはそれ以上中へ入ってこられないらしい。

「魔法陣なのに、盾?」不思議に思って首を傾げる。

「魔導具として使われるものには、顕現陣ではなく魔法陣が使われることが多い」

 賢者が答えた時、わっと船員達が一斉に喝采を上げた。イカを退けたのを喜んでいるのかと思ったが、よく見ると彼らはそんなものには目もくれず、光り輝く魔導文界の紋様を見上げてわいわいと騒いでいる。何人かが「今夜は酒盛りだ!」と叫び出し、船長に至っては何やら感動で涙ぐんでいた。


「てめえら! 夜まで待つ気か!? 俺達の女神ファントースムの記念すべき日だ、昼だろうと関係あるか! 存分に飲め、そして騒げ! 宴だ!!」

「アイアイサー!!」

 村で暮らしていた時の癖で思わず一緒に拳を突き上げてしまった勇者は、魔導設備から手を離して振り返った賢者のうんざりした顔を見てそっと腕を下ろし「ええと、俺達は船室に戻ろうか」と愛想笑いした。


「私はそうさせてもらうが、そなたは好きにすれば良い」

 船長の言葉を喜んでいただろう、と肩を竦める賢者に慌てて「俺は別に、騒ぐのが好きなわけじゃ」と言うと、仲間に嫌われないよう必死になっていると思われたのかなんだか憐れむような顔をされた。あんまりはしゃいでばかりだと格好悪いと思っただけだのだが、より情けない方向に解釈された気がする。


 だが結局、この日の昼間に海賊達が飲んで騒ぎ始めることはなかった。さあ酒樽を持ってこようという段階になった時──幽霊が酒を飲めるのかどうかは知らないが──船長が急に険しい顔になって「てめえら、宴は延期だ! 嵐が来る、帆を畳め!」と鋭く叫んだのだ。浮かれた様子だった船員達も人が変わったように厳しい顔になって、テキパキとあちこちのロープを外して帆を巻き上げ始める。


 ぐるりと見回すと、そう遠くない場所にぽっかりとひとつ大きな黒い雲と、そしてそこから降る激しい雨が見えた。周りの空はみんな晴れ渡っているのにそこだけが唐突に激しい風雨に晒されていて、見ている間にも黒く影になった波が大きなしぶきを上げた。


「何だあれ、嵐って海の上だとあんななのか?」

 勇者が見上げると、賢者が難しい顔で腕を組んだ。


「いや──魔法使い、魔導盾を強化するのに協力しなさい。おそらく海竜の成体だ」





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