六 賢者の塔 後編



 賢者がカサカサと微妙に動いている桃色の葉をじっと見つめるのを、勇者は固唾を飲んで見守った。一体どんな酷い台詞が飛び出すのか、その後どうやって魔法使いを慰めようかと身構えていたが、しかし予想に反して賢者は「そうか、では実験室で話を聞こう」と言ってくるりと背を向け、先導するように歩き出したのだった。


「勇者、そなたも体調が悪化していないのならば同行しなさい。探索は明日でも良かろう」

「ああ、うん」


 次はひとつ下の階に行ってあの緑の扉を開けてみようと思っていた勇者は少し残念だったが、今はそれよりも蔓草の行方や賢者の実験室とやらの方が気になったので、二人の後をついてゆくことにした。


 螺旋階段というものは大変面白かった。ぐるぐると回るように進むのも楽しげだったが、華奢な鉄の構造の間から階下の空間が垣間見えるのは木の枝から枝に渡り歩くような緊張感があったし、踏む度にカンカンと響く音も気持ち良い。三階分ほど下ったところで再び石の廊下に戻ってしまったのが少し残念だった。明日は一番下まで降りよう、と勇者はひっそり心に決める。


 そうこうしているうちに、先頭を歩く賢者が一つの扉の前で立ち止まった。他の扉と違ってその扉には大きな銀色の板が嵌められ、そこに魔法陣とは少し違うような細かな紋様がびっしりと彫り込んである。賢者がその真ん中に手を当てると、これも何かの魔術なのか彫り込まれた紋様の一部がさっと影でなぞったように暗くなり、カチリと音を立てて扉が少し開いた。


「今のは?」

「魔導鍵だ。特定の紋様に魔力を流すことで扉が開くようになっている」

「うん?」


 勇者が首を傾げると、賢者は扉を開けながら振り返りもせずに平坦な声で続けた。

「つまり、鍵となる紋様の組み合わせと順序を覚えている者にしかこの扉は開けられぬ。合言葉を魔術で再現したようなものだと言えば少しは想像がつくかね?」

「あ、なるほど」


 通り過ぎざまにその板をまじまじと見つめてから、室内に視線を移す。扉の中はやはり壁一面が棚だったが、ここは本棚が半分で、残りの半分には変な形をしたガラスの容器や金属の道具、変な色に光る石などが大量に詰め込まれていた。


 そのあたりの箱を引っ張り出して座るように言われたので、壁際にごちゃごちゃと積んである木箱や書類の山に近づく。どの箱に座ろうかと蓋に貼られた走り書きのラベルに目を走らせた。『参考文献:流星雨投影』『発送用(原本:未装丁)』『皮革(竜種)』……うん、『魔石(小)』にしよう。上に乗せてある羊皮紙の束をどかそうと持ち上げると、そこにはぎっしりと魔法陣や何かのメモが書きつけてあって、勇者は思わず手を止めてそれをじっと見つめた。


央点おうてんを取らず、敢えて中心を外すことによって得られる……魔力的、歪み?を利用した……何だろう、特異……」

「特異効果と移動値による効果変動の関連性について」


 部屋の向こうから賢者の声がしてはじめて、勇者は賢者の研究資料らしきものを盗み見てしまったことに思い至って慌てた。

「すまない、勝手に」

「構わぬ。文字が読めるのならば、魔法使いに話を聞く間は好きなものを読んで過ごしなさい」

「それ、ほんとか? どれでも読んで良いのか?」

「ああ、どれでも」


 首だけで振り返ってニヤリと笑った賢者は今までで一番怖くない顔をしていた。

「学びを欲する者にはあまねくそれを与うるのが私の務めだ──学びといっても、頭脳労働に限るがね。基礎のないそなたに理解できるものがあるとは到底思えぬが、それもまた良い経験となろう」


 なんだか優しいのか優しくないのかちっともわからない台詞だったが、その顔は冥界の支配者よりもかなり人間に近く見えたので、勇者は彼と少し仲良くなれた気がして嬉しくなる。しかし喜び勇んで羊皮紙の一枚を手に取った勇者は、背後で発せられた賢者の言葉を耳にするとぴくりと肩をすくめてそっとそれを箱の上に戻し、俯いたまま聞き耳を立てることになった。


