十二 音楽



「吟遊詩人の楽器といえばおおよそこのハープとリュートに二分されるが、どちらか希望はあるかね?」


 賢者が吟遊詩人の前に並べたのは、勇者が知っているものより随分と優美な形をした竪琴と、貝細工の装飾が美しいリュートと呼ばれる楽器だった。楽器というものはなぜこんなにも美しい形をしているのか、どちらも蝋燭の灯りで艶やかな飴色に輝いて、それだけで一枚の絵画のようだ。両方をじっくり眺めて、吟遊詩人が迷うようにうーんと唸りながら腕を組む。


「初心者向けなのはどちらですか?」

 当然とも言える神官の問いかけに、何が不満なのか少し嫌そうな顔になりながら賢者が答える。

「音が出しやすく覚える内容が少ないのはハープだが……それで美しい音色が爪弾けるかと言えばそうではない」


「……というか、もしかしてそれ貸してくれるの? 賢者の楽器だよね?」

 吟遊詩人が少し慄いたような顔になって尋ねると、賢者はふんと鼻を鳴らして特に名残惜しくもなさそうに楽器に目を遣った。

「構わぬ。どちらでも好きな方を差し上げよう」

「えっ、ありがとう……決める前に音を聴いてみたいんだけど、いい?」


 こちらの質問には満足そうな頷きが返された。

「賢明な判断だ」


 そして賢者がまず手に取ったのはリュートの方だった。長い首の部分を掴んでひょいと手渡すと、その無造作な動作に少し慌てながらそれを大切そうに受け取った少年が、目隠しを外して興味津々の顔で楽器を抱え込む。

「うわ、綺麗だなあ……これ、弦は何本あるんだろう? いち、に、さん……十四本か、結構多いなあ」

「十五本だ」

 堂々と数え間違えたらしい吟遊詩人を「数くらい真っ当に数えてみせたまえ」と賢者がせせら笑った。


「あ、そうなの? うーん、たくさんあって難しそうだね……」

 賢者の態度をさして気にする様子もない吟遊詩人は、木の実を半分に割ったような形をしたそれを見下ろすと埃を払うような仕草で弦をかき鳴らした。が、響いたのはジャラランというよりボヨヨンというような、緩く濁った音だ。


「あれ、僕、才能ないかも?」


 ちょっぴりシュンとした吟遊詩人へ追い討ちをかけるのではないかと思った勇者は反射的に賢者の様子を窺ったが、彼は意外にも真面目な顔で吟遊詩人の方へ手を伸ばした。

「調弦されていないだけだ。貸しなさい」

 賢者は受け取ったリュートを膝の上に抱えると、脇に置いてある革の鞄から奇妙な形の金属の棒を取り出して、座っている椅子の少し丸く磨かれた角に打ちつけた。そのままでは何も起こらないようだったが、不思議なことに棒の端を椅子に押しつけた途端、リーンと澄んだ音が響く。


「なにそれ?」

 勇者が尋ねる前に、吟遊詩人が疑問を代弁してくれる。

「音叉だ。音の基準をとらえるのに使う」

 簡潔に答えると、賢者は抱えたリュートの弦の中の一本を指し示した。


「まずはこの弦を音叉と同じ音に合わせる。調弦はこちらのつまみを回しなさい。弦が張られれば音は高くなり、緩まれば低くなる。音は左から──」

 話しながら、賢者は慣れた手つきでつまみを捻り、弦を弾いて音を合わせてゆく。ボヨンと鈍い音だったのが華やかに張りのある音へ変わってゆくのが面白い。

「こうして指板に押し当てるよう弦を押さえると、音が高くなる。流石にこの程度はわかるだろうが、押さえる位置を変える──つまり運指によって音を変えながら組み合わせることで演奏するのだ。一弦ずつ丁寧に調弦した後、このように和音が濁らない配置で押さえ、いくつか鳴らしてきちんと調和しているか確かめる。一曲弾いても良い。調弦は時間の経過や振動で狂うので、これを毎日弾く度に行いなさい」


 そう言って賢者が弦を軽くかき鳴らすと、うっとりするような美しい和音が生まれた。その余韻が消えないうちに、どこか物哀しいメロディーが甘い和音に寄り添うような短い曲を、関節の目立つ神経質そうな指がさらさらと奏でる。壁際で本を読んでいた神官が顔を上げて意外そうな顔で振り返った。

