五 黒い嵐 中編二(神官視点)



 魔竜を空中に持ち上げているのが魔法使いであることを確認した、その瞬間に動いた。吟遊詩人が慌てて引き止めようと手を伸ばしたのが視界の端に見えたが、なにも無計画に危険へ飛び込んでいるのではない。あの魔法使いが勇者と自分の真上に竜を落としたりするはずがない、愛の祝福豊かなエルフはたとえ魔力暴走の最中であっても仲間を傷つけたりしない──そう確信しているからこそ、決して行動不能になってはならない医師の自分がこうして負傷した仲間の元へ走ることができるのである。


 血溜まりの中に横たわって呻く勇者に手を触れ、顕現陣と顕現祈けんげんき──魔術的な陣に対して魔法に相当する祈りの力の双方を同時に使って、全身の痛みを緩和しながら肩口を圧迫して出血を止めにかかる。


「勇者、聞こえますか。大丈夫ですよ、すぐに全て元通りに良くなります。はじめに痛みを取ってから、出血の多い順に治してゆきますね」


 賢者ほど上手くはないが、警戒を解き安心を与える暗示を込めながら言い聞かせる。苦痛を和らげる目的もあるが、例えば骨を継いでいる最中に頭上の竜を警戒して身動きされては困るのだ。


 呼吸を荒くしている勇者が薄っすら目を開いて僅かに頷いた。全く、痛みや恐怖に強過ぎるのも考えものだ。これだけの怪我を負って意識を保っているなど、どれだけの苦痛があるだろうか。


 骨の向きを揃えて軽く繋ぎ合わせ、動脈から順に血管を修復し、筋肉と神経をあるべき形へと戻してゆく。そこで神官は勇者の腕に刺した小型測定器をちらりと見て小さく眉を寄せた。腰椎は継いだが……脊髄の修復までを一気に行うには魔力が減りすぎている。


 仲間を守るため、多量の出血があるまま大きな炎を何度も使った勇者はかなり衰弱していた。魔力とはそのまま余剰分の生命力だ、体が癒えるということはそれだけ体内の魔力を消費するということで、本来ならばこの規模の治療は相性の良い火の魔力を、それも厳密に供給量を管理できる器具をいくつも繋いだ状態で行うものなのである。


 荒療治だが、鼻をつまんで気道を開けると口から魔力を吹き込んだ。勇者が驚いたように瞬きをして身じろぎするのを押さえつけ、譲渡した分が馴染むのを待って、繰り返し彼本来の魔力量に到達するまで注ぎ続ける。火と水が反発して、きっと恐ろしく痛むだろう。しかし今はこうするしかなかった。同時に術を巡らせてできるだけ痛みを取りながら、拒絶反応の有無を慎重に探る。


 痛みが薄らいだからか、勇者は先程までよりもはっきりと目を開けていた。意識は朦朧としているようで視点は定まらないが、そろそろと砕けていない方の腕を上げて口元に触れ、なんだか恥じらうような表情を浮かべる。


「ふふ、口づけじゃありませんってば。少し具合が良くなりましたか?」

 幾度か頭を撫でてやると少しだけ口の端を上げて微笑み、シダルは気力が尽きたように気を失った。


 強い人だ、本当に──


 容体が少し落ち着いたので、治療に集中しながらも視線を上げて周囲に目を向ける。少なくとも脊髄の修復が済んで骨を完全に繋ぎ合わせるまでは、できれば勇者の体を動かしたくなかった。つまり周囲の安全を確保出来ない以上、彼の命を握る自分の身の安全をなおざりにしてはならないのだ。そのために、周囲に気を配りながら難しい治療を行う訓練を、それこそ血を吐くほど重ねてきた。


 どう見ても様子のおかしい魔法使いが、しかしこの上なく冷静な顔でくびり殺した魔竜の死骸を海へと放る。残酷に見えるその行いに賢者が深く傷ついた顔で妖精を見つめたが、彼は少々冷静さを失っているらしい。


 淀みの濃い魔獣の死骸を海に捨てるのは正解だ。真の意味で淀みを浄化できる勇者がこの状態である今、水の祝福を繰り返しかけ続けるよりも浄化の領域である水中へ放り込んでしまう方がずっと効率が良い。


 死骸を処理した魔法使いが、すっと空へ指を向ける。すると上空で旋回していた二頭の魔竜がぐんと高度を上げ、一瞬相談するように並列で飛行すると、分が悪いと思ったのか身を翻して元来た方向へと去っていった。それを見て、あの脅威がまだ二頭もと思っていた神官はひとまず胸を撫で下ろした。


「そこ甲板割れてるだろ。俺達は船と積荷にしかさわれねえが、移動させるなら台車持ってくるぞ」

「いえ、今はまだ動かせません。本当に危ないと思ったら声をかけてください」

「おう、わかった」


 審問官達が去って術が解けたらしく、海賊達が動き始めた。航路を逸れたらしい船をテキパキと動かし、神官の周りに真水や消毒用の強い酒の樽、救急箱らしい木箱を積み上げる。


「神官様の治療にゃ要らんかもしんねえが、好きなだけ使ってくれ」

「ありがとうございます」


 明るい彼らが働いているとあっという間に空気が華やかになり、勇者の治療も順調で、大きな血溜まりも浄化されていた。足元の床が割れかけている以外はすっかり日常の空気が戻ってきたと静かに息を吐いた途端──その空気を裂くように大きな悲鳴が仲間達の方から聞こえ、神官はぎょっとして素早く顔を上げた。