「さて魔法使い──降りてきなさい」

 賢者が呼び寄せると、本棚に取り付けられた梯子に意味もなくよじ登っていたエルフがするすると降りてくる。

「まずは私の用事から先に良いかね? うむ、結構。楽しげにしているところ悪いが、聞き取りの結果如何いかんによっては説教だ」


 ま、魔法使い……どんなに打ちのめされても俺がついてるからな……。


 勇者は慈悲のないその声音に眉を下げると小さく拳を握って心の中で哀れなエルフを応援していたが、二言目の内容を聞くと少し真顔になって振り返った。

「転移魔術についてだが……勇者がうずくまって頭を抱えるほど苦しみ、嘔吐して倒れ込んだな。あれはおかしい」


 ……おかしい?


 軽く眉間にしわを寄せて地獄の門番のような鋭い目になった賢者は、思わずまじまじと彼を見つめた勇者へちらりと視線をよこすと「ふむ。読書をしないのならば、転移の際にどのような感覚がしたか述べなさい」と催促するように顎を上げた。


「……ええと、魔法使いが呪文を唱えた途端、押し潰されるみたいにすごく体が重くなって、いつの間にか倒れてて……頭痛と、耳鳴りと、めまいと、こっちに着いてから起き上がったら急に気持ちが悪くなって吐いた、かな」

 賢者は軽く頷くと魔法使いに向き直って言った。

「一瞬とまでは言わぬが短時間のことだ、本来ならば嘔吐に至るほどのめまいは起こさぬし、何より内炎体質の勇者が押し潰されるほどの圧などかからぬ。可能性として考えられるのはそちらの魔力的環境に何か問題があったか、或いはそなたの描いた陣に誤りがあったかだ。それを今から確認するので、そこの床に陣を描いてみなさい」


 有無を言わせぬ調子の言葉にすっかり不安そうに耳を倒してしまった魔法使いは、のろのろと立ち上がると部屋の中央まで歩み出て床へ手をかざし、銀色の魔法陣を立ち上げた。

 すると石の床に光の紋様が浮かび上がって僅かもしないうちに、賢者がこめかみを押さえて「わかった、もう良い」と呻くように言った。神秘的な色をした光がふっと消え、実験室がランタンの明かりにぼんやり照らされた薄暗い灰色に戻る。


 そして勇者もそれを見て、少々引きつった顔になっていた。森の中では草や地面の凹凸に隠されてよく見えなかったが、平らな床に描かれた魔法陣は、魔術に関して全く知識のない勇者が見ても明らかに……問題があるのがわかったのだ。

 外側の円が大きく歪み、線の端と端が繋がっていない。中央に描かれた星模様は棘の大きさが一つひとつ違ったし、そこから伸びる線も所々でぐにゃりとしている──一瞬見えたそれは要するに、下手な子供が真似をして描いたような魔法陣だった。


「……魔法使い。そなたには円を円として描けるようになるまで魔術の使用を禁ずる。これで目的地へ命を落とすことなく辿り着いたのは奇跡だ。毎日円と線、それから文字もだ。最低限……読めるものを書けるよう練習しなさい」

「……うん」


 シュンとなったエルフが小さく頷く。文字に関しては勇者の知らない言葉だったが、先程賢者が窓に描いた美しい筆致を思い出せば、確かに魔法使いのは文字というよりミミズがのたくった跡のように見えた。

 魔法使いなのに魔術を禁止されてしまったエルフは足を引きずるように勇者のところまで歩いてくると、花が散るようにふらりと傾いて項垂れた。


「勇者……ごめんね、僕のせいだった」

「……いや、もう治ったし、大丈夫だ」

「おそらく普通の人間ならば内臓が潰れていただろう。己の体質に感謝することだな」

「勇者……」

「いや、潰れてないから大丈夫だって。もういいよ、元気出せって」


 賢者から練習用にと手渡された石板へ白墨で小さく不恰好な丸を描く妖精があまりにも儚げで、勇者は慌てて立ち上がるとがっくりと落ちた肩を叩いてやった。賢者が馬鹿にしたような目で見てきたが、だいぶその目つきにも慣れてきていた彼はあまり気にすることなく重ねて言葉をかける。