「『水辺の涙』は私も色々な方の演奏を聴きましたが……神殿の音楽堂にお招きできる腕前ですね、賢者」


「これ、すごくいい……僕、これがいい!」


 賢者の演奏にじっと耳をすませていた吟遊詩人が、緑の瞳をこれ以上ないほどキラキラと輝かせて花が咲くような満面の笑みを浮かべた。楽器を触ったことがないと言っていたが、やはりそういう素質はあるのか、音楽に並々ならぬ興味はあるようだ。


 調弦の終わったリュートを駆け寄って受け取った吟遊詩人は、今までで一番少年らしく見える真剣な顔をして膝の上で楽器を構えた。賢者が抱えていた時よりも大きさがしっくりくる感じがするので、もしかしてこれは子供用の少し小さな楽器なのだろうか。いや、あの賢者に子供時代なんてなさそうなので、気のせいかもしれない。


「構えはそれで良い。音を確かめてみなさい」

「うーん……」

 呻くように返事をした吟遊詩人は、ポロンポロンといくつか弦を爪弾く。そして少し首を傾げると、つまみに手を掛けてじわじわと回し、また爪弾いた。

「あ、うん。さっきと同じになった」

 満足そうに頷く吟遊詩人が何をしたのか勇者にはわからなかったが、賢者は「ほう」と少し感心したように眉を上げた。

 吟遊詩人はその後何度か音を確かめるように端の弦から順に弾いていっていたが、ふと手を止めると両手の指を何やら空中で動かし、「よし」と頷いて目を閉じ、深く息を吸った。


 ふう、と吐いた息に乗せるように始まった曲は、甘く物哀しい──ついさっき賢者が弾いた曲と全く同じものだった。勇者は唖然として口を開け、賢者はらしくもなく目を見開いた。否、先程と全く同じ曲とは言えないかもしれない。賢者の演奏も文句なく美しいように勇者には思えたが、吟遊詩人のそれはなぜか心の奥深くに切り込むような、わけもなく涙が滲むような切ない心持ちになるのだ。


 短い曲はあっという間に終わり、勇者は何かを失ってしまったような寂しさに見舞われながら、目一杯拍手した。吟遊詩人は目を開けると眩しい笑顔と共に勇者にウインクを返し、賢者は驚きを鎮めるように額に手を当てた。


「神託とは恐ろしいな。つまり、天才ということか……」


 そして「案外弾けるもんだね」と機嫌を良くした吟遊詩人は、即興だといってその後何曲かを披露したが、彼は歌も恐ろしく上手かった。少し甘えるような話し方をする癖が澄んだ歌声に艶を足して、綺麗な犬のような見かけからは想像もつかない魔性の音楽を作り出すのだった。

 きらめくような音が塔の中を華やかに染める。賢者は呆れたような表情を作りつつもせっせと若き天才へと特殊な奏法や楽譜の読み方を教え込み、昨夜の侵入者騒ぎから少し気疲れが溜まっていたようだった神官も、微笑みがやわらかくなっていた。


 なぜ、剣士や弓士ではなく吟遊詩人なのだろうか? 初めて仲間を紹介された時は密かに疑問を抱いていた。勇者は彼の選定理由をその明るい人柄ゆえではないかと結論づけていたが、しかし彼は今初めて、吟遊詩人が正しく「吟遊詩人」として選ばれたのだと納得がいった。

 特殊な訓練を受けたでもない人間が、慣れた環境を離れ、新しく出会ったばかりの仲間と命をかけた厳しい旅に出る──それは肉体だけでなく、精神を著しく摩耗させるものだ。彼の音楽は心の小さなささくれを癒し、擦り傷を塞ぎ、それが膿んで取り返しのつかない傷になるのを防いでくれるに違いない。厳しい旅だからこそ、時に戦力よりも重要なものがあるのだ。石の塔に響く美しい音色に耳を傾けながら、勇者はすっかり感心してうんうんと頷きを繰り返したのだった。


