五 賢者の塔 前編



 束の間の眠りから目覚めた勇者は今、その勇気を試されていた。


 その視線は「吸い込まれそう」というより「奈落に引きずり込まれそう」と称した方が的確だろうか。鋭い目つきとはまたどこか種類が違うような──そう、決して不機嫌そうでも怒った顔でもないのに、なぜか背筋が凍りついて動けない。気位の高そうな立ち姿はどちらかというと若者のように見えるのに、表情の読めない真っ黒の瞳だけが奇妙に老熟していて、叡智を湛えているというよりは冥界にでも繋がっていそうだった。


 今まで出会った生物の中で──もちろん魔獣も含めてである──文句なしに一番恐ろしい気配を持っていた。


 そんな男が、よりにもよって魔王のような全身黒ずくめで、ローブの裾を翻しながら歩み寄ってくる。裾の翻り方まで魔王みたいだ。勇者はごくりと唾を飲んで、後ずさりしそうになるのを耐えた。


 そう、賢者である。





「け、賢者様?」

「敬称は要らぬ」

「うっ、はい」


 一言しか喋っていないのに、つい背筋を伸ばして言うことを聞いてしまう。彼は朗々と地の底まで響くような、勇者よりもずっと低い声をしていた。しかもその声には微塵も優しさがなく、しかし不機嫌な様子でもなく、不気味な冷たい穏やかさでもって勇者の精神を責め立てた。怖い。得体が知れなくてすごく怖い。


「あの、会えて……嬉しいよ」


 勇者が腹に抱えた枕をぎゅっとしながら言葉を絞り出すと、賢者は寝台の端に何やら見覚えのある小さな銀の盆を置きながら、ふっと僅かに口の端を上げて笑みを浮かべた。神官の優しげなそれとは正反対の、魔王が玉座の上から捕らえた人間を見下ろすような尊大な微笑だ。彼はばさりと黒衣の長い裾を捌き、その容貌に似合わない簡素な木の椅子へ足を組んで座ると言った。


「私もだ……」


 絶対嘘だ……!


「ええと、俺に会いに、来てくれたのか?」

 あれから少し眠ったところでノックの音が響き、神官かと思って返事をすると扉の外にはこの男がいたのだ。心臓が止まるかと思った。


「勿論だ。だが、他にも用はある──」

 賢者は枕元に置かれた盆の端にすっと指を滑らせたが、勇者には目の端以外でそちらを見る余裕がなかった。優雅ともいえる仕草で細められたのは、村人に多かった濃い茶色ではなく、瞳孔の輪郭がほとんど見えないような、もはや黒といっていい灰色の目だ。狩人の直感が、この瞳から目を逸らしてはならぬと言っていた。


「そなたが造血剤の苦さに動揺して魔力を暴走させ、薬杯や寝台を破壊したと聞いたものでな」


 俺、死ぬのかな──


 賢者が盆をトントンと指先で叩いたので、ようやく勇者は奈落の瞳から視線を逸らしてそちらへ目を向けた。黒い盆の上に薄い緑色の液体が入った小さなガラスの杯が二つ載っていた。


「故に、甘くなるよう調合し直した。これならば、幼児の如き舌と魔力制御能力をお持ちと見える勇者殿でも問題あるまい。安心して飲みたまえ」


 あれ、いい人?


 目を丸くして見上げれば、魔王だか冥王だかはフンとそんな勇者を鼻で笑って、顎を上げたまま視線だけで彼を見下ろした。すごく意地悪な感じだ。嫌われているのだろうかと少し項垂れながら杯を受け取って、今度は慎重に少量だけ口に含む。


「……え、甘い」

 口にした新しい薬は本当に甘かった。大量の蜂蜜を足した薬特有の……逆にまずいとしか言いようのない甘苦い味ではなく、果実を絞って作ったような爽やかな甘みだ。


「これ、本当に同じ薬なのか?」

「違う。そちらは軽い鎮静剤だ。過光環症候群かこうかんしょうこうぐん、俗に言う魔力の暴走は、精神的な要因によって魔力が鉄砲水の如く流れ制御不能になる発作だ。今回はごく軽い症状で済んだようだが、念の為飲んでおきなさい。副作用もほとんどない」

「……おう、わかった」


 本当はいまいち理解していなかったが、押し殺したような静かな口調だからか、思わずこくんと頷いてしまう。村には話を聞かせようと思ったらとにかく大声を出す人間しかいなかったが、こうやって亡霊みたいな気味の悪い話し方で人を黙らせる方法もあるのだな、と思った。なんというか風変わりだが、人を支配することを知っている喋り方だ。とりあえず従順に頷いて杯を空にし、もうひとつの方を手に取る。


