十三 旅立ち
「いや、地底……? 地底じゃないだろ、空も太陽も見えるんだから」
なに言ってるんだ、と勇者は少し笑いながらからかうように言ってみたが、てっきり見下した笑みで対抗してくると思っていた賢者はしかし、気難しげな表情を消すとどこか悲しげにも見える無表情になって静かに言ったのだった。
「世情に疎いとは思っていたが、よもや己の住む土地が地上なのか地下なのかすら知らぬとは……勇者よ、右も左も分からぬ世界というのはさぞ恐ろしかろうな……」
「おい、憐れむな」
じっとりした目になった勇者を見て賢者は愉しげに口の端を上げたが、あまりにも世間知らずの勇者を弄ぶことに飽きたのか、それとも勇者の心に少しずつ渦巻き始めた不安を感じ取ったのか、しかしすんなりと嘲笑めいたそれを消すと、彼は静かなのによく響く不思議な声で言った。
「ヴェルトルートの『空』は人工天だ。太陽や月といった天体、風や雨といった気候の全てが魔術によって作られており、見えぬだけで空の向こうには岩天井がある……が、動揺しているな」
言葉を止めた賢者へ、勇者は眉根を寄せたまま首を振る。天井近くにある小さな窓へと目を遣ったが、凝った細工の鉄格子が嵌ったそこから外は見えず、この目で確かめることのできない気持ちがぐるぐると腹の中を
「いや、動揺というか……つまり、あの太陽も、空も、月も、全部偽物だってことなのか?」
そんなこと信じられるかと言い捨ててしまいたかったが、賢者の目は奈落のように底が見えないにしろ、嘘をついている目ではなかった。じわじわと……美しい自然だと思っていたものが全て奪われてしまうような気になって、意味もなく賢者の人差し指に嵌まっている銀色の指輪に施された彫り模様をじっと見ていると──その持ち主の男はそんな勇者を見下ろしてフンと腰に手を当てた。
「そなたの場合、正しく理解するには実物を見た方が良かろうな。話に聞くだけならば常識が崩れるような感触ばかりであろうが、一度その目で『地上』を見てみなさい。きっと世界が変わる。良い方向にだ」
意外に前向きな言葉を聞いて顔を上げたその時、後ろから「わっ」と声を上げて吟遊詩人が背中を叩いたので、勇者はふっと呪縛から解き放たれたように目を瞬かせて振り返った。
「どうした?」
「あれ? 全然驚かないね……もしかしてあれかな、気配を察知できるとかそういうやつ……」
苦笑いなのに陽だまりのように明るく感じられる表情に、自然と勇者も口角が上がってしまう。
「いや、だって特に隠してなかったろ」
「うーん……まあいいや! あのね、僕も見たことないんだよ、穴の外……だから楽しみにしてるんだ。ね、一緒にびっくりしようよ、勇者」
なんて優しい少年だろうか。楽しそうに、それでいてほんの少し心配そうに様子を窺う澄んだ声に、勇者は賢者の言葉をもう一度心で繰り返すと腕を組んでニッと笑った。
「ああ、そうだな。ここに来てから驚くことが多すぎて、なんていうのかな、新しい世界を知るのは楽しいってのを忘れかけてたよ。なんかよくわからんが、まあこの国と……地上がどんな風に違ってても、お前と一緒に見るならきっと面白いだろ」
それを聞いた吟遊詩人はにっこり頷いたが、その言葉は賢者の琴線にも触れたのか、隣からも少しだけ明るい声がかけられた。
「それは良い心掛けだ。好奇心は知への最も近しい道筋故、くれぐれも見失わぬようにしたまえ」
「だな!」
真っ黒な底なしの瞳に笑顔を向ければ、彼は出会って初めてほんの僅かだけ目を細め、かなり苦笑いに近い表情で微笑み返したのだった。
「ふむ、何とも知性を感じさせぬ相槌だが、飲み込めたのならばもう少し話を聞きなさい。ヴェルトルートがこの地下洞窟に礎を築くことになった理由を教えて進ぜよう」
そしてあっという間に腕を組んで真顔に戻った賢者によれば、このヴェルトルートという国はその成り立ちから「根源の国」とも呼ばれているらしい。
嘗て地上の国の全ては一度滅びたが、しかしそれで全ての人類が死に絶えたというわけではない。淀みから逃れた僅か数百万の民が地下洞窟へと逃げ延び、そこで再び魔王を倒す機を
「今このエシェンの地に生きる人類は皆、かの時代を生き延びた初代ヴェルトルート人の子孫であると考えられている──否、人々の間に国という概念が生まれたのは紀元後およそ千二百年であると考えられているからして、正確に言えばそこに名のある国はなかったのだが──しかしその成り立ち故に全ての再生の始まりとなった土地であるとして、この国は『根源』と、そう呼ばれるのだ」