「一応ハープの音も聴いておきなさい、こちらも繊細でやわらかな音色が美しい」


 さて、皆すっかり吟遊詩人の歌とリュートの音色に満足してしまっていたが、顔には出ないもののかなり彼の音楽を気に入ったらしい賢者は、「こちらの方が気に入る可能性もある」と今まで聞いた中でも比較的優しい方の声で言って竪琴に手を伸ばした。

 しかしその手が楽器に触れる前に、賢者は何かに気づいたように顔を上げると手を引っ込めた。するとほっそりとした白い手がどこからともなく現れ、品の良い曲線を描く枠をそうっと撫でる。


「……なんだ、弾きたいのか?」

 こくりと頷いた魔法使いが竪琴を手に取り、「これ……弾ける」とほとんど聞こえない声で囁いた。

「ハープはね、木の上で弾かないと」

「それはエルフだけだ」


 楽器を抱えたまま本棚に掛かった梯子の上へ器用に腰掛けた妖精が、優しく引き寄せるように竪琴を構える。その様子をじっと見つめていると、どうやら音楽といい美しいものが好きらしい賢者が、勇者の隣で梯子の上を見上げながら唸るように「……実に、絵になるな」と呟いた。


 そして妖精の奏でるハープの音色は、それはそれは夢のようだった。リュートに比べるとずっと優しい音がする弦が一本爪弾かれる度、美しい森の光景が目に浮かぶような心地がして勇者は目を閉じた。ああ、少し薄暗くなった森を進むと、梢の向こうに光が見える。なんて美しい花畑だろう、白い蝶が何匹も何匹も舞い踊って、天からは美しい光の柱が──


「──勇者!」


 唐突に賢者にバチンと頰を張られて、勇者はハッと目を覚ました。光差す森から急に石造りの部屋に変わった周囲を見回すと、いつの間にか床に座り込んでいた自分に状況が掴めずぱちぱちと瞬きをする。

「……いま、どうなった?」

「軽い魅了の類だな。そなた、余程耐性がないと見える」

「はあ……」


 ヒリヒリする右の頰を手で押さえながら梯子の上のエルフに視線を投げると、演奏をやめた魔法使いが何もわかっていなさそうな顔でこちらを見下ろして、ほんのり首を傾げていた。

「あやつは無意識だろう。まあ、妖精族とは総じてこのようなものだ」

「ああ、うん……」

「──うーん、ハープの音もやわらかで綺麗だけど、僕はリュートの方がいいかな。楽しい曲にも合いそうだし……それに、ハープだと絵面で魔法使いに勝てる気がしないしね」

 悪戯っぽい声に目を向ければ吟遊詩人が変わらない明るさでにこにこしていて、その後ろでは神官が妖精達の楽器の腕前を褒めている。どうもおかしくなったのは自分だけのようだった。


「なんで俺だけ……」

「体質と、気質であろうな。素直な者ほどこの手の魔法には影響を受けやすい」

「素直って……なんか俺だけすごく単純みたいで嫌だな……」

「『みたい』?」


 これほど嘲笑っているのがわかりやすい声もなかろうという声で笑った賢者は、魔法使いから竪琴を受け取ると座り込んだままの勇者を見下ろし、ひとつ息をつくと部屋の奥に向かって顎をしゃくった。

「吟遊詩人の楽器も決まったことだ、来なさい。そろそろ旅の道筋を教えておこう」

「ああ、うん」


 勇者が気持ちを切り替えて立ち上がると、音楽会が終わってつまらなくなったのか、賢者が歩きながらどうでも良さそうな淡々とした声で説明を重ねた。

「特に地上に出るまでは森を徒歩で移動する事になる。地図を見て、地形や環境を把握した上で準備を整えなさい。勇者としてもそうだが、狩人としても必要なものがあれば──」

「地上に出るまで? 一度地下に潜るのか? 洞窟とか」


 地底洞窟の冒険を思い描き、思わず少し弾んだ声で賢者の話を遮ってしまった勇者だったが──しかし勇者は次の賢者の言葉を聞いて、そう彼はまたもや、もう癖になりつつある気がするぽかんとした表情を浮かべることになったのだった。


「何を言っている……もしやそなた、ヴェルトルートが地底国家であることを知らぬとは言うまいな?」

「は?」


 地底……いや、地底国家?





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