「そちらは先程の造血剤と同じ成分だが、魔術で味を変えたことで効能が薄まっている。少し量が増えているのはそれ故だ」

「いや、そんなの全然気にならないよ。この味なら何杯だって飲みたいくらいだ」

 二杯目を一口で飲み干して言う。本当にびっくりするほど美味しい。できるなら毎朝飲みたい。

「魔法薬は生薬や薬草茶とは違う。二杯目には鼻血を吹くぞ」

「や、例えだって。でもありがとな、俺の為にこんな手間かけてくれて」

「全くだ。薬の苦さに驚いて泣きながら家具を壊すなどまるきり幼児ではないか、嘆かわしい」


 悪い意味でわざとらしさのない、心底呆れたような大きなため息をつかれる。しかし額に手を当てて首を振った拍子に見つけたらしい花だらけの水差しへ訝しげな視線を向けている賢者は、若干だが怖さが薄らいで見えた。嫌味と嘲笑が多分に含まれた言葉の数々には気後れするが、彼にとってあの怪力は脅威よりも未熟さの表れに感じられるのかと思うと、勇者はなんだか少し肩の荷が下りたような気になった。気が楽になると、ぐるぐると考え込んでいたことがぽろっと口をついて出る。


「なあ賢者……俺には本当に魔力があるのか? 魔力を上手く扱えるようになれば、もう誰にも怪我させずに済むのか?」

 こちらを向いた賢者はやはり背筋がぞくりとするような目をしていたが、とても努力して好意的に見れば、退屈そうな表情には先程より幾分か人間味が感じられるかもしれない。


「五歳程度の子供がよく口にする言葉だが、それはわざとか? まあ良い、そなたの過剰な筋力の発露は『内炎ないえん体質』と呼ばれるものだ。生まれながらにして火の祝福が強く、或いは後天的に祝福を得て、内炎魔法──俗に『身体強化』と呼ばれる魔法が無意識下で発現する体質をいう。そのため幼少期は力の加減がわからず物を壊したり家族に怪我を負わせたりするが、魔力の扱いを覚えれば大変有用な魔法で、息をするように力仕事や、まあそなたの場合は狩りや戦闘において大きな力を発揮する。勇者としては恵まれた才だ、折角持ち合わせたのだから有意義に使いなさい」


 長々と淀みなく語られる説明は難しかったが、勇者はそれをなんとか理解しようと懸命に聞いた。よく聞いて、そして目を丸くした。賢者の言葉を聞けば聞くほど、己の中のおぞましい怪力がただの体質になり、便利な魔法になり、そして恵まれた才能へと昇華してゆく。


 少しもぞもぞして座り直し、こちらを冷ややかに見下ろしていた男と視線を合わせた。不愉快そうに目を逸らされたが今は気にならない。ああ──このどこか痛いような眩しいような感覚をどう表せば良いだろう。持ってしまった以上は人の役に立つものにせねばと必死になっていたものが、初めから価値あるものとして受け入れられる──獲物をいたぶるのに飽きたような目をしている賢者にはきっとこの喜びが伝わっていないのだろうが、それでも勇者は彼の心に隠れた優しさを見たような気がした。


 はじめは意地悪そうな人だと思ったが、こんな風にものを教えてくれる人だ。本当はいい奴に違いない。うん、いい友達になれそうだ。そう考えて心が弾み、勇者はぱあっと雲が晴れるような笑顔を浮かべた。

「なあ……魔力の扱い、教えてくれないか」

 少し馴れ馴れしいかと思ったが、思い切って言ってみる。不思議なことに、なぜか彼に対して恐れられ逃げられるかもしれないという不安は一切感じなかった。ずっと周囲の顔色を窺って生きてきた勇者にとって、それはほとんど初めてにも等しい経験だ。


 勇者の言葉を聞いた賢者が口を開く。

「……魔力の扱いを教授するには、知識より気質や体質の相性が重要となる。つまり、基本的には頭ではなく体で覚えるものだ。学びたいのならば仲間達みなに教えを請い、複数の方法を試して自分に合うものを探しなさい。彼らの中にそなたへ教えることを厭う者はいないだろう──私を除いては」

 確かに勇者が一番苦手な、恐れを隠してさりげなく逃げるような真似はされなかったが、真正面から堂々と拒絶された。きっと根は優しい人に違いないと一度は思ったが、魔獣を見下ろすように勇者を見る黒い瞳はやはり凍えるほど冷たく、しかしただ無機質に冷え込んでいるだけで他には何の感情も浮かんでいない。勇者の確信は早くも大きく揺らぎ始めていた。


