十 シダル 前編



「淀み、と言われて何のことかわかるかね?」

 螺旋階段を上へ上へと上りながら、勇者は賢者が発したその問いかけへと曖昧に頷いた。

「まあ、なんとなく……たぶんあれだろ? あの黒いもやもや」


 朝食を終えた勇者達は、聖剣が置いてあるという塔の最上階の一室に向かっていた。朝夕は比較的明るいのだという塔の中は細い光の線が幾筋も差し込んでいて、その線の周りだけに細かな埃の粒がキラキラと浮き立って見える。


「黒い、もやもや」

 賢者が勇者の返答をゆっくりと復唱してこれ以上ないほど不満そうに片眉を上げる。怒られるかと思ったが、神官がそこに口を挟んだことで事なきを得た。

「その認識で合っているのではないかと思います。賢者、彼は……それから吟遊詩人も、魔獣の周囲に黒いもやのようなものが見えると言うのです。おそらく、淀みが視覚として見えているのではないでしょうか」


 それを聞いた賢者は、完全に馬鹿にした顔で勇者を流し見た。

「ふん。妖精の目を持っているのならば、最低限そうとわかるように述べなさい」

「妖精の目……ですか?」

 不思議そうな顔になった神官に、賢者は興味なさげに説明する。


「眼球というよりは、妖精の持つ特殊な視力のことを言う。彼らの目には人間に見えぬものも映る故、人間の視野と区別して──或いは稀に人間にも『見える』体質のものが生まれるが、その瞳のこともまた、妖精の目という名で呼ばれるのだ」

「つまり、勇者の目がそうだと?」

「少なくとも我々には見えぬものが見えている以上、まずはそう考えるのが自然だ。特殊体質である吟遊詩人と、まあ当然妖精である魔法使いにも見えているのではないかね?」

「魔法使いにもあの黒い靄が見えるのか?」


 勇者が振り返って尋ねると、小さな窓から注がれる朝日に淡い色の髪をぼうっと輝かせた魔法使いが小さく頷いた。やはり喋り疲れたのか、勇者の髪質や何かについて少し話した後は再び口を利かなくなったエルフの周りに──何度見ても不思議極まりないが、星を粉にしたような幽かな光が朝日へ消え入るように漂う。辺りには似たような感じで埃の粒がキラキラしていたが、しかしそれとは一線を画する美しさだ。本の挿絵などでは美しい人物を描く表現としてその背景に光や花が描かれるが、世の中には本当に周りが光っているやつもいるのだな、と勇者は一周回って少し呆れた目でそれを眺めた。おまけに足元には花も咲いてるし、どこまでも童話の世界の住人みたいな奴だ。


 それに階段を歩いているのは五人だが、響く足音は四人分しかない。どういう理屈なのか、やはり魔法使いだけはその足元からしゃらんしゃらんと水晶を花束で撫でるような不思議な音しかしないのだ。のんびりした性格を知ってからはこの美しい妖精にも随分と親しみが湧いたが、この明らかに人間でない不可思議な様子は勇者もまだ見慣れない。


 そう思ってぼんやり魔法使いを眺めながら歩いていると、再び口を開いた賢者が話を戻した。

「そなたの言う黒い靄、即ち『淀み』とは、簡単に言えば穢れた魔力のようなものだ。負の力を持つ気配──俗に瘴気と呼ばれるそれは黒い魔獣が生み出しているとも、自然と世のあちらこちらにこごるとも言われている」


 淀みに触れた人間は心が憎しみや怒り、妬み、或いは絶望に染まり、そして目につくありとあらゆるものを壊し始める。そうしておよそ九千と二百年前、淀みに染まった人間の手によって世界は一度滅びた──


 その話は勇者も伝説として聞き知っていることだったが、賢者の口から語られるそれには不思議なことに、それが本で読むような遠い世界の出来事ではなく、自分達の生きるこの世界の史実なのだと実感させる力があるのだった。なぜだろう、少しも大袈裟でない彼の語り口のせいだろうか、それともやはりその……闇の国の入り口のような瞳のせいだろうか?


