八 神殿
そいつはどこからどう見ても神官の姿をしていた。背丈も、体格も、顔立ちも、髪型も、まるきり同じだった。しかし、見なくてもわかった。そいつは神官じゃなかった。
「『誰だ』って……本当にどうしたんですか、勇者」
そいつがランタンを掲げて心配そうな神官の顔で近寄ってきたので、勇者は脅すように短剣を閃かせながら身体に力を巡らせて気配を増し、ドンと足で床を叩くと鋭く威嚇の気を放った。敵が息を呑んで一歩後退し、背後からも小さく「ひゃっ」と悲鳴を上がった。
「困りましたね……私が信用できないのならば、賢者を呼んできましょうか。随分様子がおかしいですよ、勇者」
しかし神官そっくりの声が困ったようにそう言った時、背中から吟遊詩人がすっと勇者の腕をどかして顔を出した。
「姿だけ真似たって無駄だよ、お姉さん。僕に見えてるのは想定外だとしても……君、水持ちですらないじゃない。そんなランタンでごまかせると本気で思ってるの?」
驚くほど冷たい声が吐き捨てるようにそう言ったのに驚いて、勇者はちらりと後ろを振り返り、すぐに視線を戻した。呪布を解いた吟遊詩人の緑色の目が冴え冴えと、全てを見透かすように光っていた。
と、勇者の背後に視線を移した敵の目が、急に今までの神官らしい表情を崩して鋭く眇められた。勇者は咄嗟に手探りで背にした厨房の扉をこじ開けると、驚いた声を上げる吟遊詩人を放り込んでバタンと閉じ、中から開けようとする少年を扉にぐっと寄りかかって押し込めた。
「ちょっと、勇者!」
「そこで大人しくしてろ」
押し殺すように言うと、扉の中が静かになった。
「……で、お前は何だ。他に仲間はいるのか」
「やれやれ、困りましたね」
女性の声が静かにため息をつくと神官の姿が
「まさか私の擬態がこうも簡単に見抜かれるとは思っていませんでしたが……弁明させていただきますと、私が気の祝福持ちなのは計画が杜撰だからではなく『こうしていざという時に、貴方がたを無血で無力化するためなのです』」
存外に穏やかで透き通った声の最後の方が二重三重にぶれて聞こえたかと思うと、唐突に全身の力がかくんと抜けて勇者は石の床に膝をついた。カランと音を立てて床を滑った短剣が遠くへ蹴り飛ばされる。背後の扉の中からも崩れ落ちるような音が聞こえ、勇者は動かぬ体を持て余しながら必死の思いで戸を塞ぐように倒れ込んだ。
マントの人物が一歩一歩近づいてくる。間近で見下ろされると、フードの陰になっていた顔が明らかになった。整っていて優しげにも見える顔立ちと、真面目そうな口元──それから、焦点が合っているのにどこかこちらが見えていないような、賢そうなのになぜか話が通じないような、不気味な瞳。
「こうなってしまった以上あまり意味はないでしょうが……一応使命ですので、祝福を授けさせていただきます」
勇者の傍らに跪いたマントの女はそう言って気味が悪いほど優しく勇者の腕を取ると、小声で何か唱えてすっと肘から手首までを指でなぞった。焼きつくような痛みが走り、前腕に蔦が絡み合うような灰色の紋様が現れる。静かな声はやはり少しぶれるように重なって聞こえ、それを認識する度に力が抜けてゆく勇者は、ただそれが施される様を目を見開いて見ていることしかできなかった。
彼女は出来上がったらしい紋様を眺めてひとつ頷くと、丁寧な所作で立ち上がった。
「不審に思われるでしょうが、そうご心配されずとも大丈夫です。こちらの意向を汲んでくださるならば我々は決して敵ではありませんと、猊下にもお伝えください」
そう言ってふうと小さなため息をつくと、侵入者は美しく一礼してくるりと背を向けた。
「私はここで失礼いたします。速やかに塔から出ますのでご安心ください。では、気の祝福と共に、良い夜を」
その言葉と同時に水色の明かりがふっと消え、辺りは暗闇に包まれた。マントをばさりと翻す音がすると、軽い足音が螺旋階段を駆け下りてゆく。
そしてその音が聞こえなくなった頃、頭の奥をぼんやりと締めつけていたような重圧がなくなって、体の自由が戻ってくるのがわかった。倒れたままの勇者の体を転がすようにして背後の扉が開くと、どうやらその不思議な瞳で扉越しに全てを見ていたらしい吟遊詩人が這い出てきて、ごくりと唾を飲んで勇者の腕を見つめる。