「俺達、そんな場所に住んでたのか……」
そう言えば、賢者は感慨深げな顔になった勇者を馬鹿にすることなくすんなりと頷いた。
「そなたがこの地下と地上とどちらの世界をより気に入るかはわからぬが、地底という本来ならば日も風もない場所でこうして何の不都合もなく我々が生きられるのは、滅びの時代に絶望せず、再興を信じ続けた先人があったからだ。その地の勇者として立つことは、誇りに思って良いだろう」
「……そうだな。その勇敢な人達の血が俺にも流れてて、それで、世界を存続させるために何度でも戦いに行くんだな」
「いかにも」
すっかり気を取り直して振り向けば、仲間達は勇者が話し終わるのを黙って待ってくれていた。広い机の上にはどうやら地図のようなものが用意されていたようだったが、その机の端に魔法使いがちょこんと腰掛けていたせいで机上はすっかり花畑になっており、ため息をついた賢者が「まあ地図は追々でも良かろう」と呟いてその場は解散になった。
まだ何もしていないうちから既に呆れたような顔の賢者に「遊ぶならば今のうちだぞ」と言われたので、とりあえず螺旋階段を最上階から一番下まで駆け下りる。ちょっと思いついて途中から鉄の手摺りの上を滑り降りながら、勇者はいよいよ明日に迫った旅立ちへと想いを馳せた。
狭い村の世界しか知らぬ自分にとって未来には未知しかなかったが、しかし今はそのことに少しも恐怖を覚えない。仲間達の顔を思えば、彼らの生きる世界を守る事にむしろ燃えるような闘志を感じた。北の果てとは一体どんなところで、魔王とは一体どんな人物だろうか。湧き上がる興味にニヤリと炎のような笑みを浮かべ、勇者はその日、夜が更けるまで塔の中を探検し尽くしたのだった。
◇
そして訪れた旅立ちの朝は、とても爽やかに目が覚めた。
つい癖で描きそうになった頰の線を手の甲で擦って消し、先に起きていた神官を手伝って──というか明らかに料理と合わない調味料を使って味付けしようとしていた彼から鍋を奪い取って朝食の用意をしていると、扉を開けて入って来た吟遊詩人が太陽のようにニコッと笑う。
「おはよ……えと、シダル!」
拳を握って小さく「よし、ちゃんと思い出せた」と呟いた姿に笑うと、勇者も挨拶を返した。
「おはよう、
「あ、そんなさらっと……よく覚えてるね、勇者。ええと……ロサ、
「ルーフルー」
魔法使いがふんわり呼びかけた囁き声に、戸棚から食器を取り出していた賢者が振り返った。
「
「ルーフルー……ス」
「……言えぬのならばそのままでよい」
「ん……
こちらを向いた魔法使いに勇者は一瞬首を捻ったが、すぐに合点がいって苦笑を返す。
「……ああ、俺か。おはよう」
「おはよう……」
「いや、針葉樹って……でも、魔法使いの喋り方って可愛いよね、歌ってるみたいで。どこの訛り?」
「森」
「……森?」
訝しそうにした吟遊詩人へは賢者が補足情報を授けた。
「リファール語。エルフ語の一種だ」
「エルフ語! そっか、魔法使いってエルフ語喋れるんだ! なんか喋って喋って!」
エルフ語なる未知の言語には勇者も目を輝かせて魔法使いを見つめたが、残念なことに恥ずかしそうに耳を倒したエルフは何も言わずふいっと向こうへ行ってしまう。
「もう、妖精さんだなあ……」
「はは。まあ、そこが魔法使いの面白いところだろ」
声を上げて笑いながら、勇者はなんとなく自分が夢を見ているのではという心地になってきて更に笑みを深めた。まだ出会ってたった二日だというのに、自分も、皆も、こんなに心からの笑顔で笑っている。ああ、今までに一度だって自分の周りにそんな関わりがあっただろうか。そうして笑いながら食べた朝食は、村の宴のどんなご馳走よりも風味豊かで、砂を噛むような味気なさなど微塵も感じなかった。
食べ終わった後はわいわいと食器を片付け、荷物の山を分類し、鞄に詰め、そして聖剣を背負う。塔の入り口へと繋がる螺旋階段を歩きながら、どれだけ体力がないのか半分ほどで息を切らし始めた神官に笑い、ひょいと腕に抱えてぐるぐると底まで下りる。
重い大きな木の扉を開けて差し込んだ光は、今まで見たどんな光より眩しい、未来から照らされる希望の光に見えた。一歩踏み出すと、村の柔らかい革の靴とは違う丈夫なブーツが、ざらっと音を立てて土を踏む。振り返れば、朝日に照らされた仲間達の顔が昨日よりずっとよく見えた。
勇者は、旅に出た。
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