三 黒い嵐 前編



 賢者が分界を発現させている魔道具の魔石に触れた手をすっと持ち上げると、そこから線で繋げるように、空中に影色の魔力で幾重にも重なった複雑な魔法陣──というよりも、魔法陣と顕現陣が混ざり合ったような不思議な紋様が描かれた。さっと場所を変わった魔法使いが魔石に指先を乗せると、今度は机の上だけでなく空中の陣にも魔力が注がれてゆく。部屋中の空間を埋め尽くした陣が全て銀色に塗り変わったところで、賢者はニヤッと笑うと呆然とその光景を眺めている勇者に言った。


「面白いものを見せてやろう。外の分界を見ていなさい」


 振り返って、薄っすらと遠くに見える銀色の分界──板状ではなく中の船を包み込むような形状になった盾を眺める。部屋の中から賢者が呪文を唱える声が聞こえ、眩しいほど光っていた船長室からの光がふっと消えた。


 どうやら机の魔法陣と連動しているらしいメインマストの魔石がピカッと輝きを強くした。すると、船を球型に包んでいる複雑な銀色の紋様から内臓を揺さぶられるような大きな魔力の波動が起きて、次の瞬間には陣の天頂部分からざあっと波が立つように、淡い銀色から鮮やかな赤へ色を変えてゆく。燃えるような紅に、つまりそれそのものが守護の力を持つ火の魔力の色に変わった分界は、その紋様もより複雑なものに姿を変えているようだった。隙間を埋めるように細かくなっただけでなく、魔法陣自体が……大きな三重の球体がそれぞれ違う方向にゆっくりと回転するようなものになっている。帆を畳んで甲板の荷物を船内へ運び下ろし、嵐に備えていた船員達もぽかんと手を止めて呆然とそれを見上げた。


「か、か、かっこいいなっ……! なんで魔法使いの魔力なのに赤くなるんだ?」

 勇者が賢者と陣を素早く交互に見比べながら尋ねると、賢者が少しだけ自慢げな顔で笑った。

「魔力変換式だ。生来持ち合わせた魔力を、術式に見合った魔力へと変質させる。転移魔術にも組み込んである仕掛けだ」


 それ以上言葉にしなかったが、この誇らしげな顔を見るに彼の発明なのだろう。言われてみれば村から塔へと転移した時の魔術も、発現させたのは魔法使いなのにも関わらず緑色の光が渦巻いていた。


「海上に火の魔力は不利と思うであろう? しかしこの魔法陣には新たな試みとして、人魚の魔力経路を参考にした回路を組んである。故にこの分界は海の水を通す度、爆発的な反発力を手に入れるのだ。つまり、水に触れれば触れるほど強化される」

 そう言って段々と近づいてくる嵐を見つめて好戦的に目を細める賢者は、まさに魔王様といった感じでとてつもなく怖い。真っ黒な雲が頭上を覆い、ごうごうと響く風と波が船を振り回した。今にも転覆しそうに傾いて思わず腹に力を入れると、船長が「出るぞ!」と叫ぶ。


 青い鱗に覆われた頭だけで、船と同じくらいの大きさがあった。これが海の神だと言われても納得してしまいそうな人智の及ばぬ竜の存在感に、船員の一人が腰を抜かして尻餅をつき、皆が硬直してそれを見つめる。勇者の背丈よりもずっと大きい巨大な海色の瞳がぎょろりと辺りを見回して、そしてゆっくりと開かれた鋭い牙の並ぶ顎が──ばくんと身の毛がよだつような音を立てて、イカを食べた。


「……あ?」


 勇者が口を半開きにして見ていると、海の化身のような竜はうねうねと脚をくねらせる巨大イカを何度か咀嚼し、なんだか幸せそうに目を細めた。


「イカが……美味しいのだね」


 魔法使いがぽつりと言った。サーベルを握りしめて竜を睨んでいた船長が、困惑した顔でゆっくりと腕を下ろす。


 竜はのんびりとイカを味わって飲み下すと、赤い魔法の光に目を向けてくんくんとかいだ。ツンと鼻で突くと、まるでガラス細工か何かのように三重の魔法陣の外側二枚が砕け散る。船上の人間達は恐怖に縮み上がったが、しかし海竜は砕けた魔法陣の破片を消える前にと急いで口に含み、そして「まずっ!」という感じで首をぐっと引くと、興味を失ったように船へ背を向けた。ざぶんと潜ると大きな波が起きて床が斜めになり、神官が「あっ……」と言いながら滑っていったのを追いかけて捕まえる。


「おいしく、なかったのだね……」魔法使いが悲しげに呟いた。

「美味しかったら僕らも味見されてたでしょ……というか、盾が火の魔力じゃなかったらやばかったよね? 魔力を食べるなら、花の魔力とか絶対一番美味しいって」

「確かに……なんか甘そうだよな」

「だよね?」

 吟遊詩人が身震いすると、周囲の幽霊達もぞっとしたように二の腕をさすった。


 ゆったりと海竜が立ち去ってゆき、それに伴って大嵐だった海が夢から覚めたように晴れ渡った。再び帆が張られると、波に揺られていた船体がぐんと風を受けて進み始める。帆を結わえていたロープを解くためにマストへ登っていた乗組員がそのまま見張り台に備えつけれられた望遠鏡を覗き込んだのを見て、後で覗かせてもらえないか頼んでみようと密かに決意する。


