第三部 真実

プロローグ 使命の向こう側(神官視点)



「ナーソリエル、本当に行ってしまうのですか」

 神殿の柱の間から青白い月明かりがこぼれる。灰色の神官服の裾を揺らして振り返った彼は、答えのわかりきっている問いには答えない男だった。


「そなたもここを出るか、ファーリアス。常ならば難しいが……賢者の弟子として共にゆくと言うのならば、私がなんとかしよう」

 密かに兄のように慕っている彼からのその言葉は魅力的だったが、ファーリアスは眉を下げてそっと首を振った。


「いいえ、私は残ります……神殿が何かおかしいということはわかっていますが、それでも、ここは神に仕えるための場所だと思うのです。たったひとりになっても、清浄な祈りをオーヴァス様に捧げたいと……そう思っています」

 そう決意を込めて見上げると、ナーソリエルは少し残念そうに微笑んでファーリアスの頭を慣れない手つきで撫でた。


「美しい決断だが……今後そなたが必要だと感じればいつでも、森の塔へ逃げ込みなさい。神殿前の小道を走ればすぐだ」


 その言葉に唇を噛んで頷いた美しい夏の月夜、通常の還俗とは少し違う方法で神殿を出て行った彼の背を見送って、十二歳のファーリアスは泣きに泣いた。彼はああ言ったが、ファーリアスが神殿を出るつもりがない以上、もう二度と会うことはないだろうと思っていた。





 最近の賢者は、少し伸びてきた髪を軽く後ろで束ねていることが多い。その姿を見るとふとした瞬間にあのころの思い出が蘇って、神官は少しくすぐったいようなあたたかい気分になるのだった。


 灰色のローブを勧めたら、着てくれるだろうか──?


 黒は暑いからやめなさいと軽い熱中症を起こした彼に言った時には、少しだけそんな期待も混ざっていた。あれから十年以上が経ったが、賢くて人嫌いで、それでも必要な時には手を差し伸べるのをためらわない人柄は全然変わっていない。よく見ると整っているのに目つきが強烈すぎてその印象しか残らない顔立ちの雰囲気もそのままだ。神託を受けて深夜秘密裏に神殿を抜け出し、最初に塔を訪れた時……まだ十代だったナーソリエルをそのまま大人にしたような賢者を見て心の底からほっとしたのを思い出す。


 当時は彼が出て行ってしまったことが寂しくて仕方なかったが、今になって思えばレフルスには神官よりも賢者の方が向いていると感じる。といってもその理由はそんなに高尚なものではなく──つまり彼がすぐに「触るな」とか「話しかけるな」とか言うあれは照れ隠しでもなんでもなく、弱っている時は本当に他者を近づけたくないような人間なのだ。そんな人間が神殿で共同生活を続けるのはきっと苦痛だったろうし、それに……まあ少し言いにくいが、凄まじく排他的な性格は少し聖職者の適性に欠けるかな、という気もする。


 しかし、そんな賢者が旅に出て、常に仲間が側にいる生活で心を壊してしまうのではないかという心配はしていなかった。神託とは得てしてそういうものなのだ。現に剣の仲間達はそれぞれかなり個性的ではあるものの、他者の心の内に強引に踏み込むような者は一人もいないし、賢者の辛辣な物言いを気にして悲しんだり、反対に傷ついてみせることで本質としては優しい彼を苦しめることもない。それに、気難しさの塊のような賢者から呼んだ本の話や研究の話を一番引き出しているのは、秘境育ちで勇猛果敢な戦士のシダルだ。それだけでも、神の采配が如何に完璧であったか知れるというものだろう──


 そうひとり頷いたところで神官は考え事を中断し、仲間達を見回して微笑んだ。清潔感のある宿で一晩ゆっくり休ませたところ、海でのあれこれの後に心労で倒れた賢者はかなり回復したようだ。椅子に腰掛けて本を読んでいる顔色をよく観察し、この分なら今日にも出発できそうだと胸を撫で下ろす。


「なあ、レフルス……それ、何読んでるんだ?」

 その時、なぜかとてもおずおずとした慎重な声で勇者が問いかけた。しかし特に機嫌が悪そうな様子もなく、むしろ珍しく読書中に反応を返した賢者は、素直に本を傾けると淡い紅色でぎっしりと薔薇の花が描かれている表紙を見せる。


「『花のゆくえ』の一巻だ。この隣町で昨年から流行し始め、歌劇にもなった恋愛小説だが……読みたいか?」

 意外な内容に神官が小さく「おやまあ」と呟くと、隣で小刻みに震えながら帽子の羽飾りを整えていた吟遊詩人が両手で口を押さえて蹲った。その反応も少しわかる気がしたが、賢者は似合わないにも程がある可愛らしい本を手に恥ずかしげにすることもなく、本の小口を覗き込んで残りの厚みを確かめる。


「ふむ、もう半刻待ちなさい」

「……そ、そういうの好きなのか?」

「好き?」

 かなり怯んだ表情の勇者に向かって賢者は訝しげに眉を上げ、少し考えると小さく首を振った。


「どちらかといえば苦手だが、好みで選ぶものでもあるまい?」

「いや、好みで選ぶものだろ……」

「故にそなたの知識は著しく偏っているのだな」

「いや、いやいや……」

 言葉に詰まった勇者が助けを求めて吟遊詩人を振り返ったが、彼は腹を抱えて震えながら突っ伏していて何も言えそうになかった。


 微笑ましい情景に少し笑いながらも、再び本の世界へ戻ろうとする賢者を引き止め、荷物をまとめて宿を出ると外の店で軽食類を買い込んだ。いつもならば宿の部屋で食べるのだが、昨夜は魔法使いがどうしても鹿を枕にして寝たいと森に残ったので、彼と馬達を迎えがてら森で朝食をとることになっていた。