 一瞬、誰の声かわからなかった。魔法使いがローブの胸元を掴んで倒れ込み、痛みだろうか、息苦しさだろうか、何かにもがき苦しんでいる。症状を見極めようと治療の手を止めないまま観察していると、彼の全身から淡い光の柱が立つように銀色の魔力が立ち上り始め──そしてその症状には見覚えがあった。


「『神罰』です、吟遊詩人! 魔力を抜かれるだけで生命の危機はありません、楽な姿勢にして、背中をさすってあげなさい!」

「神罰? え? わ、わかった!」


 魔法使いの肩を揺すって声をかけていた少年が裏返った声で返事をすると、丸まって苦しむエルフの頭を膝に乗せ、優しく声をかけながらゆっくりと背中を撫でさすった。


 祝福持ちの中には、強い力を得る代わりに「神罰」と呼ばれる禁忌が存在する場合があった。神の気質の問題で水には存在しないが、例えば火持ちならば信念なく暴力を振るった場合、土持ちなら作物を意図的に焼き払った場合と、その祝福を与えた神に相応しくない力の使い方をした際、天に魔力を回収されるように全身の魔力を欠乏症ギリギリまで搾り取られる現象が起きるのだ。人の持たない花の魔力については情報がなかったが……おそらく魔法使いがあれだけの力を扱いながら決して攻撃に魔力を用いようとしなかったのは、そういうことなのだろう。


 今すぐ駆け寄って苦痛を取り除いてやりたかったが、今は勇者の神経細胞を並べ直しているところだった。ここで放り出せば下半身に麻痺が残る可能性がある。優先順位を考えると、魔法使いにはもう少しの間だけ我慢してもらう必要があった。


「──賢者! よしなさい!」

 繊細な作業をしながらも、向こうの様子を見て叱りつけるように叫ぶ。神罰の苦しみを和らげる「り成し」と呼ばれる祈りを唱えながら、賢者が魔法使いの手を握ってやっていた。あれは確実に、術を行使しながら魔力を譲渡している。みるみるうちに魔力が尽きて顔面蒼白になった賢者が、神官の顔を見て不満そうにエルフの手を離した。


「神官、僕の魔力を譲渡しちゃだめ!?」

「反発属性持ちが医師の監督なしに譲渡するのは危険です、もう五分待ちなさい! 骨を継いだらすぐに向かいますから!」


 そう怒鳴ると仲間達に背を向けて、気合を入れて全身の砕けた骨の修復を始めた。これで完全ではないが、少なくとも骨さえ繋げば勇者が目を覚ましても起き上がることができるはずだ。


 しかし、その目を離した五分間が致命的だった。吟遊詩人が悲鳴のような声で「神官! 神官、どうしよう!」と叫んだ時には、既に症状はかなり重いところまで進んでしまっていたのだ。


「どうしよう、神官、早く来て!」

「勇者の治療を優先させなさい! おそらく水の祝福では洗いきれぬ、シダルを起こして浄化させたい!」


 淀瘴てんしょうだった。神罰で弱った隙に押し寄せた魔竜の淀みが精神を深くまで侵食し、蝶を守ろうと涙を流すような軽い動揺ではなく、瞳が虚ろに黒く染まるほどの症状が現れていた。


「ネ・アテス=スル・ハツァ、神の祝福が汝の上に降り注ぐ、雨のように。そして──」

「なりません、賢者! だから待ちなさいと言ったでしょう! あなたが死んでしまいます!」


 賢者が大きく深呼吸して唱え始めたのは、いつもの浄化の呪文の上位に当たる、より強い水の祝福であった。怒鳴りつけられた賢者は反抗的に神官を睨み付けると、ため息をついて魔法使いの体を引き起こし、後ろから抱え込むように抱きかかえた。


「ルーウェン、こちらを向きなさい。私の目を見て、ゆっくり呼吸をして」

 揺れのない賢者の声が響く。どうやら抱擁で幸福感を与えつつ、魔力を用いない催眠術をかけようとしているようだった。


「離して……これ以上、僕に愛を与えないで」

 魔法使いが青さの消えた暗い瞳で仲間達を見つめ、か細い声で呟いた。


「辛いんだ、何もかも……もう嫌なんだ……こんな苦しみを抱えて、生きていたくない」

「魔法使い──」

「触るな!」


 泣きそうな顔で魔法使いの手を握ろうとした吟遊詩人を賢者が怒鳴りつけた。少年がビクッとして腕を引き、どうしてといった様子で賢者を見上げて顔色を悪くする。


 気の魔力を持っている魔法使いは、通常よりも神罰によって奪われる魔力の量が少なく済んだようだった。神官の目にもはっきり黒く染まって見える星が触れると、淀んだ魔力を流し込まれた賢者が苦しげに歯を食いしばって目を閉じる。


「……歌ってやれ」

 歯の隙間から絞り出すように賢者が囁いた。素早くリュートの調弦を合わせた吟遊詩人が魔法使いの好きな星の歌を歌い始めるが、妖精はそれに虚ろな視線を向けるばかりで、まるで心に届いていないように絶望が深まってゆく──


 しかし、その時のことだった。治療を終えた神官の手の下で小さな唸り声が上がり、閉ざされた瞳がゆっくりと開かれる。暗く色を失った世界に、鮮やかな晴天の色がきらめいた。


 空色の希望が、目を覚ましたのだ。





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