十一 シダル 後編
「もし触れた時点で違和感──つまりただ触れている以外の感触を感じればすぐに手を離しなさい。数え終わるのを待ってはならぬ」
賢者の言葉にゆっくりと頷く。勇者は一体何が起こるのかと緊張しながら美しい装飾の施された聖剣の柄に指先で触れたが、しかし賢者が三つ数える間に特に何かが起きた様子はなかった。拍子抜けしながら「三」の声に合わせて手を離すと、神官が早足で歩み寄ってきて魔石玉を差し出す。
「もう一度魔力を測定します。口を開けてください──少し大きいですが、我慢して」
灰色の糸で魔法陣のような刺繍が入っている黒手袋を嵌めた手が、賢者の時とは違って歯に当たらないようにそっと口の中へ魔導具を差し入れた。
「うん、減っていませんね」
「そうか。しかし魔力経路の関係である可能性もある、粘膜でももう一度だ。勇者、次は唇、いや舌で触れなさい。手順は同じだ」
「えっ」
勇者はそれはちょっと嫌だと一応ごねてみたが、神官に「あなたのためです」と真剣な顔で諭されて、渋々賢者の合図に合わせて岩に刺さっているように見える聖剣の柄をぺろりと舐める。やはり何も起こらなかったが、その分余計に屈辱的な気分になった。舌を引っ込めると再び丸い石ころを口に詰め込まれてしまう。
「減っていませんよ、勇者。はあ、良かったです……」
「なあ……これは一体何をやってるんだ?」
何やらほっとした様子で喜んでいる神官に手を握られながら、覚えている限り村では一度もしたことのなかった疲れた困り顔になって尋ねると、その様子を黙って眺めていた賢者が組んでいた腕を解いて説明してくれた。
「聖剣とは、勇者以外には触れること叶わぬ剣なのだ。生きとし生けるものは皆、魔法こそ使えなくとも生命維持のために多少の魔力を有しているが……聖剣は資格なき人間が触れれば驚くべき勢いでその魔力を全て吸い出し、並の魔力であれば触れた瞬間枯れ木のようになって即死する」
「はあ……? それ、本当に聖剣なのか? 魔剣とかじゃなく?」
「神託によって鍛えられたのですから、その力がどのようなものであろうと聖剣です」
「あ、そう……」
神官がごく当たり前のような顔で述べ賢者もそれに頷くので、勇者は行き場のない思いを
「そなたの魔力は
「はあ……つまり、俺は魔力を吸われなかったから触って大丈夫ってことか」
「ええ。ですからもう普通に抜いて構いませんよ」
聖剣に選ばれるってもっとこう、かっこいい感じかと思ってたのにな……舌で舐めるとかじゃなくて。
勇者はすっかり盛り上がっていた気持ちがなくなってのろのろと剣の方へ手を伸ばしたが、向こうから魔法使いが耳をピンと立てて見つめているのに気づくと、少しそれらしく背筋を伸ばしてからぐっと柄を握った。
実際は土に埋まっているはずなのにシャリンと硬質な音を立てて引き抜かれた聖剣は、非常に美しい剣だった。柄の装飾や嵌められた石が華麗なのも勿論だが、何より目を引いたのはその剣身だ。勇者は虚無の瞳でこちらをじっと見守る魔法使いに重々しく頷きかけてやると、くるりと刃を上に向けてその不思議な色をよく観察する。
その剣身は磨いた銅のように赤みがかった金属光沢を有していたが、不思議なことにほんのり向こうが透けて見えるような半透明なのだった。根元の方には神官が描く顕現陣に雰囲気の似た優美な紋様が彫り込まれてキラキラしている。傾けると背筋が冷えるほど鋭い輝きを放ち、見ただけでその切れ味の良さがわかった。
「綺麗だな。これ、何でできてるんだ?」
「オリハルコンという金属だ。諸説あるが、銅と水晶が合金化したものだと言われている」
「へえ、銅と水晶なあ。溶かしたところで混ざりそうもないように思えるけど……」
「
「……勇者って、最初にそういう感想が来るんだね。『うん、いい武器だ』とか言うのかと思ってた」
吟遊詩人の意外そうな、少し面白がっているような声に勇者は首を振った。