「視界が悪かろう、分界を解くぞ」

 賢者がそう言って魔法陣に向かって手をかざす。白い雲に穏やかな風、全てが元通りに美しかった。


 見張りのいるマストを睨んだ船長が、鋭く賢者を制止するまでは。


「いや、少し待て──おい、何が見えた!」

白紅びゃっこう、マレテの方角からおよそ十レムナ! 飛竜と思われる黒い影が三体!」上から見張りの叫び声が降ってくる。

「飛竜だと! どういうことだ!」

「吟遊詩人」

「わかってる」


 賢者の呼びかけに呪布を解いた吟遊詩人が、見張り台の望遠鏡が向いている先に向かってじっと目をこらす。

「濃い淀みが見える……たぶん魔竜だ。でも少し遠いな」

 少年が駆け出してするするとマストを登り、見張り幽霊の隣に降り立つ。

「ちょっと貸して! これ魔導式だよね?」

「へ、へい」


 縞々の布を頭に巻いた頬に傷のある幽霊が、少女のように可愛らしい彼から漂う唯ならぬ気配に目を丸くして場所を譲った。吟遊詩人がすかさず望遠鏡を覗き込もうとして──身長が足りず、ちょっぴり苦笑した幽霊に高さを調整してもらって少し頬を膨らませた。


「飛竜型の魔獣が三体……背中に人が乗ってる! 三人とも気の魔力に灰マントの男性、背中に……先に輪っかがついてる金属製の杖!」

「な、なんでそこまで見えるんだ?」

「気の審問官だ、すぐに降りなさい! 見張りのそなたもだ!」

「俺、見張り失格かなあ……」


 吟遊詩人と見張りの男が急いでマストを降りてくる。それを見守りながら賢者が早口で船長に事情を説明し、全員船の中へ退避するよう指示を出した。


「いや、退かねえよ。兄ちゃん、海賊を何だと思ってる? 例え元々は俺達に関係ねえ敵だろうとな、一度船に乗せた仲間を見捨てるようなことはしねえ。ましてや海竜から俺達の女神を守った人間だぜ? なあに、俺たちゃ誰ひとりとしてもう死なねえんだ、心配するなって」


「あ、やっぱり海賊なんだね……」

 小走りに戻ってきた吟遊詩人がそう言うと、船長は「おう! 見たまんまだろ!」と豪快に笑った。そのまま賢者達とこれからの動きについて話を詰め始めたので、勇者は少し後ろに下がって動揺している様子の神官の肩を抱いてやった。


「……どうした?」

「神殿の人間が、魔獣に乗るなんて……あれは調教できるような生き物ではありません、きっと気の洗脳術で従えて無理やり騎竜としているのでしょう。いくら狂信者に成り果てたとはいえ、仮にも神に仕える人間が、そんな、そんな……」

「あー、泣くな泣くな。大丈夫だ。今はおかしな組織になっちまってても、未来永劫そうってわけじゃない。世界を救い終わったらさ、今度は俺達で神殿を救いに行こう。助けてやればいいんだ、みんな」

「……勇者」


 今にも泣きそうに水色が揺れていた瞳が、勇者を見上げてすっとその色を濃くした。勇者はいつも通りの強い神官に戻った友に満足すると、段々と近づいてきた黒い影を見据えて背中の弓に手を伸ばす。


 鳥、いやグリフォンと比べても段違いの速さで迫ってきた魔竜が、降りる場所を探すようにぐるぐると船の上空で旋回した。素早く矢をつがえ、鱗のない飛膜を狙って放つ。金属の矢は深々と突き刺さったが、魔獣である上に洗脳までされているらしい竜は何の反応も示さない。それどころが三頭の竜が通り過ぎざまに赤い魔法陣を蹴りつけて──四度までは耐えたが、五度目には大きくヒビが入って砕け散った。


「賢者、どこを狙えば体勢を崩せる」

「最も効果的なのは乗り手だが、難しければ翼の付け根、肩関節を狙え」

「わかった」


 三体同時に狙うこともできそうだったが、威力を出すために一本に絞って限界まで弓を引く。が、以前戦った魔猪程度なら軽々と射貫けそうなこの弓でも竜の鱗には敵わず、硬質な音を立てて矢は弾かれてしまった。


 勇者は背中の矢筒に手を突っ込むと今度は三本纏めてつがえた。既に一本刺さっている飛膜の周辺を狙って次々に放ち、穴を広げられないか試す。しかしたった二十本、いやグリフォン戦で二本なくしたので十八本しかない矢はあっという間に残り四本まで数を減らし、丈夫な皮膜は少しも──


 息を呑むと弓を放り捨てて背中の聖剣を鞘ごと引き抜いた勇者は、周囲を薙ぎ払うように全力でそれを振り抜いた。勇者の周りに固まって様子を見ていた仲間と幽霊達が巻き起こった風で吹き飛ばされ、床を転がると手摺りにぶつかって止まる。


 そんなことをしていたから、剣を抜いて構え直す暇がなかった。彼が素早く視線を巡らせて仲間の位置を確かめた次の瞬間、中央に一人残った勇者に向かって魔竜の一頭が急降下する。


 あ、ダメだ──


 その速度とグリフォンよりもずっと大きい体躯を見て、敵わない相手であることを悟った。物陰に逃げようとしたが、間に合わなかった。


 大きな鉤爪が肩を掴んだと思った瞬間、ズドンと甲板を割りながら着地した魔竜に踏み潰された。夢であってくれと願いたくなるような激痛が全身を貫いた。





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