四 黒い嵐 中編一(賢者視点)



 背中から竜に押さえ込まれた勇者が、喉の潰れるような悲鳴を上げた。


 その声にすうっと頭から血の気の引く感覚がした賢者は、思わず背後の手摺りを掴んで体を支えた。しかしすぐさま頭を振って深呼吸すると、ひとまずは無謀にも駆け出そうとする吟遊詩人を捕まえて呪布で目を覆う。


「──離して! 見せてよ! 今は逃げていい時じゃない!」

 繊細な鷲族の青年が振り絞るように叫ぶ。意識を保つために自分で噛み切ったらしく、唇の端から血を流していた。何か無理を思いとどまらせる言葉をかけようと思ったが、頭の中をぐるぐると思考の断片が渦巻いていて声が出ない。


 年若い勇者を知識ある賢者として導いているつもりだったが、思っていたよりも自分は朗らかで勇猛果敢なその存在に心を預けていたらしい。初めて聞いた彼の悲鳴に──助けようと奮い立つのではなく、足元が崩れるような心細い恐怖感が押し寄せて、賢者は湧き上がる動揺を必死に押さえ込んだ。


 不意に腕の中から暴れて抜け出そうとする動きが止まり、吟遊詩人の目元を押さえている手の甲を温かい手が覆った。そうされて初めて、己の手が細かく震えていることに気づく──誰より冷静でなければならないのに、十五も年下の子供に慰められていてどうするのだ。そう思って顔をしかめると、賢者はなんとか打開策を考えようと周囲に目を向けた。


 神官が先程の嵐で濡れた甲板をドンと踏み、足元から水を媒介に魔力の道を伸ばして、勇者の真下に癒しの顕現陣を立ち上げた。眩い水色の光が立ち昇るが、しかし勇者は未だ苦しげに歯を食いしばっている。体を起こそうと腕に力を込めているのに、下半身は力なく投げ出されたままだ。おそらく腰の骨が折れている。


「やはり遠隔では弱いですね──吟遊詩人、歌いなさい!」

 この状況下で少しも動揺していない、医者の鑑のような男が叫んだ。思うように力の入らない腕から吟遊詩人がするりと抜け出し、リュートの入った鞄を肩から降ろすとボタンをいくつか弾き飛ばしながら破るような勢いでこじ開ける。



  燃やせ、決して穢れぬ金の炎を

  生きろ、そなたの背負う使命のために

  燃やせ、決して消えぬ命の炎を

  生きろ、そなたを愛す仲間のために



 鬼気迫る命の歌だった。リュートの調弦が合っておらず、しかしその不協和音を凄みに変えるように、振り絞る勇気に枯れた声で歌う。賢者の半分にも満たない彼の魔力量でなぜそんなことができるのか全く理屈がわからないが、船全体を奇跡が包むように命の魔法が吹き荒れ、少しずつ虚ろになりかけていた勇者の目に光が戻った。それを聴いているとぐらぐらと頭を揺らす恐怖が静まって、少しずつ思考が纏まり始める。


 船長の合図で、雄叫びを上げた海賊達が武器を手に一斉に飛びかかる。が、竜の背にいる審問官はそれを見越していたようで、大きく一言「跪け!」と声を響かせ、一瞬で全ての幽霊を無力化してしまった。


 ぐらりと膝をつきかけた吟遊詩人と神官の頭に触れて術を解く。幽霊達は……まあそのままで良いだろう。無計画に暴れ回られるより、大人しくしていてもらった方がやりやすい。


 驚いたことに──そして恐ろしいことに、勇者は未だ意識を保っていた。胸元を吐いた血でべったりと染めながら瞳をギラギラとあかがね色に輝かせ、傷だらけの腕で竜の翼を掴んで離さない。朦朧としているであろう思考の中ですら、仲間達に敵の意識が向かないよう自分へと引きつけているのだ。右手から音もなく金の炎が広がって、淀んだ魔力を浄化された魔竜が悲鳴を上げた。


 勇者のその勇敢な行いは確かに仲間を救ったが、彼にとってはただ悲劇しかもたらさなかった。翼を燃やし淀みを消し去ってゆく元凶を断とうと、竜が鋭い牙でその肩に食らいつき、大きく首を振る。二度目の悲鳴を彼は堪えたが、不自然な方向に折れ曲がり千切れかけた仲間の腕を目にした途端、頭がぐらりと揺れて視界の端がすっと暗くなった。しかし倒れるわけにはいかないと、賢者は歯を食いしばって魔力を巡らせ、自分に強い暗示をかける。


──恐れるな。勇者を救い出す、それだけを考えろ


「魔法使い」

 竜を見つめたまま、背後のエルフに手を差し出す。分界を発現させた際に魔力の大半を使い切っていた。このままではいくら声を張っても、魔力で自分を上回り、距離もある魔竜や審問官に術をかけるのは不可能だ。おそらくまだ半分以上は残っているであろう彼から譲渡を受けようと思ったが、しかし予想に反してその手が握られることはなかった。


「……ルーウェン! 見るな!」

 花の妖精が、周囲の音など全く何も聞こえていないような顔で勇者を──魔竜によって一方的に傷つけられ蹂躙じゅうりんされる仲間を見つめていた。瞳孔が開き、僅かに口を開けて浅く速い呼吸を繰り返している。精神への負荷が動揺を超えて、発作の域にまで達しているように見えた。