「いや、俺は狩人だって言ったろ? 基本は弓しか使わないから、剣の良し悪しはそこまでわからん。でも、手に馴染む気はするな」
そう言って軽く振り回してみていると、賢者が呆れているのか馬鹿にしているのか判別のつかない声で言った。
「おい『バンデッラー』よ。そなたの手にあるそれは両手剣なのだが、知った上でその扱いなのかね?」
「え? そういうの決まってるのか? 言われてみれば確かに柄がちょっと長いかな……」
「……不便がないのならば好きにしたまえ」
勇者が剣を片手で持ったり両手で持ったりしていると賢者が肩を竦め、神官が感心したように言った。
「流石は内炎体質ですね。私なら両手でも持ち上げるのがせいぜいですよ。神殿から持ってくるのが大変でした」
「え、それはちょっと弱すぎじゃないか?」
そうやって仲間達と軽い雑談をしながら剣の重さを確かめたり指で長さを測ったりしていると、賢者がどこかから長い剣の鞘とベルトを持ってきて勇者にどさりと渡した。
「鞘と剣帯だ。他にも旅の装束をいくつか用意してある。剣を鞘に収めたらこちらに来て確認しなさい」
「……ああ」
その時には既に鞘に描かれた模様をしげしげと眺めていた勇者は上の空で答えると、見慣れない形をした剣帯の端を掴んでぶら下げながら眉をひそめた。
「この剣帯どうやって使うんだ?」
「腰じゃなくて背中じゃない? 長い剣だし、たぶん腰に差したらちょっと邪魔だと思う」
脚立からぴょんと飛び降りて覗きに来た吟遊詩人の言葉で合点がいって、勇者はひねくりまわしていたそれを正しい向きで持ち直した。
「なるほどな。こうか」
鞘に収めた剣を差し込んで背に回すように金具を止めると、剣の柄が上手い具合に肩のところへ来るようになっている。勇者が試しに矢筒から矢を取るように勢いをつけて剣を抜くと、角度が良くできているのか思った以上にすんなりと構えられた。
「へえ、意外と簡単だな」
「結構様になってるよ、勇者」
「おう、ありがとな」
勇者はからりと笑って剣を背中に戻そうとしたが、しかしこちらは厄介なことに、切っ先も鞘の口もいまいちどこにあるのかわからず、なかなか鞘に入らない。振り返って見ながら入れようとするも、どうにも上手く──
「なあ、これ引き抜くのは簡単だけどさ、戻すの難しくないか?」
勇者が首を限界まで後ろに向けて抜いた剣を鞘へ戻そうと奮闘していると、賢者が部屋の向こうから自分の尻尾を追いかけ回す犬を見るような蔑んだ目でそれを眺めた。
「咄嗟に抜けぬとあれば問題だが、戻す方ならば少しずつ慣れれば良かろう。遊ぶのは後にしなさい」
「勇者……入れてあげる」
やはりいつの間にか近くに立っていた魔法使いがごく自然に手を伸ばしてきたので、勇者は思わず手にした聖剣を渡しそうになったが、ハッとして差し出しかけたそれを慌てて引っ込めた。
「待て魔法使い、触って大丈夫なのか?」
「ん……十分くらいなら」
「じゅっぷん?」
勇者が首を傾げると、それに連動するように魔法使いもこてんと首を倒した。仕草だけ見れば多少可愛げがあるが、どうにも瞳に感情が乗っていないので少々不気味に見える。
「鍋でお湯を……二回沸かせるくらい?」
魔法使いの返答に「ああ、時間の区切り方に名を付けるというのはこういう時に使えるのだな」と思いつつも、勇者はその内容を頭の中で
「は? それ魔力、俺の何倍だ?」
「──およそ百三十六倍だな。こやつの魔力を測るまでに測定器を三台壊した」
まさか試作段階の竜用を使うことになろうとは……と呟いている賢者は楽しげだったが、勇者はそれどころではない気持ちで、目の前の儚げで全く強そうに見えないエルフを凝視する。
「嘘だろ、そんな量どこに収まってるんだ……や、でもいいよ。とりあえず剣帯の方を外す。多いとはいえ魔力は吸われるんだろ?」
「ん……優しいね」
そうして無事聖剣を鞘にしまってから賢者達の方を見に行くと、何やらマントやベルトや革袋といった旅の装備の類が机の上に広げられていた。
