七 麦粥
寝過ごした。
自分で思っていたよりも疲れていたのか、目覚めた時にはもう窓の外は真っ暗で、空気の感じからしておそらく真夜中に近い。夕食の時間などとうに過ぎているに違いなかった。勇者はそういえば昼も食べていなかったことを思い出し、落胆のため息をつくと水でも飲もうと枕元の
仕方ない。明日の朝、少し多めに食べさせてもらえるように頼んでみよう。
マッチは村で作られているものよりもかなり火薬の質が良いらしい。簡単に火がついた上に、軸に使われている木材も均一に整った形をしていた。いつの間にか花が抜かれている水差しの水を杯に注いで飲みながら、尾の長い鳥の絵が精緻に描かれた小さな紙の箱を明かりにかざして、手の中で
と、その時、不思議なことが起こった。
それは随分と美しい不思議だった。部屋を照らす明かりが不意に小さくなったので燭台へ視線を移すと、炎から光を吸い取ったように蝋燭の側面に赤く光る複雑な紋様が浮かび上がっていたのだ。そして勇者が見守っているうちに火の中から幻でできたような小さな蝶が羽化するように羽を広げ、軽やかに飛び立つとひらひらと空中を何度か羽ばたき、そしてふっと消えた。
明かりが再びふわりと大きくなって、時間が元通りに動き出す。勇者はごく普通の蝋燭に戻ったそれをじっと見つめると、止めていた息をそろそろと吐き出した。
何だったんだ、今のは……?
不安になった勇者はしばらくうろうろと部屋の外を覗いて消えた蝶を探したり、蝋燭を指でつついたりした。しかし結局何もわからなかったので、諦めて少し本でも読もうと燭台を持って壁際の本棚に歩み寄った。
歴史書らしき一冊を選んで立ったまま最初の一章を読んだ頃、部屋の外に気配を感じて勇者はふと顔を上げた。軽さの割に歩幅の広い弾むような足音は、吟遊詩人だろうか。ノックの音に返事をすると「あ、ごめん。開けてくれる?」という明るい声が聞こえた。本を棚に戻して扉を開けに行けば、湯気の立つ盆を両手に一つずつ持った金髪の少年が立っている。彼と会うのは勇者が杯や寝台を壊すところを見せてしまって以来だったが、その視線に少しも忌避の色がないことに心底ほっとする。安心すると、急に鶏肉と野菜の良い香りが気になり始めた。思わずその手元へ期待の眼差しを向けると、彼は楽しげに笑って盆を少し持ち上げてみせる。
「お腹空いたでしょ。夜食、一緒に食べよう」
「うわ、丁度さっき起きたところで腹減ってたんだよ。ありがと……ああいや、その前にちょっといいか、さっき変なことがあって」
勇者が視線を皿から引き剥がして言うと、吟遊詩人は実に感じ良く首を傾げた。
「ん、どしたの?」
「蝋燭に火を着けたらな──」
華奢な腕には少し重そうな盆を受け取りながら蝶の話を切り出したが、しかしこの少年は不思議なことに驚く様子もなく、勇者へ少し笑ったような声を返したのだった。
「あ、ごめん、驚かせちゃったか。それ、僕だから大丈夫だよ」
「……お前も魔法が使えるのか?」
勇者が目を丸くして肩より少し下にある頭を見下ろすと、吟遊詩人は「いやいや」と胸の前でひらひら手を振った。
「魔術を組んだのは賢者だよ。僕はお願いしただけ。白の三時頃かな、夕食に呼びに来たら勇者ぐっすり寝てたからさ。起きたらごはん持ってこようと思ってやってもらったんだ」
片方の蝋燭に点火すると蝶が飛んでいって、対のもう一本に火をつけるんだよ──と不思議なことをいかにも当たり前のように話す年下の少年の様子に、今まで自分はどれだけのことを知らずに生きてきたのだろうと勇者は少し呆然として頭を振った。
「確かに驚いたが……昼も食べてなくてほんとに腹が減ってたから、助かったよ。机は小さいし、寝台に座って食べるのでいいか?」
「うん、もちろん」
にこやかな声でそう返ってきたので勇者は軽く頷いて寝台の方へ向かおうとしたが、パタパタと軽やかに彼を追い越していった吟遊詩人の髪がきらりと濃い蜂蜜色に揺れたのを見ると、ふいに腹のあたりがヒヤリとして立ち止まった。
「勇者? どうしたの、おいでよ」
「あのさ、念のため聞いとくが……お前、男だよな?」
「へ? うん、そうだよ」
勇者はその言葉にどっと安堵の息をつくと、今度は安心して寝台の端にちょこんと座った吟遊詩人へ盆を差し出した。
「ねえ、女の子かもしれないと思ってたのにこんな時間に部屋へ入れたわけ?」
「いや、そうじゃない! 俺が勝手に男だと思い込んでただけだったらどうしようかと思って」
「ならいいけど」
蝋燭一本の明かりだとかなり異様な感じに見える黒い目隠しの少年の隣へ腰掛けると、勇者は良い香りのする盆を膝に乗せて匙を握り、まじまじと皿の中を覗き込んだ。
「これ……麦粥か?」
「うん。消化にいいものにしろって神官が言うからこれになったけど、もしかして嫌いだった?」
「いや、俺の育った村で麦粥といえば、ミルクと蜂蜜で煮込んだものに干した木苺とかくるみを入れて食べるんだ。肉や野菜が入ってるのは初めて見た」
「そういうのもあるけど、この辺だと甘いのは朝食用って感じかなあ。さっき味見したけど、すごく美味しかったよ。これ、魔法使いが作ったんだ」
「魔法使いが?」
……魔法使い、が?
