六 水底の森 後編



 人の形をしていて半透明だが、幽霊と見間違えることはなかった。その気配が全く、あまりにも、人間とは異なっていたからだ。


 ひらひらしたドレスを纏っているようにも、薄くて柔らかなひれを持っているようにも見える彼女──いや、男とも女ともつかないその存在は、ただじっと、勇者と魔法使いの方を見つめていた。肌も服も青白い光でできているような、実体が有るのか無いのかわからない半透明で、瞳だけが吸い込まれるような深い青色をしている。ぞくりと恐怖を感じるような無表情は、出会ったばかりの頃の魔法使いを思い出させた。


──何だ、あれ?


 そう傍らのエルフに視線を向けたが、彼はちょっと人見知りっぽく耳を下げると「……知らない子だよ」と囁いた。


──いや、あいつ本人と知り合いかどうかじゃなくて、何の生き物なのか知りたいんだが


 そう視線を送ったが、その時既に魔法使いはこちらを見ていなかった。勇者の背中に隠れてそろりと目だけ覗かせ、またちょっと隠れては覗き、気になるけれど話しかけるのが恥ずかしい子供のようなことを始めている。代わりに勇者が話しかけたかったが、しかし喋れば溺れるので、仕方なく静かに半透明のそいつを見つめ返した。


 青白いそれはしばらく勇者達をじいっと見つめ、そしてふっと踵を返して木立の奥に立ち去った。追いかけようか一瞬迷ったが、そろそろ息が限界なので、とりあえず水面まで戻る。


「今の、何の生き物だ?」

 ぷはっと息を吐き出し片手で顔を拭いながら尋ねると、魔法使いは少し首を傾げた後に「水の精霊だと思う」と言った。

「精霊……」

「うん……賢者に少し似ているから、恥ずかしくなってしまったよ」

「賢者に?」


 そう言われてみれば無機質な雰囲気や、やたら深い色をした瞳の感じが近いかもしれない。やはり、あいつは精霊混じりか何かなのだろうか。

「お前、ああいうのが好みなのか」

「違うよ。賢者に似ているから、似ているなと思って見てしまうだけ。ルーフルーが先」

「ふうん」


 精霊に出会うなんて不思議な体験をしたはずなのに、いつの間に俺はこいつの惚気話を聞いているのだろうか。勇者はそう首を捻りながらエルフに戻った魔法使いを背中にしがみつかせ、水から顔を出したまま平泳ぎで岸辺まで戻った。舟のように上に乗っているのが楽しいらしく、魔法使いがぱあっと星を撒き散らして、凄まじく背中がぞわぞわした。


 ずぶ濡れのまま天幕に戻ると、人外疑惑の再び浮上した賢者が、わりと大きめに振りかぶって黒い魔石を投げつけてきた。投げ渡すには若干速いような気がするそれを受け止めると低い声で「天幕を濡らすな。この緯度で秋の早朝の湖に入るなど……」と言われたので、ありがたく魔力をもらって魔法陣を描き、自分と魔法使いの服を乾かす。


「ありがとな。でも服なら魔法使いが乾かせるのに、なんで俺?」

「その妖精をあまり冷やすな」

「え、お前……それって」


 ちょっとそわそわして尋ねたが無視された。寝起きの賢者は機嫌が悪いのだ。まだ髪が少し乱れているのを魔法使いがじいっと見つめ、そっと近寄って寝癖の部分を丁寧に指で梳いた。賢者はそれでどうするでもなく、不機嫌そうに黙りこくってされるがままになっている。


「はあ……僕、もう見てらんないよ」

 どう見てもじっと見つめながら、吟遊詩人が「甘ったるいんだから、もう」と満足のため息をついた。しかし勇者はそんなことよりも彼が自分の尻の下に翅を巻き込んで座っているのが気が気でなく、あわあわと少年の脇に手を入れて高く持ち上げた。


「うわっ、何?」

「翅を踏んでたぞ……割れてないか?」

「大丈夫だよ……夜も仰向けで寝てることあるし、魔力込めないと案外ふにゃふにゃだから、これ」


 そう言われてそっと触ってみれば、ガラスのように艶やかなのになめした革のように軟らかい、不思議な感触がした。

「へえ……ほんとだ」


「ねえちょっと、その指先で挟んで撫でるみたいな触り方やめてよ、気持ち悪い」

 とてつもなく嫌そうなじっとりした声で言われたので、驚いて指を引っ込める。

「悪い、くすぐったかったか? 感覚ないのかと思ってた」

「ないけどさ……だからって賢者に髪の毛で同じことされたら嫌でしょ?」

「ああ……確かにちょっと不気味だな」

「ほらあ」


「黙れ……」

 賢者の低い低い声が聞こえたので、リュートを抱えた吟遊詩人と先を競うように天幕から逃げ出した。そのまま湖で少し魚を獲って、適当な枝に刺すと焚き火の前に突き立てる。火に当たりながら焼けるのを待っている間、吟遊詩人が手慰みにリュートを爪弾きながら言った。