「さて、塔へ来る前に服を整えている吟遊詩人以外は、服装を一新してもらおう。動きやすい服に替える必要もあるが、それ以上にそなたらは
そう言って賢者は勇者と神官、魔法使いの三人をじろりと見渡し、その目つきの鋭さに勇者は「いや、お前も充分目立つって」という言葉を飲み込んだ。
「特に勇者。そなたの信条に反しないならばその顔と肩の守護紋様は落とし、牙の腰飾りも外すか服の内側に隠せ。深紅の上着もあまりに派手だ、できるだけこちらの服から選びなさい」
勇者はその言葉に「派手……?」と呟いて着ている服を見下ろしたが、魔狼の歯型がついた服を替えることに特に抵抗はなかったので、適当にそのあたりのを一枚手に取りながら頷いた。
「それは別にいいんだが、肩の紋は刺青だから落とせないぞ?」
「肩のみであれば構わぬ。そのチュニックならばある程度は袖で隠れよう」
「え、それってなんか魔を退ける紋様とか言ってなかった? 取っちゃっていいの……あ、勇者、その薄茶はダメ。この黒っぽい焦茶の方が似合う。マントはこっちの深緑ね」
刺繍の入った腰帯にガラス玉が連なったような飾り紐、鳥の羽のついたつばの広いとんがり帽子──黒い目隠しを除けばいかにも物語の吟遊詩人といった風情の少年はやはり洒落者らしく、真剣な顔で服の組み合わせを指定してきたので勇者は大人しくそれを受け取った。
「お、おう。じゃあこれにするよ……ええと、紋様は俺はあまり気にしないな。いつも描いてるが魔獣の血を浴びると普通に腹下すし、あまり効果がある気がしない」
「その紋自体はある程度の効力があるように見えるが、体表に魔力が流れぬ以上は気休めにしかならぬな。ところで聞き捨てならぬ台詞が聞こえたのだが……そなたは魔獣の血を浴びると腹を下すのか?」
「ああ。いや、まあ薬を飲めばすぐ治まる程度だが」
腹の弱い男だと思われたくなかった勇者は賢者の質問に急いで弁解したが、なぜか賢者はそれに黙って首を振り、向かいで吟遊詩人の服の趣味を褒めていた神官が驚いたような顔になった。
「そんな事態になれば普通はとても暴力的になったりするのですが……そういう気持ちの面での不調はないのですか? 全く?」
「いや、腹が痛くなるだけだな」
「……はあ、まあ良い。そなたらも着替えなさい。旅に向いた神官服など存在せぬ故、神官は魔術師用のローブを選ぶと良い」
賢者に無視された勇者はどうにも釈然としなかったが、なんだかみな着替え始める雰囲気になってしまったので、まあいいかと気にしないことにした。
「僕は……そのままで大丈夫」
長い裾をずるずる引きずっている魔法使いが囁く。が、賢者はそちらをちらりとも見ずに言った。
「そなたは論外だ。着替えなさい」
「君だって……ローブの裾を、引きずっているのに」
冷たくされた妖精が不満そうに耳を寝かせて言い返すが、賢者は返事をせずに着替えの山から黒いものばかり手早く何枚か選ぶと、コツコツと靴音を鳴らして部屋を出て行ってしまう。無視された魔法使いを哀れに思ったのか、吟遊詩人が「……魔法使いにも、僕が似合いそうなの選んであげるから」と微笑みかけてやっていた。
さて、そんな仲間達に苦笑しながら勇者はその場で着替えたが、他の仲間は恥ずかしがり屋なのかそれぞれ別の部屋へ別れて着替えるようだった。そんな様子で旅なんかできるのか? と思ったが、まあ嫌でも追々慣れるだろうと腕を組んで帰りを待つ。
戻ってきた仲間達はブーツにチュニック、ローブにマントと服装こそ旅の魔術師といった感じになっていたが、果たして目立たなくなったかと言えば全くそんな気はしなかった。
賢者の目つきと黒ずくめは相変わらずだし、神官の聖職者然とした雰囲気も隠しきれていない。何より真っ白から緑がかった灰色のローブに着替えた魔法使いは、むしろそちらの色の方が目立つというか、服装が質素になった分中身の尋常でない美しさが際立ってしまった気がした。