「おはよう魔法使い、よく眠れたか……まだ寝てるのか」

 鹿の腹に顔を埋めたまま耳だけ動かして返事をする妖精の隣にしゃがんで「オレンジを買ってきましたよ」と言うと、もぞりと起き上がって子猫のような青い目を半分開き、聞き取れない小声で何か言いながらオレンジの袋に手を伸ばす。


 そんな子猫か子鹿のようなあどけなさを見せるこのエルフも、本来は大変排他的な生き物であった。地上の森を知って以来少しずつ喜びや安心といった感情が宿るようになってきた瞳も、仲間と認めたもの以外には氷のように鋭く透明な冷たさしか映さない。妖精族ならば当たり前の反応だが、そんな彼がこんなにも甘えた態度で人間の仲間と行動を共にするのは、まさに奇跡と称して差し支えないようなことだった。


 しかし、いくらこの神託による剣の仲間の選定が完璧であったとしても、彼らがただ漫然と北へ向かうだけで全てが上手くゆくわけではなかった。おそらくだが、神々は御自ら能動的に世界を救おうとしているのではなく、淀みに汚染され自らの手で世界を滅ぼす運命にある人間に機会を与えてくださっているのだ。


 そう、かつて地上に栄えていた全てを焼き尽くし世界を滅ぼしたのは、原因は何であれ実際に手を下したのは、魔王ではなく人間である。「滅亡側」の生き物である魔族と魔獣以外のあらゆる生き物が、「淀み」に晒されれば淀瘴てんしょうと呼ばれる精神の病にかかると言われているが、しかし淀みによって自然や大地といった意思を持たぬものまでをも無差別に傷つけ始めるのは人間だけだ。


 神殿が人間をこの世の穢れと定め始めたのもこの事実に基づいている。狂信のあまり最も大切なことを見失っているが、彼らは彼らなりにその主張には筋が通っているのだ。


 そして──そんな醜く愚かな人間に与えられた最後のチャンスが神託の勇者であると、神官は考えていた。それゆえに、神々に見守られているとはいえ彼らの選択ひとつでその身は危険に晒されるし、志半ばで命を落とすことだってある。歴代の勇者で魔王を討伐し損ねたのは黎明の勇者の一代前──「滅びの勇者」と呼ばれている一人きりだが、しかし勇者の仲間達である剣伴は、全滅している滅びの代以外に幾人も旅の途中や北の果てで犠牲になっていた。


 育ちのわりに読書家である勇者は、顔には出さないがおそらくこのことを知っている。彼が過剰なまでに仲間を守ろうと立ち回るのは生まれ持った気質もあるだろうが、神官から見ると「仲間を失いたくないと」いう恐怖に常につきまとわれているように思えるのだ。


 そういう気質の人間は、本来重篤な淀瘴汚染にかかりやすい。仲間を失った際の深い絶望が心の砦を打ち壊し、水の浄化では飛ばしきれないほど深くまで汚染が食い込んでしまうのだ。渦の魔力に守られているシダルではあるが、もし仲間の誰かが死ぬようなことがあればきっとその被害は仲間内だけに留まらない。世界の存続すら危ぶまれるのだ。


 そんなことをぼんやり考えていると朝食のパンをかじる手が止まっていたらしく、勇者に声をかけられた。

「どうした、ロサラス。なんか悩み事か? 食後にビスケットあるぞ?」

「いえ、少し考え事に夢中になっていました。ねえ勇者……あなた最近、お菓子さえ渡しておけば私がご機嫌だって思っていませんか?」

「事実そうだろ」


 納得いかなかったが、ニヤリとした勇者に砂糖のまぶされたビスケットを渡されるとつい口元がほころんでしまって神官は顔を赤くした。いや、誤解しないでほしい。甘いものを気に入っているのも確かだが……こうして仲間達が彼の好物を探し、彼に喜びを与えようとしてくれるのが何より嬉しいのだ。


 こんな勇者と仲間達を守るためにも、もっと情報が必要だった。歴代の勇者の記録は伝説としてある程度伝えられているものの、北の果てで一体何が起きたのか──つまり魔王が具体的に何のために生まれたどのような存在で、それとどう戦ったのかは、なぜか一切が不明なのである。


 どうやら賢者は一人でその謎を解明しようとしているようだったが、神官とて易々とそれを許すつもりはない。世界の有様というのは、得てして神話や信仰と深く結びついているものだ。神殿長候補として育てられたロサラスは、神話の知識と解釈の深さだけならば賢者にも優っている自信があった。


 そう──ただ神託で定められた仲間という域を超えて深く深く愛するようになった仲間のために、神官は与えらえた浄化と癒しという使命を超えて立ち回るつもりでいた。


 彼らのためならば命だって投げ出せるが、もしもそれをすれば、命より大切な彼らを泣かせてしまう。ならばそれ以外の全てを懸けて魔王と滅びの真実を突き止めてやろうと、神官は和やかに笑い合う仲間達を眺めながら神に誓ったのだった。





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