「こういう、棒に刺さって焚火で炙られてる魚ってさ、旅に出る前は食べるのが夢だったんだよね」


「魚、食ったことなかったのか?」

 首を捻ると、妖精が金の巻き毛を揺らして、違う違うと楽しそうに笑う。

「月の塔には最先端の魔導調理器具が揃ってるからさ、箱に入れて蓋しとけば焼ける、みたいなのしか食べたことなかったんだよ。あれはあれで便利なんだけど、なんでだろう、こっちの方が美味しく感じるなあ」


「仲間と釣って仲間と食うからだろ」

 何気なく言うと、彼は少しだけ目を丸くして「そうだね」と微笑んだ。翅がふわっと広がったのを眺めつつ、村に住んでいた頃を思い出しながら口を開く。

「狩りってのは何日もかけて森の奥まで行くこともあってさ……俺は昔からこうやって夜営して飯を作ってたが、今思うとかなり味気なかった。魔法使いの料理は美味いけど、あの味をひとりで作ってひとりで食ってたら、涙が出るほど美味いとは思わなかったと思う」

「うん」


 焼けてきた魚から滴った油が炎に触れて、パチッと金色の火の粉が散った。そろそろ食べ頃なので少しだけ火から遠い場所に枝を刺し直し、散らばっている小石をどかして、匂いに起き出してきた仲間達の座る場所を作る。その辺の枝からいだ名前も知らない果物を積み上げておくと、どうやらあれから二度寝したのか、半分以上眠っているような顔の魔法使いが欠伸をしながらその前に座った。

「ほら魔法使い、起きろ」

「……子馬が、いるね」

 ぼうっとした顔で妖精がそう言うので、まだ夢を見ているのかと視線を追って翼馬の方を振り返る。


「あれ、ほんとだ」

「おやまあ……可愛らしい」

 勇者が目を丸くし、神官が少し腰を浮かせながら目を輝かせた。昨日から天幕の周りでくつろいでいる翼馬とは別に、翼のある白い子馬が二頭増えていた。尾を高く上げ、まだ飛べそうにない小さな翼をピンと伸ばして、はしゃいだ様子で灰色の馬にじゃれついている。


「群れが近いのだろう」

 賢者が興味深そうに観察しながら小声で言った。もうすっかり目が覚めたらしく、機嫌は良さそうだ。彼の言葉を聞いたフェアリが目隠しを取って周囲を見回し、小さく「あっ」と言う。どうやら翼馬という生き物も、馬の仲間らしく群れて生活するらしい。


 秋も深まり、真っ赤になった森の中で遊ぶ翼馬達は、一幅の絵画のように美しかった。火の女神の祝福なのか、この森の紅葉は海沿いの森の秋とは比べ物にならないくらい鮮やかに赤い。去年の秋は少し青みがかった空気の中にはらはらと散る夕焼け色を楽しんでいたが、この森は、まるで全てが燃えているように赤かった。それこそ下草までもが目を焼くような朱に染まり、蔓草は金色に輝き、木の葉は艶のある真紅になって風に揺れている。


 少しずつ濃くなっているはずの淀みがあまり気にならないのも、この景色のおかげだった。焚き火を眺めているようにあたたかいこの色彩が、暗く冷たい淀みの黒を上回るほどに美しいからこそ、北に近いこの地でも勇者達は普通に笑っていられるのだ。


 朝食の後に少しだけ小さな翼馬の頭を撫でて、荷物をまとめると谷の方へ向かった。この辺りは人間の住まない土地なので、地図は百年以上前のものしか存在していないそうだが、少なくともその時代には、ドワーフの住む土地まで繋がる大きな吊り橋があったらしい。橋が使えればかなり時間を短縮できるので、試しに見に行ってみようということになったのだ。


 谷が近づくにつれて、川の流れる音が聞こえてくる。どうやら結構な急流のようで、谷底に降りたとしても泳いで渡れそうな感じではない。賢者が指差す方に人工的な柱のようなものが見えたので、気になって待ち切れずに走って見に行った。


「これは……落ちるか持ちこたえるか、微妙だな」

 だが肝心の吊り橋は、百年とは言わないまでもかなり長い間放って置かれていたらしく、綱が擦り切れてかなり細くなっていた。とはいえ今にも切れそうという程でもなく、慎重に行けば大丈夫かもしれない。


「どうする? 試しに渡ってみるか?」

「そうですね……一人二人そうっと渡るくらいなら大丈夫そうにも見えますが、迷うところです」


 しかし、全然怖がっていなさそうな神官と顔を見合わせて迷っていると、賢者が小さく「……魔法使い?」と呟く声が聞こえた。見ると、谷川を覗き込んだ妖精が耳をべったり寝かせて、青い顔で震えている。


