九 秘境アサ



 窓の外に巣を作る軽やかな小鳥の囀りと共に訪れた翌朝は、仲間の気配を辿って厨房の扉を開けた勇者を一目見た吟遊詩人が、ぽかんと口を開けて立ち止まるところから始まった。運んでいたパンの籠を取り落としそうになって、慌てて抱え直している。


「ゆ、勇者……なに、その顔……」


 目隠しをずり下げながら驚愕の目でまじまじと見つめられた勇者は、なぜか彼に注目している皆の顔をぐるっと見渡すと、困惑して少し身構えた。

「えっ、なんかおかしいか? ちゃんと鏡を見て描いたんだが……」


 もう一度鏡で確かめてこようかと考えた勇者に、吟遊詩人はぶんぶんと首を振った。

「いやいや、出来の良し悪しとかじゃないよ……その、顔中に描いてある黒い模様は一体何なのって聞いてるの」

「……え? これはだって、俺は狩人だし、これからは勇者だから面は邪魔だろ? だから魔を退けるためにはこうしないと……あっ、そうか。今日は外に出ないからいらないのか」


 やってしまったと恥ずかしくなって勇者は羞恥心を飛ばそうと首を振ったが、しかし吟遊詩人はそれを笑うでもなく、なぜかどんどん困惑した顔になってゆく。

「面……いや、何の話をしてるの? 昨日はそんなの描いてなかったよね? それに、その燃えてるみたいな真っ赤な鳥の羽のマントもさ……」

「昨日のは、僕が浄化の魔法で……落としてしまったから」


 なんだか言葉が通じていないような反応をする吟遊詩人に戸惑っていると、魔法使いがのんびりと言った。話しながら賢者の髪に足下から摘んだ花を挿そうとして、素早くはたき落とされている。


「僕は、森で降ろしてもらったから、見ていないけれど……アサの村人達はみんな、白い模様の入った黒い狐の面を被っていると……商人が言っていたよ」

「え、何それ……? ちょっと、勇者の村って一体どんなとこなのさ? 確か時空も歪んでるとか言ってたよね」

「どんなとこって……別に普通の田舎の村だよ」

「いや、絶対普通じゃないでしょ……狐のお面とか」


 どうやら吟遊詩人は魔獣の穢れを退ける面に違和感を感じているらしいが、つまりこちらでは一切の護りなしに外へ出るということなのだろうか? 勇者はそう予測を立ててううむと腕を組んだ。アサの村など、戦いのために面を外して紋を描く狩人が英雄視されるような場所だ。都会の人間は皆豪胆なのだなと密かに感心する。


「まあ、確かにこちらの人間と比べたら臆病なのかもしれんが」

「んん? どういうこと?」


 勇者はちょっとした冗談のつもりでそう言ったが、吟遊詩人はますますわけがわからないというように首を傾げてしまった。

 どうも話が噛み合っていない──千里眼の少年がなぜそんな反応をするのかわからず、困った勇者はとりあえず魔法使いに話を振ってみることにした。


「魔法使いは、商人のおじさんに会ったのか?」

 こちらの妖精は勇者の話を聞いて特に動揺することもなく、落ち着いて皿にレタスの葉を一枚ずつ並べていた。


「そう……行きは、彼の竜に乗せてもらったから」

「商人が、竜に乗ってるの……?」


 吟遊詩人が混迷を極めたように頭をかきむしったが、魔法使いはその表情が見えていないようにゆったりと頷いた。

「うん……ところどころにある、時空の歪みをね……とても上手に避けるんだ……巻き込まれると、変なところへ行ってしまうのだって」


 時空の歪みを、避ける。


 その台詞には、今度は勇者も戸惑って眉をひそめた。

「なあ、やっぱり歪んでるのか? 時空……というか『時空が歪む』って一体どういうことなんだ? しかもおじさんはそれを知ってて、避ける? そんなことしながら村まで来てたのか?」

「先祖代々受け継がれている……特殊な一族なのだって」


 勇者は段々と話の雲行きが怪しくなってきたことに気づいて、腰の飾り帯を指でいじった。もしかして俺の村、本当にちょっと変わってるのか?


