七 流星雨



 少し待っていると、ゆらっと空気が揺れてハイロとルラが姿を現した。ルラが早速走っていってアルザに首を絡めるように擦り寄り、アルザの方ももやのようなルラの鬣を整えてやりながら大事そうに小柄な恋人を見つめる。それを目で追ったハイロが集団で昼寝している花鹿の群れを見つけて、呆然と金色の目を見張った。


 あ、可愛い……。


 勇者は思わず目を閉じてうっとりため息をついた。また彼女に会えた幸福を充分に堪能してから顔を上げると、いつの間にかこちらを見ていたハイロがふいっと目をそらして賢者の方を向く。


「アルザをここに置いていかれる、とのことでしたね」

「ああ」

 ハイロは少し迷うような目をしながらべたべたひっついている黒い馬達を見て、そしてふっと微笑むと頷いた。

「そうですね……黒霊馬は強い日差しに弱いですから、木陰のない砂漠へは連れて行けないと私も考えていました。故にいずれは神殿に帰す予定だったのですが……アルザに預ける方が、安心ですね」


 それを聞いていたらしいレタがアルザ達に向かって何か耳の動きと嘶きで合図した。するといつも大人しいアルザが珍しく少し跳ねるような動きを見せて、落ち着きなく尻尾を振りながらルラの額にそうっと灰色に光る短い角を擦り寄せた。レタとミュウがいちゃつく時はガツンと音がするくらい角をぶつけ合うのだが、黒霊馬のルラには角がないのでそうなったらしい。ルラが顔を上げてアルザの角を少し舐めると、なぜかきゃっとなって恥ずかしそうに尻尾を激しく振る。レタはともかく、馬達の間でもかなり高度に会話が成立しているように見えるが、一体どのくらい状況を理解しているのだろうか。


 花鹿の縄張りであるだろうこの場所にレタのような強い生き物を置いてゆくことには懸念があったが、見ている感じだと特に問題はなさそうだった。いや、レタの方は確かに体の大きな花鹿の長を見ながら「どちらが上か勝負だ」みたいな顔をしていたのだが、肝心の花鹿の方が優しい声でキュッと鳴いてレタの鼻をぺろぺろ舐めたので、気性の荒い一角獣もなんだかどうでも良くなったらしく、呆れ顔でふわふわした銀緑の群れを見渡してミュウの世話を焼く作業に戻っていった。


 平和な丘に苦笑しながら、天幕を張る。まだ夕暮れ時にはもう少しあったが、さすがに馬達ともう一晩くらいは共に過ごしたいし、それに今夜は賢者曰く流星雨の日だ。せっかく見晴らしの良い丘に出たのだから、このままここで観測したい。


「なあ、ハイロも一緒に流れ星見るだろ?」

「流れ星……もしかして、りゅう座流星群ですか? 今夜でしたっけ」

「うん。ええと……何時だったかな」

「深夜黒の一時頃、北の空だ」

「そうそう。賢者の解説付きだぞ」

「星の賢者様の……」


 叡智の祝福豊かな異端審問官は、おそらく世界で一番著名な天文学者との天体観測に心惹かれたらしい。それにちょっとだけ嫉妬心が湧いたが、賢者の星の話が面白いのは事実だし、それでハイロが頷いてくれたのだからまあ良しとした。


「──うん? どうした?」

「……いえ、何でも」


 こちらを見ていたらしいハイロと目が合ったので尋ねると、彼女は首を振りながら礼儀正しく目を伏せた。この表情は初めて見たが、やっぱり可愛い。久しぶりに会ったから、どうしても胸が高鳴って浮かれてしまう。


 ふと見ると、賢者が自分の懐中時計を小さな木の棒でつんつんとつついて、魔法陣の細工を施していた。彼が街の中、特に朝食の時間が決まっている宿などで時々使っている技法だが、特定の時間になると時計の蓋に嵌め込まれた魔石から魔法陣が広がり、伝令鳥とそっくりなミミズクが現れて優しく頰をつついて起こしてくれるのだ。今夜は森なのでいつも通り交代で不寝番を務めるが、とはいえずっと時計とにらめっこするのも面倒だし、特に獣の気配もない静かな夜には見張り中にうとうとしてしまうこともある。今夜のように流星雨の時間を待ちながら仮眠を取るには、確かに最適だ。


 因みに賢者が勇者に作ってくれた懐中時計で同じことをするやり方も冬の間に教えてもらったのだが、一度わくわくしなが夜明けに合わせて起こしてもらったところ、現れたホボロボーロが激しく勇者の鼻をついばんですごく痛かったので、それ以来使っていない。