 賢者は魔法使いの両肩を掴んで見開いたまま動かない瞳を覗き込むと、強い精神安定の暗示をかけようとした。しかし、送り込んだ魔法は圧倒的な魔力差で弾かれ消し飛ばされるばかりだ。


 彼が普段魔法使いへ簡単に魔法をかけることができるのは、かの妖精がそれを受け入れているからである。仲間としての信頼があるからこそこれだけ魔力量に差があるなかで暗示や命令が成り立つのであって、賢者を賢者として認識すらできていない様子の今は、例えるならば海の水にマッチで火をつけようとしているようなものだった。


 吟遊詩人の歌を聞いた上でもこうなってしまった魔法使いを落ち着かせる手段を思いつけない。ひとまず物理的に目を塞ごうと手を伸ばした時、恐れていたことが起きた。重篤な過光環症候群かこうかんしょうこうぐん、つまり魔力の暴走である。いつもの星とは違う強烈な光を放つ光の玉が乱れ飛び、魔力圧で体ごと弾き飛ばされた。銀色に可視化して見える風が彼の周囲を渦巻き、とても半分に減っているとは思えない凄まじい魔力の気配に竜の上の審問官が目を向けるのが見えた。


 ルーウェンは花の魔力と気の魔力を併せ持つ珍しいエルフだった。ほんの僅かだが気の祝福を受けているが故に、その魔力は花鹿の角のような純白ではなく、少し影の混ざった星の銀色をしているのだ。普段は目立たないその風の力が発現し、無意識に周囲の人間を吹き飛ばすような威力に達していた。


 清涼な花の香りがする風に向かって、魔竜が声なき声で吠えた。暗く淀んだ魔吼まこうと美しい銀の魔力がせめぎ合い、その間で起きる激しい嵐から生命線たる医師を守ろうと、賢者は吟遊詩人の腕を強引に引きながら神官に駆け寄ると、残り僅かな魔力を振り絞って小さな半球型の守護分界を立ち上げた。


「賢者、魔力を」

「ならぬ。そなたの魔力は温存しておきなさい。欠乏症状が現れぬ程度に抑える故、私には構うな」

 賢者と違って潤沢な魔力を譲り渡そうとした神官に首を振り、周囲を覆う薄紅色の顕現陣を睨み上げて紋を描き換え、魔力効率を上げてゆく。


 穢れた魔力から魔法使いを守ろうとしたらしい勇者が渾身の魔吼を放つと、魔竜の全身が金の炎に包まれた。背に乗った審問官が素早く立ち上がって宙に身を踊らせると、背後から低空飛行で迫ってきたもう一頭の魔竜の足に掴まって離脱する。


 審判の宣言もなく魔獣に騎乗している彼らが全く別の敵ではないかとはじめは考えたが、マントの刺繍と独特の形状の杖を見る限り神殿の人間で間違いはない。なれば何ゆえ魔獣などに乗っているのだろうかと考えるが……世界の滅びを願う者にとって魔獣は悪の存在ではなく、ただレヴィエル神の被造物として、いやむしろ世を「真の救い」へと導く神聖な──もしや選定の席を外したというのは「そういうこと」である可能性はないだろうか。神の意志は全くこちらにあるものと疑いもせず思っていたが、渦神が神殿側についているということは──


 この状況で考えるには難解過ぎる問題であると、しかし賢者はその思考を振り払った。魔力の尽きた彼にできることは少ないが、しかし緊迫した状況下では得てして、僅かな気づきこそが命運を分けるものだ。無力だからといって決して無駄ではない。一瞬たりとも気を抜くことはできなかった。


 操っていた乗り手がいなくなったが、しかし魔竜は本能的に己の生命を脅かす勇者を敵として認識したらしく、轟くような咆哮を上げて再び食らいつこうと顎を開いた──しかしその刹那、どす黒く光る巨体が突然不自然に浮かび上がり、仲間を狙った鋭い牙がガチンと音を立てて空を咬む。


 視線を向ければ、緩やかに虚空へ腕を差し伸べた魔法使いが、無機質な視線で縛るように竜を見つめていた。彼がその手をすっと持ち上げると、逃れようと暴れる魔竜の体が空中に吊り上げられる。


 魔法使いと魔竜を鋭い視線で見比べた神官が、吟遊詩人の肩を抱いていた腕を離して分界の中から飛び出した。魔竜の影が落ちる甲板に──魔力を暴走させているエルフに何かあれば放り出された巨体に押し潰される位置に駆け込むと、ボロボロになった勇者の体に手を当てて見たことのないほど大きな顕現陣を立ち上げる。


 そうなると問題は魔法使いの方だったが、彼は竜を空中に拘束したまま、圧倒的な強者として冷静に獲物を観察しているようだった。暴れる尾が勇者達に当たらない場所まで更に高く吊り上げると、魔竜が未だ闘争心を失わず足元の勇者を襲ってやろうと身をくねらせるのを静かに見つめる。


 その姿は頼もしく見えて良かったはずで、現に海賊達は「行け!」「やってやれ!」と拳を上げて歓声を上げていたが──しかし、美しく優しい花の妖精の別人のような姿に、賢者の心はただ軋むように痛んでいた。


 魔法使いが差し伸べた手をゆっくりと絞るように握る。締め上げられて甲高い叫び声を上げた竜の首が徐々に後ろへと捻られ……そして音を立てて折れた。

 絶命してぐったりとした竜の死骸は、さっと腕を振るったエルフによってゴミのように海へと捨てられた。





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