「……おじさんが? 確かに竜なんか連れちゃいるが、娘を溺愛してて、気の良い普通の人だぞ。すぐ『俺も歳だなあ』って言うし」

「でも、金の腰帯を巻いていて……目の周りが……真っ赤に塗られていたよ。強そうだった」

「めちゃめちゃ特殊な一族の人じゃん……」


 吟遊詩人が呆れた顔で呟き、勇者はその反応で更に困惑を深めた。

 勇者は己の故郷について、特に時空の歪みについてもう少し詳しく聞いてみようと思っていたが、しかし困ったことに魔法使いはたくさん喋って疲れたのか、途中から話しかけてもぴくりと耳を動かすばかりでうんともすんとも言わなくなった。


 人間との会話に飽きてしまったように見える妖精はふいと勇者から視線をそらすと、レタスを放り出して近くに座っている賢者の頭にそっと幻の花を飾り、そして目にも留まらぬ速さで振り返った魔王に頭をはたかれた。妖精は無表情のままカタンとテーブルに手をつき、その衝撃なのか叩かれて悲しい気持ちの表れなのか、光の粉がサラサラと雨のように降り注ぐ。


「なあ、魔法使い……今、サラダの皿に星屑みたいなやつが大量に降りかかったけど、それ、大丈夫なのか?」

「元は魔力だが、大気と反応した時点でほとんどはただの光だ。問題ない」


 艶のある髪に淡い銀色の花が実に似合っていない賢者が、可憐な花を耳の上から抜き取りながらため息をついて言った。彼が眉を寄せて訝しげに見つめているうちに、その手の中の花は光の粉になって消えてしまう。その様子を見てスープの火加減を調節していた神官がクスクス笑う。


「勇者の村とは、例の秘境ですよね」

「……秘境?」


 先程までの話を聞いていたらしい神官から突然飛び出した妙な単語に、勇者はつまみ食いしようとベーコンの皿に伸ばしていた手を引っ込め、眉を寄せて神官をじっと見た。

「ええ。断崖絶壁に囲まれた陸の孤島……時空を越えた先にあるとも言われ、その存在は最早伝説と思われていたのですが……まさか本当にあったとは、私も神託を受けるまで知りませんでした」


「は?」


 神官はこの塔に来て何度目かわからないぽかんとした顔を作った勇者へ大真面目に頷くと、少し恥ずかしそうに小声になって神妙に問うた。

「ねえ、勇者……伝説の地アサには『バンデッラー』と呼ばれる戦闘職があり、凄まじい勇猛さでもって魔獣を単独で狩るというのは本当ですか?」

「は?」

「何それ、秘境っぽい……」

 じわじわと楽しくなってきたような声で吟遊詩人が言ったが、勇者はいやいやと首を振った。


「いや……バンデッラーって村の方言でただの狩人かりゅうどの事だし、魔獣だって大抵の狩人は兎とか、どんなに大きくても鹿型くらいしか一人じゃ手を出さないよ」

「でも兎の魔獣は一人で狩るんだ」

「いや、ほとんどただの黒うさぎだぞ?」

「いやいや……」

「ええ?」

「じゃあさ、もしかしてその牙とか角みたいなのがいっぱいぶら下がってる腰飾りは、勇者が獲った獲物なの?」


 吟遊詩人の目が楽しげにキラキラしてきたのは嬉しかったが、村の「当たり前」が全くもってこちらでは常識に当てはまらないことにようやく確信を抱いた勇者は、腕を組んで苦笑いになった。

「ああ……まあちょっと邪魔なんだが、巻いとかないと腕が示されないから」

「『腕が示されないから』かあ。うん、秘境だなあ」

 そんな話をしていると、盆の上に杯や皿を並べていた賢者が不思議そうに──だいぶ怖い顔だが、きっと怒っているのではなく不思議そうな顔なのだと思う──眉間にしわを寄せて尋ねた。


「そのような村の生まれでありながら、そなたは何ゆえほぼ訛りなく標準語を話せる? 付け加えるならば、先程エルフの魔力光を『クズ星スダルダート』ではなく『星屑スティルフェン』と称したな。多少粗野ではあるが、そなたの話し方はおおよそ中流階級以上の教養がある者のそれだ」