「なあ……これ、ほんとに目立ちにくくなってるか?」
「多少は。窃盗に遭いやすい高価な布地でなくなっただけでも効果はある。後は魔法使いにフードを被せておく程度で良しとするしかなかろう」
「賢者、呼び名はどうします?」
「ふむ、そうだな……」
賢者が考え込んだので説明を求めて視線を投げると、神官が少し困ったようににっこりと微笑んだ。
「我々『剣の仲間』達は元来、勇者、魔法使いとその役割で呼び合うのが慣例なのですが……街なかで『勇者』と呼ばれている人がいると不自然に思われますでしょう? あまり人の記憶に残ると神殿に居場所を悟られますし、どうしましょうか、と」
迷っている様子の神官に吟遊詩人がにこっとして言った。
「別に、普通に名前で呼べば良くない? 慣例とか、僕は気にしないけど」
「そうですね、それが良いのかもしれません」
彼らの言うことはもっともであったし、勇者も仲間達を名前で呼びたい気はした。が、しかし先程からどうにもモヤモヤと気になる気持ちが大きくなってきていたので、このままでは後悔すると思った勇者は思い切って口を開くことにした。
「なあ……どうしても、そこまでして隠れなきゃならないか? 服くらいならどうだっていいが、俺はできれば仲間の呼び方とか、そういう大事なことを『敵から隠れるため』って理由で決めたくないんだが」
その言葉に皆が振り返ってじっとこちらを見た。勇者は居心地が悪くなったが、それでも譲れないことだったのでその視線をしっかりと受け止めて見つめ返す。
「僕はね……一番響きが綺麗なのがいいな……」
のんびりと呟いた魔法使いにふっと空気が緩むと、次に反応したのは賢者だった。
「勇者の言い分には私も賛成だ。旅に適した服装を選択するのは己のためだが、呼び名に関してはそうとは言えぬ。卑屈にこそこそと振る舞うのは私個人としても好ましくない。が」
そこまで言うと賢者は勇者と目を合わせてふっと不敵な顔で笑った。
「音の響きを重視するならばヴェルトルート語よりも……
どこか楽しそうに告げられた名を聞くと、アサの村長に「狼」という──群れに馴染めない彼にとっては皮肉な呼び名をもらった時よりもずっと大きな喜びが心に湧き上がった。勇者はもう敵から隠れる隠れないなどすっかり気にならなくなってしまって、口元に手を当てて小さく「それがいい」と呟くと、仲間達はそんな彼を見て嬉しそうに笑うのだった。
「シダル、響きも良く似合うと思いますよ。ではそのフル……何語でしたっけ? それにしましょう。さあ、私達の呼び名も教えてくださいな」
「フルフターニア語。嘗て淀みによって滅びたエルフの森で使われていた、失われた言語だ。近年遺跡で発掘された史料をつい先日解読したばかりであるからして、少なくともしばらくの間、誰も意味を察することはできぬだろう。妖精の言語ゆえ勇者以外は役割を示す単語がないが、私がそれらしい言葉を選んでも良いかね?」
「いいけど、解読したって……確かにそれだと、名前で呼ぶより隠れてる感じになりそうだけどさ……神官の名前とか普通に神殿は知ってるわけだし」
和やかな仲間達の会話を聞きながら、教えられた皆の新しい名を口の中で繰り返し呟いて勇者は微笑んだ。いつかは彼らの本当の名も呼びたいと思ったが、それ以上に仲間として大切に考えられた呼び名で交わし合う声は、
そう一人頷いていると、そんな勇者を見ていた吟遊詩人がおずおずと口を開く。
「ねえ……今まで言えなかったんだけどさ。装備の話になったから思い切って言うけど……実は僕、楽器持ってないっていうか……今まで楽器って触ったことないんだけど、これってどうしたらいい? 僕、吟遊詩人なんだよね?」
「……おやまあ」
俺がしっかりして、皆を守ってやろうと思った。
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