 とはいえ勇者は、なぜかそんな賢者を妙に気に入ってしまったのだった。嫌味を言われるとがっくりするが、いつものように顔色を窺ってびくびくと、なんとか相手の望む自分にならねばという衝動にも駆られない。理由はわからないが、どこか気持ちがさっぱりしているというか、前向きになる努力をせずとも楽観的に「そのうち仲良くなれるだろう」と考えられて、それが新鮮で心地良い。


 そんな彼ににあれこれと、魔力や何かについて質問を投げかけすぎたのかもしれない。賢者は次第にとてつもなく面倒そうな顔になると、勇者に立ち上がって少し動いてみるよう言って、ひとつ頷いて塔の中の散策へ連れ出してくれた。慈悲の欠片もなさそうな顔をしているが、眠れ起き上がるな薬を飲めと世話焼きな神官とは違って、意外と融通の利く性格をしているようだ。正直言って転移のめまいと傷が治った時点で、怪力……いや内炎体質も手伝ってかなり元気だったので、寝台の中でただじっとしているのに退屈していた勇者は喜んで魔王をお供に冒険へと繰り出した。治療の後に着替えを借りたので、歩き始めると長い灰色のローブの裾がばさばさして楽しい。魔術師になった気分だ。しばらく後ろを振り返って揺れる裾を見ていたが、先を歩いている賢者が開けた扉の向こうを見て思わず飛び上がった。


「何だ、ここ……!」

「勇者よ、走るな」


 寝室から本棚だらけの部屋を通って廊下へと出た勇者は、息を呑んでぐるりと周囲を見渡し、通路の向こうの手摺りへと駆け寄って視線を上から下へ忙しなく動かした。


 そこはまさしく塔と呼ばれる建物だった。美しい灰色の石で作られた広い円筒型の吹き抜けには優美な鉄の螺旋階段が取り付けられていて、それが底の見えないほど下へ下へと深く続いている。


 加えて勇者を興奮させたのは、廊下の壁に隙間なく設置された本棚だった。ところどころに扉がある以外、壁面は上から下まで見渡す限り本で埋め尽くされていて、まるで勇者が二番目に好きな本『魔術師フォートレルと塔の秘密』の主人公が住んでいる図書館のようだ。なんて素晴らしい。あんな場所を一度でいいから訪れてみたいと思っていたのだ。


 ああ、今すぐこの塔がどれだけ高いのか確かめたいし、全部の壁が本で埋まっているのか調べたいし、あちらこちらの扉を開けてみたい。勇者はそう考えてそわそわと賢者に向き直った。


「なあ賢者……すぐ戻ってくるから、ちょっと一番下まで駆け下りてみていいか?」

「やめなさい。寝台へ連れ戻されたいか」


 瞬時に叱られたが、気分は少しも下がらない。既に視線は賢者の手元に釘付けだ。


 塔には小さな窓があるもののその数は少なく、薄暗い塔を歩くために賢者はその手にランタンを下げていた。しかもそのランタンは油に火を灯すものではなく、何だかわからない光る石が中に入っていて、勇者はわくわくしてそれをじっと見つめた。


 すると、とても馬鹿にした感じでため息をついた賢者がとても馬鹿にした感じで勇者を見下ろすと、少し手を持ち上げて勇者にランタンの持ち手を差し出した。信じられない、もしかして貸してくれるのか?


「……いいのか?」

「この程度のもので楽しめるのならば」

「や、やった。ありがとう」


 おそるおそる受け取って、青白い明かりを少しも反射していない真っ黒な瞳を見上げる。勇者は背丈が伸びなくなって以来、自分より背の高い人間に出会うのも初めてだった。勿論この建物も光る石も最高に面白かったが、並んで歩くこの雰囲気はなんだか怖すぎる兄ができたようで、それも勇者の心を浮き立たせていた。


 そして眉間に皺を寄せた賢者が勇者を見つめ返した時、あっと思った。こんなにそっけなくされているのに、彼に「嫌われたくない」という、勇者にとっては血の滲むような焦燥を感じない理由がわかったのだ。


 目だ。


 いや、確かに賢者の目は暗闇みたいな変な色だし、突き放すように冷ややかなのだが、「あの目」とは全然違う。心の底を拒絶で満たしたそれとは違い、彼の視線はどこか根底に愛があるというか、ただひたすら面倒がっているだけで、勇者の存在そのものを否定するような色はないのだ。だからといって他の仲間達のように好意的な感じもしないのだが、しかしそれがわかるとスッキリして、余計にこの探検が楽しくなってきた。