 夕飯の獲物を狩って、ハイロが一番気に入っている野ウサギと香草のスープで夕食を済ませ、流星雨を眺めながら齧る干し肉や干しぶどうのおやつを準備すると、天幕に入って仮眠を取った。わくわくして眠れそうもなかったので最初の見張りを申し出た勇者だけが焚き火の前に残り、魔法使いに紡いでもらった糸を編んでハイロにやる装飾品を作りながら時間を過ごした。


 細い腕輪を半分ほど編んだところでホーと小さな声が聞こえ、天幕の中に魔法の明かりがついた。立ち上がってハイロの方の天幕を軽くノックすると、既に起きていたらしく小さく返事が聞こえてくる。丘の一番視界が開けた場所に集まって、マントの上から毛布を被ると焚き火を消した。


「はぁ……あったかい」

 勇者のマントの中にもぞもぞ入ってきた吟遊詩人が、幸せそうなため息をついた。


「ハイロちゃんもおいでよ。勇者ね、火持ちだから体温が高くてすごくあったかいの。反対側空いてるよ」

「……いえ、毛布で充分暖かいので遠慮しておきます」

「そう?」

 少年がとんでもない会話を始めたので勇者は緊張しておそるおそるハイロの反応を窺っていたが、彼女があっさりと誘いを断ったのでひどくがっかりした。


「……残念だったね」

 悪戯妖精がこっそり囁きかけてくる。「お前なあ……」と言いながら少し頰をつねると、きゃっきゃとはしゃぎながら身をよじって逃げた。脇のあたりでもぞもぞされてくすぐったい。もう十八歳だと本人は言っていたが、やはりどう見ても十二、三歳で、とても成人しているようには見えない。


 戯れつつも少しずつ言葉少なになりながら、流れる星を探して皆でじっと空を見上げた。真夜中を少し過ぎたくらいの森は真っ暗で、明かりは頭上の満天の星と花の妖精が纏う星、銀の花、吟遊詩人の緑の瞳、よく見れば幽かに光っている花鹿の群れ──


 なんか俺の仲間、暗闇で光ってるやつ多いな……。


 ひとりそう考えて、ちょっとだけ笑うと空に意識を戻す。光る仲間は多いものの、そのどれもが淡い淡い光なので星を見る邪魔にはならない。


 雪が消えたばかりのまだ冷える春の夜は、鳴く虫もまだほとんどいない。静けさに包まれたなか美しい夜空に目を凝らして、隣に座ったハイロの気配をそわそわと気にするのを忘れた頃──ひとつ、流れた。


「あっ……」

 勇者と吟遊詩人が、同時に呟いた。小さく漏らしたその声すらも無粋な気がして、ハッと口をつぐむと他にも流れていないかよくよく探す。


 最初のひとつは開幕の挨拶だったのか、それから青みがかった銀色に輝く宝石のような星の光が雨のように降り注ぎ始めた。キラキラとかシャラシャラとか、辺りにそういう綺麗な音が響いていないのが不思議なくらいだ。この世のものとは思えない美しい光景に、息を止めて見入る。


 音もなくふわっと光りながら現れ、尾を引きながら流れ、静かに燃え尽きて消えてゆく。賢者は記録を取りながら星座の話や流星群の話をするのかと思っていたが、彼は一言も喋らず、観測の道具を全て放り出して、灰色になった瞳に星の光を映して一心に見上げていた。


 ひとつ星が流れるたび息を呑むように薄く唇を開いて見惚れ、そして少し俯いて袖で目元を拭い、そしてまた視線を空へ向ける。魔法使いがその横顔をじっと見つめ、なんだか今まで見た彼の表情の中で一番妖精らしい──青いカナリヤを食べてしまった猫のような、少し残忍に見えるくらい満足げな顔で微笑んでいた。


 これはもう、あれだな。賢者は逃げられないな……。


 優しいルーウェンは少女のように拙くて純粋な恋をしているものだとばかり思っていたが、やはり彼は人間と根本的に違う生き物らしい。妖精独特の、人間には理解し難い気紛れでもって星の賢者に価値を見出し、そして魔法にかけて森の奥へ連れ去ってしまうような……そういう、いかにも物語に描かれるエルフみたいな一面も持ち合わせているのだと感じた。


 ふと、背後に気配を感じて振り返る。驚いたことに、いつもミュウにべったりなレタがそっと勇者の隣へ座るところだった。何をするでもなくただ寄り添って、ちらりと星空を見上げるとじっと紅色の瞳で勇者を見つめた。