あいつ料理なんてするのか……? と包帯や魔法陣を思い出しながら少なめのひと匙を口に入れた勇者は、しかし次の瞬間には目を剥いて残りの粥を凝視した。
「うまっ……!」
「でしょう? あの不思議な妖精さんがこんなの作れるなんてびっくりだよねえ」
勇者はそれに無言で頷くと、次から次へと粥を掬っては口に入れた。喋る余裕などなかった。少し濁った優しい色のスープには鶏の骨から取った香りが髄まで染み渡っていて、そこに細かく刻まれた野菜と……生姜だろうか? たっぷりと使われている脂の乗った鶏肉のくどさを洗い流すような爽やかな味が、絶妙なバランスで加えられていた。麦はほんのり表面が溶ける柔らかさとつるりとした独特の食感が絶妙な煮込み具合で、食べれば食べるほど疲れた神経を癒すような味に手が止まらない。
「はあ……こんな美味いもの初めて食った……」
「早っ」
あっという間に完食して満足のため息をつくと、まだ半分以上残った皿を抱えた吟遊詩人がぎょっとしたように勇者の膝の上に顔を向けた。
「……もしかして、お代わりが必要かな? 明日の朝食は金の二時半だけど……」
「量としては満足だが、食べていいならいくらでも食べたいな……ええと、金の二時半ってのは何だ? さっき言ってた白のなんとかってのもその仲間だよな?」
思わず期待が声に滲んだのがバレたようで、吟遊詩人はさっと下を向くと吹き出しそうなのを堪えたような声で「すごく気に入ったんだね。うん、美味しいもんね」と呟いて頷いた。
「魔法使いはもう厨房にいないと思うけど、スープはまだ残ってたはずだから、僕があっためるので良ければ食べられるよ。『金の二時半』の方はね……ええと、勇者は時計って知ってる?」
「言葉だけなら。詳しくはわからん」
どうやら追加の粥がもらえそうなことに心を弾ませながら首を振ると、吟遊詩人は口から匙を離して「そうだなあ」と考え込むように天井を見上げた。
「なんて説明したらいいかな……時計っていう、一日の時間を細かく分けて計る道具があってさ。金の二時半だと日が昇って少ししたくらいかな、そういう感じで時間帯とか……これから朝食まであと二色と一時間、みたいに長さの数え方とかに、それぞれ名前がついてるんだよ」
そんなものに名を与えたところで面倒なだけで大して役に立つようにも思えなかったが、勇者はとりあえず意味はわかったと頷いた。
「……都会の人は几帳面というか、変わったこと考えるんだな」
「慣れれば便利なんだけど、そう言われるときっと神経質な人が作ったんだろうなって気もするよね……ねえ、それよりさ」
「ん?」
吟遊詩人が急に内緒話をするように声をひそめたので、勇者も少し前屈みになって耳を近づける。なんだか友達みたいでわくわくして、自然と笑顔が浮かんだ。
「魔法使いって……男の子だと思う? 女の子だと思う?」
「……魔法使い? いや、どうだろう」
いかにも妖精らしい妖精なので、考えてもみなかった。窓辺で小鳥がパン屑を食べていても、鳥だと思うだけで雌雄まで気にしないのと同じだ。うーんと腕を組んで思い返しても……胸元はぺたんとしているが体格は非常に華奢で、声は男にしては高く女にしては低く、そもそも少し
「……わからんな。『僕』と言ってるし、男じゃないか?」
「ほんと? 女の子でもそういう子たまにいない?」
「なら明日訊いてみるか」
「失礼じゃないかな?」
吟遊詩人が不安そうに尋ねる。そう言われると勇者も出会ったばかりの優しげなエルフに嫌われたくない気持ちが強く、ともすれば自尊心を傷つけそうなことを不躾に尋ねるのはためらわれた。