さて、そこからはまさに以心伝心だった。勇者と吟遊詩人はゆっくりと顔を見合わせてふたり同時に頷くと、素早く跳ね起きて競うように吹き抜けに面した手摺りへと駆け寄ったのだ。
「賢者あああぁぁっ!!」
一足先に辿り着いた勇者が腹の底から声の限りに吼えた。その声は耳が痛くなるほど強く反響しながら塔の中を響き渡り、二十も数えないうちに上の階の扉が音を立てて開くと、青白い光と共に不機嫌そうな声が降ってくる。
「……貴様、騒々しいにも程があるぞ」
二人はその声に心底ホッとしつつ、とにかく頭をよぎる言葉を端から全て喚いた。
「今、なんか変な奴が! 何かわからんが、なんかされた!」
「神殿の奴だ! 気の神官だよ。勇者が腕に、腕になんかっ!」
「そこでじっとしていなさい」
賢者の声がすっと真面目になったかと思うと、カシャン、カシャンとランタンの揺れる音を立てながら背の高い人影がローブを翻して駆け下りてきた。
賢者は手摺りに縋ってへたり込んでいる二人を一瞥すると、さっと顔を上げてフードの女の百倍鋭い瞳でぐるりと周囲を見渡した。
「侵入者は」
「下に。すぐ出て行くと言ってた」
「そうか──行け、下だ」
賢者が振り返って上に向かって声を上げると、いつの間に現れたのか星屑のような光をたなびかせた魔法使いが流星のように螺旋階段を駆け下りていった。長い裾などものともせず、歩くだけでもカンカンとよく響く階段がしゃらんと小さな花束で撫でるような音しか立てていない。
「うわ、魔法使い……走るの速いね」
それを目で追った吟遊詩人が呆気に取られたように呟くと、賢者が片膝をついて勇者の腕を掴みながらこともなげに言った。
「あやつとてエルフだ、それなりの身体能力はある……ふむ、『神の耳』の祝福紋だな。古い術だが、剥がせばどうということはない。吟遊詩人、呪布を貸しなさい」
「え、うん」
賢者は受け取った意外と長い目隠しの布を、腕の紋様を覆うようにぐるぐると巻きつけて頷いた。模様が先程の灰色ではなく、血のような赤色に染まっているのが見えて身震いする。
「厳密に言うなら完璧な遮蔽にはならぬが、まあ目も耳も同じ感覚器官という意味では似たようなものである故、ひとまずはこれで問題なかろう。剥がすまでの間はこのままにしておきなさい」
「ああ……ありがとう」
「ふん」
賢者はそれに冷たく鼻を鳴らして答えると、近くの扉を開けて勇者達を招き入れながら、鋭く質問を重ねて侵入者についての情報を聞き出していった。食堂なのか広いテーブルが置いてある部屋へ落ち着くと、少し怒っているのか最早勇者の語彙では表現しきれない怖い目をした賢者が、気難しげに顎を上げて腕を組む。
「事情はわかった。しかし、何ゆえこちらの情報が神殿へ伝わっている」
魔王より怖いものといえば、次は何だろうか──
「勇者よ、わからぬからといってよそ見をするな」
「あ、ごめん」
思わず遠くを見ていた視線を、筆舌に尽くしがたい瞳へ引き戻す。先程から出てくる神殿という言葉に気を取られながらもさっぱり意味がわからない勇者と違って、仲間達は皆多かれ少なかれ敵について事情を把握しているようだった。
「それは……もしかすると、私かも、しれません」
階段を駆け下りた息切れがまだ治まっていない神官が、胸元を押さえて肩で息をしながら苦しげに口を挟む。
「お恥ずかしいことに、私は神職にありながら今の今までこの祝福紋の本当の意味を知らなかったのですが……実は、勇者の腕の紋と同じものが私の背にもあるのです」
そう言うと神官はわけがわからないといった顔をしている勇者へ視線を合わせ、少し悲しげに微笑んだ。賢者がそちらを向いて「……剥がさず来たのか」と呆れた声で呟く。
「今の神殿はね、勇者。あまり健全な状態にあるとは言えないのですよ。腐敗というよりは……過ぎた潔癖と申しましょうか。いつしか信仰が狂信に取って代わり、そして道を誤ってしまった」
その先を引き継いだのは賢者だった。
「そもそもだ。神託によって選ばれた勇者であるそなたを迎えたのが四人の旅の仲間のみという状況に、不審を抱きはしなかったか」
「いや……全然」
「ふん、愚か者め。良いか、そなたにも理解できるよう簡潔に言ってやろう──神殿は、敵だ。
「馬鹿馬鹿しいって……そんな風に思ってたんですか?」