「……迎えに来るからな。ここから北の果てまで行って帰って……二年くらいかな。ちゃんと迎えに来るから、一緒に帰ろうな」


 小さな声で、彼に言い聞かせるというより自分を励ますようにそう言った。レタは少しも寂しくなさそうにフンと鼻を鳴らして、そして勇者の髪を優しく食んだ。初めて彼にそうされて、嬉しさと寂しさで思わず涙が溢れる。首を抱きしめて頬擦りしても、彼は嫌がらなかった。


「レタ、レタ……え、レタ?」


 しかし少しもしないうちにレタは唐突に立ち上がると、めそめそ縋っている勇者の腕を面倒そうに振り解き、「もういいだろ?」みたいな顔で尻尾を振って軽快な足取りでミュウを構いに戻っていった。


「お前……もうちょっとこう、なんかさあ」


 くすっと笑い声が聞こえて視線を向けると、ハイロが可笑しそうに肩を揺らして笑っていた。彼女の目の前で泣いてしまったのが恥ずかしくて慌てて袖で目をごしごしこすると、息だけの小さな笑い声が少しだけ大きくなる。


「更に赤くなりますよ、シダル」

 淡々と、でも優しい声が言った。

「貴方が友と別れる度に泣いていらっしゃるのは、ヴェルトルートにいた頃から知っています。今更恥ずかしがらずとも」

「なっ、えっ……嘘だろ」


 格好悪い姿を知られていたことに動揺して、勇者はふらふらと後ろの地面に手をついた。吟遊詩人が耐え切れないように吹き出して笑い出し、それを見たハイロもつられたように口の端を上げて微笑む。人によっては笑っていることに気づかないくらいの微かな笑みだが、星の精霊みたいに上品で綺麗な笑顔だ。それを見てしまうともう弱ってもいられなくて、複雑な気持ちで勇者も笑う。


 後味はちょっぴり情けなかったが、馬達と過ごす最後の夜は、そんな風に皆が幸せそうにしているとびきり美しい夜になった。





「じゃあな、またな……もう行くけど、迎えに来るからな」

 涙で掠れた声で勇者が言う。レタは「昨日構ってやったろ? まだやるのかよ、やめろよ」みたいな顔をしていたが、ちょっと強引に抱きしめた。ガブリと肩を咬まれた。彼が全く別れの時を憂いていないようなのは安心だが、行かないでとクルムにマントを咥えられている神官もちょっと羨ましいなと思う。


 勇者を含めた仲間達はハイロと賢者以外、それこそ馬が呆れるくらいに皆泣きじゃくっていたが、特に悲しい時にちっとも涙を我慢しない魔法使いの泣き方がひどかった。いや、声を出さずにただぽろぽろと涙を流しているだけなのだが、その量があんまり多いからか、さっきからルシュにずっと涙の跡を舐められている。花の蜜のように甘い香りがする唾液で顔じゅうベトベトになっているのを見て、潔癖症の賢者が少し顔を青くした。


 そんな賢者は、鹿の群れにまだちょっと人見知りしているアルザの鬣を梳きながら「番を得たならば、少々私と離れている期間があったところで寂しくなかろう。ルラを守ってやりなさい」と囁いている。彼がそんな風な言い方をするとは思っていなかったので少し驚いていると、案の定魔法使いが泣きながらもじもじと恥ずかしそうにそれを見ていた。きっと自分も番として賢者に守られたいとか、そういうことを考えているのだろう。


 振り返り振り返り歩き始めると、魔法使いが神官に顔を浄化されながら「ルシュがいないと……眠れないよ」と悲しげに囁いた。それを聞いて自分も寂しさがぶり返してしまった勇者は声が詰まって何も言えなかったが、日に日に心を強くしている吟遊詩人がそんな妖精を優しい目で見つめて、そして少しニヤッとしながら泣き止んだばかりの掠れた声で言った。


「賢者を枕にすればいいじゃない。腕枕でさ、ぎゅってされながら寝なよ」


 魔法使いがびっくりした顔をして、耳を寝かせながら賢者をそっと見上げた。賢者が何も言わずに困った顔で見つめ返してくるのを目にした魔法使いは、みるみる顔も耳も真っ赤にして神官の後ろに隠れてしまう。


「それは、はずかしいよ……今日は、神官を枕にする」

「おや、私ですか? いいですよ、それであなたがよく眠れるのならばそうなさい」

 目の縁を赤く腫らしている神官が優しく頷くと、魔法使いが嬉しそうに耳を震わせて白いローブの肩に体当たりした。


 またもや妖精に逃げられた賢者の瞳が、ズンと三段階くらい深くなった。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る