「──そして淀みは時をかけて少しずつ世界に蓄積されてゆき、そして四百年が経つ頃、それはゆっくりと流れ北の果ての地へと集まり始める。その中心にあるのが魔王の城だ」

 今から自分がそこに向けて旅立つとは思えない凪いだ目で淡々と語る賢者に頷いて、神官が続きの台詞を引き継いだ。

「魔王が何を考えて世界を滅ぼす力をその身に集めるのかはわかりませんが、人を負の感情に染める淀みはそうやって四百年に一度、まるで世界中の憎しみを煮詰めるように魔王の肉体へと集積されるのです」


 真剣に語る神官の声はやはり光差すような神聖な空気を帯びていて、勇者は自然と背筋を伸ばしてその話に耳を傾けた。いつしか皆が立ち止まって、じっと世界の未来を思い描いていた。

「聖剣とは世界で唯一、その淀みを浄化することの出来る剣です。世の善悪の均衡を司る、渦と天秤の神レヴィエルのお告げによって鍛えられたそれだけが、魔王を淀みごと貫き、憎しみと絶望の全てを消し去れるのです」


 あれ? それって確か「今回はお休み」の神様じゃ──


 渦の名を聞いた勇者の脳裏に一瞬嫌な予感がよぎったが、神官はそれに気づかず滔々とうとうと言葉を続けた。

「歴代の勇者は皆その偉業を達成してきましたが……人類はその歴史の中でただ一度だけ、魔王を仕留め損なったことがある。ひとりの勇者が魔王に敗れ、地上の全てが滅びた時──それこそ黎明の勇者が世界を救った、その四百年前の出来事なのです」


 勇者は「お休み」がどうにも気になってきてしまっていたが、話がいいところだったのでとりあえずその懸念を頭から追い払った。


「世界の滅ぶその瞬間、魔王はその身に集めた淀みを一気に世界中へと解き放ちました。四百年分のそれを一度に心へ押し込まれた人類は狂乱し、互いを傷つけ、街や森を焼き、そして地上はただ魔獣のみしか生きられない地へと成り果てたのです」

「……つまり、その『四百年ぶり』がもうすぐそこに迫っていて、俺達が魔王を倒さなければ、世界中の人がおかしくなって互いを傷つけ合い始めるってことなんだな?」

「その通りだ。なかなか理解が早い」


 あ、賢者に初めて褒められた。


 少し嬉しくなって笑顔になった勇者を完全に無視した賢者は、比較的すっきりした怖い顔で腰に手を当てる。

「しかし淀みの集積に関しては、完全に北の果てへと集まりきるまでにもう十数年の余裕があると見られている。我々の目的は急ぐことよりも、神殿の妨害を振り切り、確実に魔王の城まで辿り着くことだ」

「なるほどな……なあ、それって転移の魔法……魔術?で直接その魔王の城までは行けないのか?」

 勇者が首を傾げて素朴な疑問を口にすると、賢者が呆れた目で首を振った。


「先の転移であれだけの思いをして平気でその推論を口に出せるそなたには感心するが、生憎不可能だ。転移の術はその両側に魔法陣を組む人間が必要であるし、そこには膨大な魔力を要する。北の果てまでなどエルフである魔法使いの魔力でも到底補いきれぬし、その消耗を抱えて魔王の根城へ乗り込むのもあまりに危険だ」

「でもさ、現地の人に協力を頼んで、無理のない範囲で近くまでちょっとずつ転移していくとか」

かつてのように神殿が後ろ盾についている勇者であれば、それも可能であったがな。かの巨大な組織が完全に敵に回っている以上、各国の神殿は勿論、表立って国の協力を仰ぐことも難しい。転移一つが大きな火種になりかねん」

「ああ、なるほど……」

「面倒がらず、潔く歩け」

「いや、別に面倒がってるわけじゃ」


 北の果てとやらまでどのくらいの距離があるのかは知らないが、どうやら長い旅路になりそうなことを勇者はほんの少しだけ心の中で喜んだ。この個性的な仲間達と森を歩き、街を眺め、苦楽を共にするのはきっと勇者の今までの人生の中で一番楽しい時間になるに違いなかった。魔王や世界のことを思えばその使命は重く感じたが、彼らと共にあればそれは決して背負いきれない量ではない気がした。さあ、いざ聖剣を手に入れ、旅に出よう。勇者はそう気持ちを新たにして、塔の最上階へと歩みを進めるのだった。


 そして実験室よりもかなり大きい鍵が使われている扉をくぐった勇者は、思わずその場で立ち止まって目の前の光景を理解しようと頭を働かせた。


「なあ……聖剣って、岩には刺さってないって言ってなかったか?」


 困惑した顔のまま振り返ると、そこには神官が、天上の創造神に仕えるという翼の生えた天使の如く清らかに微笑んでいたのだった。


「どうやら勇者は岩に刺さった聖剣に憧れがあるようでしたので、このようにいたしました」

「は?」


 要するに、こいつらが昨日のうちにわざわざ岩を持ってきて突き刺したってことか?