「……じゃあ、賢者にこっそり聞こう。あいつなら見分けつきそうじゃないか?」
「それだ!」
そうして首を捻ったり頷き合ったりしているうちに吟遊詩人が食べ終わったので、厨房へ向かうという彼に勇者もついてゆくことにした。
「料理なら多少はできるし、俺も手伝う。自分が食べる分だしな」
勇者は料理とか絶対苦手だと思ってた、と意外そうにしている少年へ向かって「まあ、一人暮らしだからな」と特に意味もなく胸を張ると、急に笑いがこみ上げてきて勇者は小さく吹き出した。ちょっとした会話だが、だからこそ、すごく楽しい。
「そっか、良かった。かまどに火を入れるくらいならできるけど、料理はほとんどしたことないから自信なかったんだよね」
ちょっぴり悪戯っぽくニヤッとした吟遊詩人は目元が見えないのに不思議なくらい明るく表情豊かで、思い返せば結構とんでもなかった一日の疲れた記憶が洗われるようだった。
「あ、一人だったからランタン持ってきてないや。勇者、夜目は利く?」
月明かりも入らないほとんど真っ暗闇の廊下を覗きながら変な質問をする千里眼の少年に、勇者は笑って首を振る。
「いや、流石にこの暗さだと心許ないな」
「そっか、じゃあこの部屋のやつをつけようかな……あ、これ魔石出さなくていいし、ちゃんと白く光るやつじゃん。さすが賢者の塔、高級品使ってるなあ」
吟遊詩人が壁から取ったランタンの持ち手を掴んでぎゅっと握り込むと、ガラスの壁に囲まれた透明な石にぼうっと青白い光が灯った。
「すげえ」
「これねえ、安物だとその人の魔力の色に合わせて赤とか緑とかの光になっちゃうの。まあ当たり前だけどそれだと目がチカチカするから、いいやつはちゃんと白く光るように魔術が組んであるんだよ」
「へえ……」
丁寧に教えてくれる気遣いを嬉しく思いながらも、勇者は首を捻った。魔力の色。赤や緑。まだまだ知らない世界がすぐそばで広がっていて、それが楽しくもあり、少し恐ろしくもあった。
「なあ……吟遊詩人」
「何?」
「魔法使いがさ……俺の故郷の村の辺りは、時空が歪んでるって言うんだ」
少し気を紛らわそうと、戯れに話題を振ってみる。すると少年はまるきり友人のような態度で話に乗ってくれた。
「ええ? 何それ、やばいじゃん……そんなところに住んでて大丈夫なの?」
「だよな……みんな、大丈夫なのかな……」
「よくわかんないけど、賢者に聞いてみなよ。どうせ知ってるだろうし、魔法使いに聞くよりわかりやすいと思う」
「ああ、確かに」
はてさて、そういう他愛もない話をするのが楽しかったからだろうか。二人のいる階へと下から上ってくる明かりがあることに勇者が気づいたのは、その気配がかなり近づいてからだった。
厨房の扉へ手を掛けたままハッとなって振り返ると、そこには水色に光る小さなランタンを下げた男が、淡い色の神官服を纏って佇んでいた。この一日でもうすっかり見慣れてしまった、優しげな神官の顔。
「おや……お目覚めでしたか、勇者。丁度良かった、これからそちらへ伺おうと思っていたところなのです」
その穏やかな笑顔を確かめた勇者は息を吐いて肩の力を抜き──そして一歩前に進み出ると、後ろ手に吟遊詩人の肩を掴んで己の背後へと押し込んだ。
「勇者、どうしました?」
不思議そうに目を瞬かせるその男に向かって、勇者は素早く短剣を抜き放つと唸るように問う。
「……誰だ、お前」
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