「……盗み出した?」
目の前でちょっと不満げに唇を尖らせている優しそうで弱そうな男にそんな一面があるとはとても思えず、勇者はぽかんと口を開けた。そんな彼らを鼻で笑った賢者は、落ち着いてきたのか少しずつ元の鋭さのない怖い顔に戻って続けた。
「神殿の言い分によれば、この世は既に穢れすぎており、一度終焉を迎え全てを無に
「はあ? なに言ってんだ……めちゃくちゃじゃないか」
勇者が困惑した声を絞り出せば、賢者は「左様」と頷いた。
「『めちゃくちゃじゃないか』という表現はそなたの思考の具体性のなさを露呈しているように思うが、この場合に限っては相応しいやもしれぬ。神官が彼らのそれを狂信と称する理由はそれだ。世界と共に自らもまた滅びようという思想は、病的で支離滅裂と言えるだろう。故に今回の『浄化』、即ち四百年に一度の魔王討伐にあたって、神託はここにいるこの神官一人にのみ与えられた。こやつは水神オーヴァスによって誰にも悟られず神殿を出ることを命じられ、私と共にこうして極秘裏に剣の仲間達を集めてきた……というのは私の誤認で、どうやら情報の抜け道があったようだが。さて神官、背中を見せてくれるかね」
そう言われてのろのろと上を脱ぎながら慎み深く「あまり見ないでください……」とか言っている神官はとても優しそうで、勇者などよりずっと深く愛を知っているような顔つきだ。なのにその体はくっきりと骨が浮き出て、今にも倒れるのではないかというほどに痩せていた。その青白く血色の悪い背中に、淡い水色に輝く蔓草紋様がびっしりと刻まれている。色は綺麗なのに、なぜかとても禍々しいものに見えて身震いした。狂信だなんだと話を聞いた時にはどうにもピンとこなかったが、勇者はその時初めて神殿というものが恐ろしくなった。
「神の耳……周囲の音を拾う紋に、強い感情を抑える紋、特定の言葉で意識を奪う紋、懺悔と言う名の自白を促す紋、食欲を押さえる紋に、肉欲を消し去る紋……監視と管理の目白押しだな、神官よ」
「神の祝福を授け雑念を払う祈りの紋だとしか聞いておりませんでしたが、関連する文献が見当たらないからといって鵜呑みにしたのは誤りでした。剥がせそうですか?」
「私の魔力量では無理だ。魔法使いにやらせよう」
「なあ、食欲なんて……押さえてどうするんだ?」
勇者が痩せ細った背中を見ながらポツリと尋ねると、神官は背を向けたまま穏やかな声で寂しそうに笑った。
「考えたくもありませんが、お腹が空かなければ心から微笑んで飢えた者に分け与えることができると、そういうことでしょうね。神殿は清貧を尊びますから……全く、いらないものを譲ったところでそれは当たり前であって、何の善行にもなりませんのに」
「いや、突っ込むところそこなの?」
そう言った吟遊詩人の声は明るかったが、神官の背を見つめる目は今にも泣きそうで、その健気な優しさに心を打たれた勇者は手を伸ばすとふわふわした頭を軽く叩いてやった。
しかしなんだか悲しい空気が部屋に漂い始めた時、救いの手は現れた。廊下の方からしゃらしゃらと不思議な足音がして扉が細く開き、隙間から銀色の影が部屋に滑り込んでくる。そう、ぼんやりした妖精が石の床から花を咲かせながら帰ってきたのだ。
「──急いだけれど、もう……いなかったよ」
そっと扉を閉めながらのんびりと言う口調には少しも緊張感がなく、勇者は思わず笑みを浮かべてよくぞ帰ってきたと胸の内で魔法使いを歓迎した。
「あのね、塔を出たところで……たぶん、転移しているよ。緑の光が見えた。でも、捕まえてもどうしたらいいのかわからないし……まあ、いいよね」
「……ああ」
賢者が疲れたように短く返事をするのに頷いて、魔法使いは相変わらず重さを感じない足取りで神官に近寄ると、その背の紋様を一つずつ指でなぞった。
「耳、口、お腹、心……」
「や、やめてください! くすぐったいです、魔法使い!」
「全部……取った方がいいね」
賢者はそれに無言で頷くと、勇者に向かって手を差し出した。
「腕を貸しなさい。そなたの分は私が剥ぐ」
どうにも皮膚まで剥がされそうな目つきに躊躇しながら勇者がおそるおそる腕を出すと、賢者は手際良く巻いたばかりの黒い布を外し、そして冷たい指がさっきより鮮やかな赤色になっている紋様の端、一番肘に近い場所に軽く爪を立てた。