 勇者は眉間の皺を深くしながら、まじまじと部屋の真ん中に置いてある岩を見つめた。勇者の膝より少し高いくらいの位置に、剣身が赤っぽく透き通っている風変わりな長剣が、少し斜めに傾いて突き刺さっている。ここにきてごっこ遊びなのはあれだが、正直かなりかっこいい。周囲が光の差し込む神秘的な洞窟でなく絨毯の敷かれた書斎風なのが大変残念だ。


 どうやって刺したんだろう……。


 勇者が考え込んでいると、いつの間にか隣に来ていた魔法使いが岩に向けて軽く手を振った。

「……ほら、こうなっているの」

 するといかにも重そうな大きな岩がゆらりと陽炎のように消え去って、そこには土の詰まった植木鉢に抜き身の剣が突き刺さっている光景があった。

「……ん」

 どことなく自慢げに見える魔法使いが再び手を振ると、植木鉢はたちまち大きな岩に姿を変える。


「勇者が引っ張った時だけ……抜けるようにするからね」

「……なあ魔法使い。それ、俺が引き抜く前に見せちゃ意味ないんじゃないか?」

「……そう、かもしれない」


 思わず突っ込むと途端に魔法使いの耳がへなりとなったので、勇者は慌てて「いや違う、そう、憧れてたからすごく嬉しい!」と言葉をかけた。すると潰れた耳がほんの少しだけ持ち上がる。

 このエルフはとかく出会った時からずっと変わらぬ無表情で──しかも冷静というよりは虚無と呼ぶに相応しい、ちょっと怖くなるような空虚な表情をしているのだが、その耳だけは雄弁にその感情を語るので、勇者は魔法使いを見る時についその美しいかんばせではなく長い耳ばかりを見てしまうのだった。


 その時、背後からと笑いを堪える音が聞こえて勇者は再び振り返った。少し困った顔の神官の隣で吟遊詩人が床に跪いて片手で腹を抱え、もう片手で拳を握って地面を叩いている。

「む、無理……もう、耐えられない。何やってんの君達。植木鉢、植木鉢とかっ……!」

 吟遊詩人は棒立ちになっている勇者を見て笑い、真顔で無関心を貫いている賢者を見て笑い、また聖剣を見て笑い転げた。


「あー、じゃあ、抜いていいか?」

 流石に神官と魔法使いが可哀想になってきた勇者は苦笑いで聖剣の方へ進み出たが、しかしその時、賢者が「待ちなさい」と鋭くそれを止めた。


「その前に、そなたの魔力を測定する必要がある」

「魔力を測定?」


 それ、絶対楽しいやつじゃないか!


 聖剣に心惹かれつつも気になって賢者に歩み寄った勇者は、いつの間にか黒い手袋を嵌めている彼が腰の道具袋から取り出した、模様の描いてある水晶玉のようなものをじっと見つめた。


「何だ、これ?」

「魔石に測定用の陣を組み込んだ魔導具だ」

「……魔石って?」

「絶命した魔獣の腹から摘出される石のことだ。魔力との親和性が高い」

「ああ、あれか。それならうちにもいっぱいあるよ。へえ……狩ったやつを食うためにさばくからさ、結構出てくるんだけど、透き通ってて綺麗だから持って帰るんだ。でも磨くともっと綺麗なんだな」