「魔力光ではないよ……これはね、星というの。『星を纏う』って」

「ふむ、詩的な表現だ」


 賢者は背後から口を挟んだ魔法使いに頷くと、その手から素早く花をむしり取って吟遊詩人の髪へ無造作に差し込んだ。

「痛っ! ねえ爪が刺さったんだけど……ていうかやるならもうちょっと可愛くしてよ。挿し木じゃないんだからさ」

「だそうだ。遊ぶならばこやつの頭でやりなさい」

「……でも、黒髪がいいよ」

「ならば勇者でも良かろう」


 その時の勇者は質問の答えを口の中で持て余しながら緊張感のない会話を眺めていたのだが、突然花飾り妖精を差し向けられそうになったのでぎょっとして後ずさった。

「えっ、やめてくれよ。俺の頭に花とか気持ち悪いだけだって」

 そう言われた魔法使いは勇者の頭に目を遣ったが、しかし「全然だめ」と言わんばかりにゆるゆると首を振った。

「毛が硬すぎる……長さも足りない」

「いや、そこなの?」


「──話を戻して良いかね? 標準語はどこで覚えた」

 話しながら皆で朝食を隣の食堂に運び始めたところで、どうやら先程の質問を忘れたわけではなかったらしい賢者に再び尋ねられた。


「……ええと、父が外の生まれだったんだ。言葉も文字も父を真似して覚えたから」

 勇者が「だった」と過去形で話した瞬間に黒い瞳がすっと細められたが、しかし賢者は何も言わなかった。


「その指輪も王都の職人の手によるものに見えるが、父君から譲り受けたものか」

「これか? これは俺が生まれた時に、父が成人の贈り物として商人のおじさんに注文してたらしくてさ……十五の誕生日にいきなり『お前の父さんからだ』って渡された時はびっくりしたな」


 引き抜いてひょいと渡した指輪を、賢者は指先でそっと摘んで傾け、外側に彫り込まれた紋様や内側の刻印を見つめた。視線こそ敵の実力を見極めているような感じだったが、手つきはまるで宝物を扱うようで、やはりそういうちょっとしたところに勇者は彼の優しさを感じる気がした。


「ふむ、良い品だ。顕現術とまでは言わぬが、幸福を願う祈りの紋が刻まれている」

「へえ……」


 指輪を嵌め直しながら久しぶりに父親の顔を思い出して目を細めていると、賢者はそんな勇者の心の動きなど全てわかっているような、そしてわかった上で特に感想もなさそうな冷ややかな目で見下ろした。


 そうしているうちに出来上がった朝食はやはり美味かった。魔法使いが作ったという野菜のスープに山積みのベーコン、新鮮なサラダにチーズ、スープに浸さなくても食べられる随分と柔らかいパン。

「いや、これを『スープがいらないな』とか言うのは勇者だけだって。どんだけ顎強い……っていうか勇者の村のパンってどんだけ硬いのさ。これ以上って、もはや岩じゃん」


 吟遊詩人の反応を見るにやはり勇者の村は少し変わっているようだったが、悪い気はしなかった。そんな勇者の故郷の様子を知っても、彼らは不思議そうにしたり面白がったりするばかりで、少しも遠ざけるような目で見ない。そう、勇者はここでは異物であってもいいのだ。


 勇者はもう、一人だけ違うことを恐れたりしない。異質さは楽しい話題になって、個性になって、いずれきっと才能になる。『狼』から『勇者』になった自分はこれからそうやって生きてゆくのだ。


 そんな気分に浸っていたからか、賢者が「では、そなたに聖剣を授けるとしよう。覚悟はできているか」と呪いをかける直前の闇の精のような目で微笑んだ時も、勇者は「おう!」と朗らかに笑って返事を返した。


 しかしその後、神官が「大丈夫ですよ、絶対あなたを死なせないようにちゃんと策を考えてありますから」と励ますように言ったのを見ると、やはり腹の底が重く不安になったのだった。





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