「内部も良いが、まずは外を見てみたらどうかね?」

 さあどこから回ろうかと勇者がきょろきょろ視線を彷徨わせていると、少し後悔しているような声になってきた賢者が億劫そうに顎で窓の方をさした。

「外……」

 勇者は彼の頭よりも少し大きいくらいの窓に近寄ったが、嵌め殺しのガラス窓は表面がでこぼことしていて向こうの景色など見えなかった。


「おい、この窓──」

 何も見えないじゃないか、と言って振り返ろうとしたその時、頭の後ろから黒い袖の腕がにゅっと伸びて目の前の窓に手をついた。びっくりして、際限なくはしゃいでいた気持ちが少し落ち着く。何をするつもりだろうと黙って見ていると、骨ばった長い指に少しだけ力が込められた。すると淡い琥珀色の美しいガラス窓に、ふっと奇妙な形の影が落ちる。いや、違う。これは……影で描いたような、暗い灰色の魔法陣だ。


「シラ=ルシナ」


 低い声が呪文を唱えると、魔法陣の円の内側がストンと明かりを落としたように暗くなり、次の瞬間にはガラスがなくなったように外側の景色が透けて見えていた。


「うわっ……け、賢者も魔法が使えたんだな」

 ふつふつと高まってきた興奮に目を見開きながら言うと、こちらを見下ろした賢者がぎゅっと眉根を寄せて顔をしかめた。ものすごく怖くて一瞬で冷静になった。


「魔法ではなく魔術だ」

「……どう違うんだ?」

「魔法陣を用いるものが魔術、用いないものが魔法」

「へえ……」


 その話は勇者にとってかなり興味深かったが、しかしちらりと窓の外に見えた景色があまりにも想像と違っていたので、最後の返事は上の空になってしまった。吸い寄せられるように体ごと窓に向き直り、窓の淵にそっと指先で触れて、光る絵画のようなそれに目を奪われる。


 雲に届くのではないかと思えるほど塔は高く、広大な森が眼下に広がっていた。山もない、崖もない、谷もない、ただ平坦で広い広い平穏な森だ。そして金色の夕日がその梢の群れを煌々と照らしていて、森全体がまるで炎が燃え立つように見える。勇者にとって樹木とはいつも見上げるもので、それを上から、それも鳥のように遥か高みから見下ろしたのは初めてだった。


 空って、こんなに広いんだな──


 目を凝らすと、遠くに白い城のような建物が見えた。城にはすこぶる優雅な形の小さな塔が並び立ち、それが森の景色と調和してまるで童話の世界に連れてこられたような心持ちがする。


「神殿だ。正式には、スティラ=アネス根源王都中央大神殿。右から二本目の塔が水の神殿であり、また神官の住まいでもある」

「神官は、あの綺麗な神殿の人なのか」

「然り。そしてここは王都ルエトの郊外、賢者の森と呼ばれる森林地帯のほぼ中央に位置している。ここから王宮は見えぬが、馬ならばさほど遠くはない場所だ」

「王都……そうか、そんなところまで来たのか、俺」


 怖いような不思議なような……言葉にし難い感慨に浸った。とその時、ふいに背後から「あ……勇者だ」という静かな囁き声が聞こえてきて勇者は飛び上がった。


「うわっ!」


 幼児のようだと散々賢者には詰られたが、腐っても狩人だ。背後からの足音にも気配にも敏感なはずなのに一切分からなかった。残像ができる勢いで振り返ると、そこにはいつの間にかキラキラと光の粉を纏わりつかせたエルフが立っていた。


「なんだ、お前か……。いや、魔法使い……お前いま、どこから現れた?」

「ん……? そのへん」


 ぼんやりと指差した先には本棚しかなくて勇者は戦慄したが、魔法使いはそんなこちらの気も知らず、賢者に向かって耳をぴくりとさせて挨拶……挨拶?すると、丸い穴が空いたようになった窓からしげしげと外を眺めた。


「あ、すずめ」

「違う、あれはトビだ──ああ、丁度良い。魔法使い、話があるので少し付き合いなさい」


 賢者が変な色の蛙でも見るような目で魔法使いを見下ろすと、不可思議な妖精はそれを見上げてどことなく嬉しそうに頷いた。

「僕も、賢者に……これを渡したかったよ。それに、星の話もしたい」

 魔法使いはそう言うと半ば引きずっていた蔓草を持ち上げ、段々動きが大きくなっている気がするそれをぎゅっと胸の前で握る。


 それ、賢者への土産だったのか──?


 勇者は心の中でそう尋ねると、そろりと視線を動かしておそるおそる賢者の反応を窺った。





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