「ほら、練習すればきっとすぐ上手くなるよ。それより今はほら、その草を賢者に渡すんだろ?」

 なんとか話題を変えようと焦るあまりそう言ったが──その言葉に温度のない視線を蔓草へと向けた賢者を見て、勇者は余計なことを言ってしまったと肝を冷やすことになった。


 しかしそんな勇者の心配をよそに、床にぽとりと落としていた草を手に取った魔法使いはほんの少し元気を取り戻したようだった。少し弱々しい動きで立ち上がると足を組んで座っている賢者の腕を取り、その手に奇妙な桃色の葉っぱをした蔓草をそっと握らせる。

「これ……賢者に」

 賢者の手の中で、派手な黄緑色にすみれ色の斑点がある太い茎が一際大きくビクついた。


 ああ、やってしまった──


 勇者は黒い靴に踏みつけられた草の傍らに崩折れ涙を流す妖精を想像して頭を抱えたが、驚いたことに賢者は痙攣するように動く蔓草をじっと見下ろすと、ぽつりと言った。

「……やはり、新種か」

「……へ?」


 ぽかんとした勇者とは対称的に、魔法使いは驚く様子もなくすんなりと頷いていた。

「うん……ラミネの葉と、似ているけれど……こんな色のものは、見たことがないよ。あの辺は時空が歪んでいるし……少し淀みが濃いのも、関係あるのかもしれない」

「かなり運動があるが、はじめからか」

「ううん……ずっと僕の魔力を吸っていて……だんだん動きが、大きくなっているよ」

「ふむ、興味深いな。温室に移植するのが良いと思うが、どう思うかね?」

「賢者がいいなら……僕も植えてあげたい。このままでは、かわいそうだもの」

「ふむ、ではそれまではそなたが持っていた方が良いだろう。私では体表の経路が細い」

「うん……おいで、草」


 魔法使いの手へと返される気持ち悪い蔓草を口を開けて目で追っていると、賢者が呆れたように勇者を見遣った。

「恐ろしくほうけた顔をしているな、勇者よ」

「いや、うん……それ、新種だと思ったから拾ってきてたのか?」

「うん」

「こやつは植物学者だぞ、他に何の理由がある」

「植物学者……いや、随分変なものが好きだなと思ってた」

「それも、あるよ」


 二人分の黙り込んだ視線を集めた魔法使いは、すっかり元通りな様子でゆったりと頷いた。妖精の独特な趣味について賢者は無視することに決めたようなので、代わりに勇者が「そ、そうか」と頷き返してやった。


 その後、少し例の草について資料を探すという賢者を実験室に置いて、勇者と魔法使いは先に部屋を出た。用が済んだら探索の続きをしようかと思っていたが、なんだか妙に気疲れしたので元の部屋に戻って横になろうと、勇者はぐったり肩を落として心の中で呟く。


「僕は、夕食の準備を……見に行くよ。一人で、帰れる?」

 ぼんやりと首を傾けた魔法使いにくたびれた視線を向けて頷くと、勇者は眠る前にひとつだけと、先程からどうも気になって仕方のなかったことを尋ねた。


「……なあ魔法使い、その前にひとついいか」

「なあに」

「あのさ、『あの辺は時空が歪んでる』って言ってたろ? 俺の村……時空が、歪んでるのか?」

「うん、とてもね……君は、知らなかったのだね。じゃあ、あとでね」


 魔法使いは勇者の言葉に当たり前のように答えると、背を向けてどこかにある厨房へとふわふわした足取りで歩いていった。


「……『うん、とてもね』?」


 夕食の時に絶対問いただしてやるぞと決意すると、勇者はため息をついて来た道を戻った。





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