 うんうんと頷いた勇者だったが、賢者があまりにも眉間に深く皺を寄せたのを見てしまって思わずビクッと肩を震わせた。

「け、賢者?」

「……魔獣の肉を食しただと?」

 地の底から首のたくさんある黒竜が這い出てくるような低い声に、怒られると思った勇者は慌てて弁明した。

「いや、確かに血は毒だが、ちゃんと血抜きして火を通せば食えるんだよ……臭みがなくて美味いぞ?」


 その言葉に、賢者は信じられないと言った様子で深くため息をついて首を振った。

「……興味深くはあるが、はじめに口にしようと考えた輩の気がしれんな」

「や、それ、俺だけど……」

「は?」

「いや最悪、腹下しても毒消し飲めばいいかなと思って。肉がもったいないし」

「……まあ良い、これを握りなさい」


 賢者は一瞬毛虫を見るような目で勇者を見下ろしたが、すぐに考えるのをやめたような顔になって勇者の手に魔石玉を握らせた。

「……ふむ、反応がないな」

「え、それって魔力がないってことか?」

 勇者は少し悲しくなって手の中の石をころころさせたが、それには隣で覗き込んでいた神官が首を振った。


「いえ、それは有り得ません。内炎魔法の発現をはっきり見ていますし、傷に触れた際は魔力が感じられました。手の平への魔力経路がないと考える方が自然ですね」

「魔力経路」

「まあ、魔力の通る血管のようなものです。道筋のみで実体はありませんが──賢者、手袋を片方貸してください」


 神官は手袋を嵌めた手で魔導具の球体を握ると、勇者の反対の手の平、腕、上着を捲って腹などあちこちにそれを押し当てた。しかし、見た感じ何も起きていないようだ。

「うーん、見つかりませんねえ」

「ねえそれ、たぶん僕が見た方が早いよ」

 そう言って目隠しを外した吟遊詩人は勇者の全身を舐めるように上から下までじろじろ眺め、そして腕を組んで言った。

「うん、面白いくらい体表に繋がる経路が一本もないね。あれだよ、完全な身体強化体質っていうか、火をつけたり水を出したりする普通の魔法は使えないなあ、こりゃ」


「えっ……」

 魔力があると聞いた時からこっそり期待していた勇者はかなりがっかりしたが、吟遊詩人の言葉に今度は賢者が首を振った。

「否、そう判断するのはまだ早い。貸しなさい」

 魔王の顔でいやに愉しげにそう言った男は、神官から拳より少し小さいくらいの魔石玉を受け取ると、それを無造作な手つきでいきなり勇者の口に押し込んだ。


「う、ぐっ……!」

「ほう、五秒といったところか。なかなかの魔力量だ。喜びなさい、魔法と魔術のどちらに適性があるかはわからぬが、覚えれば口から火を吐けるぞ、勇者」

「んえ? ふひはは?」

「左様。魔力を外へと出す、つまり体外で魔法や魔術を発現するための魔力経路がそなたの皮膚には存在せぬが、粘膜には魔力が通っている。故に口からならばそなたも術を打ち出せるということだ」

「っは! やだよ、口から火を吐くとか……かっこ悪すぎだろ、そんなの」


 口に入れるには大きすぎる石ころを吐き出して顔をしかめれば、賢者がやれやれといったように首を振った。

「格好をつけるために魔術を使いたいのか? 愚か者め。いざという時のためにできることは習得しておきなさい」

「うっ、まあ、確かに……」


 情けない夢の破れ方に肩を落とした勇者が渋々頷いていると、不意に後ろから肩を叩かれ、反射的に首を回せば驚くほど近くに美しいエルフが立っていた。

「うわっ、お前いつの間に」

 しかし魔法使いはそれには答えず、ちょんちょんと自分の口元を指差して「見てろ」という風に耳を動かすと、唇の下に手のひらを添え、空中に向かってふうっと息を吐いた。


 すると吐息が命を持ったようにそこから次々と青い炎でできた蝶が生まれ、ひらひらと光を振り撒きながらあちこちへ飛んでいったかと思うと、一斉に部屋中の蝋燭へ青い火が灯る。

「うわ、凄いな」

 白っぽいエルフは、目を輝かせながらぐるりと部屋を見渡す勇者に視線を合わせるとゆっくり頷いた。

「あ、そうだな。口から吹く魔法も悪くないな。うん、ありがとう、元気が出たよ」


 そうやってしばらく口から蝶やら星やら花びらやらを吹く魔法使いを眺めていると、どうやら少々短気らしい賢者が靴底でコンコンと床を叩いた。

「……随分と楽しく遊んでいるようだが、そろそろ良いかね? そなたのおおよその魔力量がわかったところで、聖剣をもらいたいのだが」

「おい賢者、言い方……」


 「抜いて」のところを特別馬鹿にするように言った賢者に目をじっとりと半眼にして振り返れば、しかし黒髪の冥王は思ったよりもずっと真っ当な顔つきをしていた。


「良いか、初めは掴んで引き抜くのではない。柄に触れるだけだ。三秒……いや、合図に合わせて指先を当て、私が三まで数えたら速やかに手を離しなさい。決してそれ以上触れてはならぬ。良いな、三つ数えたら手を離せ。間違っても五秒以上は手を触れるな」

 そう言って賢者は首元から魔法使いと同じような首飾り──もしかしてこれが例の「時計」だろうか──を引っ張り出して蓋を弾き開け、真剣な顔で聖剣を見つめる。


「わ、わかった」

 その深刻な空気に勇者はごくりと唾を飲むと、植木鉢──もとい聖剣の刺さった岩に近づいて、その柄へとそっと手を伸ばした。





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