しかし次に起きたことがあまりに勇者の理解を超えていたので、彼は思わず賢者の手首を掴んで紋様を剥がし始めている手を止めてしまった。
「何だ」
「あのさ……い、痛いから、もうちょっとゆっくりやってくれないか」
「高位神官の顕現術を剥がすのだ。血を流しているのでもなし、多少の痛みは我慢しなさい」
だが賢者はため息をついて勇者の訴えを少しのためらいもなく無下にすると、再び紋様の端を引っ張って、ぺりぺりと皮膚に張り付いたそれを腕から引き剥がし始めた。勇者はそのチクチクとした痛みを一瞬我慢したが、やはりどうにも理不尽な気がしてわっと声を上げた。
「なあ、これやっぱりおかしいって! なあ毛が、毛が抜けてるから!」
「全く情けない。紋の裏側にそなたの体毛が付着している……この
そうして勇者の腕の毛を紋様の形に綺麗に引き抜いた賢者は、気持ち悪そうにそれを体から遠ざけてぽいと床に落とした。すると床の上に落ちたそれからたちまち黒い炎が燃え上がり、紋様と腕の毛は跡形もなく消え去る。
「はあ、全く最低の気分だな……」
心底嫌そうな顔をしている彼の様子に段々と悲しくなった勇者は「そこまで言わなくても」と呟いたが、当然返事は返ってこなかった。ため息をついて、部屋の反対側に目を遣る。紋様が小さい勇者でさえこうだったのだから神官はさぞや痛がっているだろうと思ったが、どうやら彼は彼でまた違う苦しみ方をしているようだった。
「や、やめて。魔法使い、くすぐったい。もう勘弁してください」
「あ、また千切れちゃった……ごめんね」
特に毛深い背中はしていない神官なので痛みこそそれほど感じていないようだったが、そこでは魔法使いが紋様の端をちょっぴり剥いではすぐにぷちりと千切ってしまい、またカリカリと引っかいて少し剥ぐというのを繰り返していて、つまり延々と細い指先で背中をくすぐり続けられている神官は、脱いだ上着を抱きしめて涙を浮かべながら身をよじっていた。
「賢者、賢者にやってもらいたいです。助けてください、賢者」
「私の魔力量では不可能だと言ったろう。もっとも、どうやら魔法使いにも困難な作業であったようだが」
「それって魔力ではなくて、手先の問題ですよね? ねえ、あとどれくらいです?」
「七割といったところだな」
「そんな……ひっ」
残りの量を聞いて悲しげに項垂れた神官だったが、しかし魔法使いが小さな丸い紋様をぷちりと千切り取った瞬間、息を呑むと突然声を上げて泣き始めた。
「──もう嫌です、耐えられません。お腹空きました。我慢しますから、誰か手を握ってくださいってばぁ!」
「お、おい。どうした……」
勇者がたじたじとなりながら神官の前に回り込んで手を握ると、神官はそれをぎゅっと握り返して咽び泣いた。
「わからない、わからないです。苦しくて、涙が止まらないんですよう」
「おい……」
勇者が困り果てて周りを見回すと、死にかけの虫でも眺めているような同情の欠片もない目をした賢者が、鼻で笑いながら言った。
「感情に制限をかけていた紋が外れ、反動が出ているだけだ。手など握ってやらずとも時間が経てばじき治まる」
「いやお前、よくこれを見てそんなこと言えるな……」
そして、その後かなりの時間をかけて神官の背中の祝福紋とやらは全て剥がされ、泣き喚いた羞恥で顔を覆ったまま動かなくなった神官を寝台へ押し込むと、その夜は皆部屋に戻って休むことになった。
「予定よりも早く発たねばならぬだろうな。明日には聖剣を渡す故、今日はよく休んで体調を整えておきなさい」
聖剣か、いよいよ「勇者」らしくなってきたな。
勇者が少し期待に胸を膨らませながら部屋へ戻ろうと歩き始めると、賢者の声が追ってきた。
「浮かれているようだが、きちんと眠って魔力を満たしておきなさい。聖剣を甘く見るな、下手をすればそなたとて死にかねん」
「は?」
思わず振り返ったが賢者は既に階段の向こうへ行ってしまっていて、ぐったりと疲れ切った勇者は吟遊詩人に「明日の朝もし寝過ごしたら叩いてでも起こしてくれ」と頼むと、きっと美味しいだろう朝食を楽しみにしながらとぼとぼと寝室へ帰っていった。
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