「……谷が怖いのですか、魔法使い?」

 神官が魔法使いの肩に触れて、そっと谷へ背を向けさせながら尋ねた。

「……大丈夫」

「いや、真っ青だよ魔法使い。無理もないよ、あんな怖い思いしたら……ほら、賢者にギュッてしてもらいな? 谷は避けて進めばいいから、大丈夫だよ」

 吟遊詩人が魔法使いの背を押して賢者に押しつけた。それを見下ろした賢者がそっとマントを広げて、コウモリの親子のように花の妖精を中に入れてやったが、魔法使いは少しも嬉しそうにすることなく目を閉じて震えるばかりだ。


「……ううん、行く」

 しかし顔面蒼白になった妖精は、首を小さく振ると勇気を出して谷の方へ振り返った。


「賢者が助けてくれたのに、心に恐れを残しているなんていけないことだ。僕はあの氷河の向こうで賢者にたくさん抱っこしてもらったし、ふわふわの布団で一緒に眠ったもの。それを恐ろしい思い出のように記憶するのは、絶対嫌だ」

「……口を閉じなさい、魔法使い」

 仲間達が目をぱちぱちとさせて見つめるなか、恐ろしいくらい無表情の賢者が静かに言った。そのまま深い深い瞳で勇者達の方を見回すので、皆さっと目を逸らして聞かなかったことにする。


「ええと……何にせよ、勇気が出たなら挑戦するべきだな! 全員で行くと危なそうだから、俺が往復して一人ずつ渡す。まずは吟遊詩人からだ」

「え、勇者……本当に谷を渡るつもりなの? 魔法使いは」

「一人の男……女?が、自ら恐怖を乗り越えようと言ったんだ。誰にも止める権利はないだろ?」

「いや、この中でバンデッラーなのは君だけだから、君にしか当て嵌まらないと思うなあ……」

「行くぞ」


 渋る少年の手を引いて、足元の板が腐っていないか確かめながら慎重に橋を渡り始めた。風はそれほどなく、橋自体はほとんど揺れていない。板は何箇所か怪しい場所があるものの、綱に捕まっていればさほど危なくないだろうという程度だ。そろそろと真ん中あたりまで進み、ぴょんと飛び上がって全体を軽く揺すってみると──吟遊詩人が「やめてよ勇者!」と甲高い声で叫んだ──満足してひとつ頷く。


「うん、行けそうだな──いや違う! ダメか!」


 遠くでぶちりと音がして、向こう岸の柱に近い辺りが一本切れた。吟遊詩人が悲鳴を上げた瞬間に視界がぐるりと逆さまになり、橋は綱が切れた反動で、しがみつく勇者を振り落とすように激しく揺れる。


「あーあ、切れちまった」

 漸く揺れが収まった橋に片手でぶら下がってぼやくと、勇者の首に死に物狂いで抱きついた吟遊詩人が「し、し、死ぬかと思った……」とひゅうひゅう掠れた声で言った。


「いや、飛べよ……何のためにお前を最初にしたと思ってるんだ」

「飛ぶ? あ……そっか」

 怯え切っていたフェアリがきょとんと目を丸くして、美しい遊色の翅を広げて飛び立った。呆れてそれを眺めていると、仲間達の方から黒いミミズクが一羽飛んできて、勇者の目の前の綱にとまると嘴を開く。


「そのまま綱を伝って向こう岸へ渡りなさい、勇者。転移の受け入れ陣は覚えているな?」

 少し高めに聞こえる賢者の声がそう言った。伝令鳥越しだと父の声にかなり近く聞こえて、少しむずむずする。


「あ、うん。わかった」

 返事をすると、黒ミミズクのウールは小さくホーと鳴いてふっとその場で消えた。


 それを見届けた勇者はよしとひとつ頷くと、綱が一本切れたせいで横倒しになり、ほとんど垂直になっている橋桁はしげたに足を掛けて、全身に魔力を巡らせる。


「え、なにするの勇者──ええっ!?」

 綱から手を離して、壁のようになった橋桁の上を一気に向こう岸まで駆け抜けた。すると飛んで追いかけてきた吟遊詩人が「嘘でしょ勇者! 信じらんない!」と騒ぐ。


「いや、お前もできるだろ」

「できる……かもしれないけど、そういう問題じゃないよ! そこまで切羽詰まった状況でもないんだから、気軽に危ないことしないで!」

「危なくない危なくない」

「うそつけ!」

「あー、よしよし。怖かったな? ほら、向こうまで飛んで賢者に魔石もらってこい」

「……勇者のばか!」


 不貞腐れた妖精がひらひら飛んでゆくのを笑いながら見送ると、勇者はしゃがみこんで地面に右の手のひらを触れさせた。賢者が作ったものらしい複雑な紋様をじっと思い浮かべると、傷跡からするすると魔力の線が走って、地面に美しい転移陣が浮かび上がった。




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