十 猫ちゃん



 国境を目指して、速足で進み続けていた。旅に出てこの数カ月で、異端審問官に遭遇するのはもう何度目だろうか。どちらへ進んでも居場所を突き止めてくる追っ手の存在に、仲間達も疲弊し始めている。


 会う度に逃げようとしている印象があるハイロだが、彼女はあれで神殿でも一目置かれている凄腕の密偵らしい。レフルスがいなければ賢者に指名されてもおかしくない叡智の祝福と独自の探索術で、地の果てまで転移しても彼女からは逃げられないと言わしめているそうだ。


 それでも賢者に言わせれば、撒くことは可能なようだ。ただし擬態と呼ばれる、ハイロが神官に姿を変えていたのと同じ魔術で姿を変え続け、その上から魔力の気配を隠す術を重ね、森へは入らずできるだけ人の多い場所を、相手の裏をかき続けながら渡り歩いてゆかねばならないという。そんな旅路ではエルフの魔法使いが弱ってしまうし、そうやってこそこそと振る舞い続ける生活はいつか心まで萎縮していってしまうような気がした。


 そこまでしなければ身を隠すことすらできない異端審問官は、やはり少し剣を覚えた狩人程度では太刀打ちできない相手なのだろうか。今まで無事に済んでいるからといって油断は禁物だと、勇者は改めて自分に言い聞かせた。


「──神殿では通常見習いである種神官しゅしんかんから葉神官ようしんかん枝神官ししんかん樹神官じゅしんかんと階位を上げてゆくのですが……魔力に優れ、身体能力が高く、そして異端審問という神殿の最も厳しい部分を背負うことができる強靭な精神を持った者だけが、その階段から外れて地へと潜む『根神官こんしんかん』として全く違う教育を受けるのです」


 夕暮れ前に運良く転がり込めた洞窟の壁に寄りかかって、神官が疲れ切った表情で微笑んだ。ついさっきまで暑さと疲労で酷い顔をしていたが、静かで涼しい場所に落ち着いて多少はましになってきている。


 彼の話を聞く限り「異端審問官」というのはどうも地位というより役職名のようだ。特別濃い色のローブを与えられた彼らは神殿で根神官の名で呼ばれ、ロサラスのような高位神官へ向けられるのとはまた違った畏怖と尊敬を得ているらしい。


「私も一度候補に上がったことがあるのですが、著しく身体能力が劣っているとしてすぐに外されましたね」

 神官がにこっとしてそんなことを言うので、勇者も苦笑いを返す。

「それはなんとなくわかるよ……さっきまたクルムから落ちてたが、怪我なかったか?」


 そろそろ寝込みそうな顔色の彼を見つめながら問うと、神官はなぜか自信ありげな顔で頷いた。

「ええ、それは大丈夫です。落馬なら任せてください、子供の時にたっぷり練習しましたから」

「練習って……落馬の練習か?」

「ええ。あんまり落ちるので、落ちても怪我をしないように受け身の訓練をしたんです」

「……そうか」


 頭をかきながら反応に困っていると、馬から荷物を下ろしていた賢者が首だけ振り返って言った。

「馬鹿なことを言っているが、そやつの先程の落馬の原因は疲労で一瞬意識を飛ばしたことだ」

「神官……限界が来る前に申告しろって言ったろ? 明日は休みにするぞ」

「す、すみません」

「──ええと、魔法使い? 何してるの?」


 勇者がすぐに無理をする神官に説教していると、吟遊詩人の訝しげな声が聞こえてきた。視線を巡らせると、エルフは洞窟の奥で岩陰の暗がりをじっと見つめて、耳をピンと──おい、獣の気配があるじゃないか!


「魔法使い……何かいるだろ、そこ」

 思わず大声を上げそうになったのをぐっと堪えて刺激しないよう小声で呼びかけると、魔法使いがさらりと髪を揺らしながら穏やかに振り返った。

「ねこが……いるよ」

「猫?」


 そんな小さな気配じゃないが──


 そう思いながら眉をひそめて妖精の後ろに歩み寄った勇者だったが、彼は岩の向こうをひょいと覗き込むなり顔を引きつらせた。


「いや、猫じゃないだろ、これ……」


 姿形は確かに猫に似ていたが、猫と呼ぶにはどうにも獰猛そうな目をした……大きさからしても獅子をほっそりと身軽にしたような大きな動物が寝転がっていた。


「ラガットは山猫の一種ではあるが……人を襲うこともある大型肉食獣だ」

 後ろをついてきていた賢者が押し殺した声で言う。と、それを聞いた魔法使いが不可解極まりない台詞を吐いた。

「それなら……お肉をあげようね」


 彼は片手にぶら下げていた鞄の中からついさっき勇者が狩った野ウサギの肉を取り出して、油紙を剥くと「お肉だよ、ねこ」と言いながらそっとそいつの前に置いた。警戒した様子でじっとこちらを見ていた獣が慎重に肉の匂いを嗅ぐ。そして安全を確認したのか、すごい勢いでガブリと食らいつくと頭を振って豪快に一口分を引き千切った。


「めちゃくちゃ凶暴じゃないか……」

 勇者がたじろいでいると、妖精がううむと考え込むように腕を組む。彼にしては珍しい仕草だが、もしかして賢者の真似だろうか。


「おひざに……乗るかな」

「いや、お前の膝よりだいぶでかいだろ……」


 何を馬鹿なことをと首を振るが、しかし妖精は諦めきれない様子で獣をじっと見た。

「でも……きっとやわらかいよ」

「いや、柔らかいって──おい神官、危ないからお前は向こうで休んでろ」

「ね、猫ちゃん……」

「え?」


 ふらふらとした足取りで様子を窺いにやってきた神官から、妙に可愛らしい単語が発された気がした。きょとんとして顔を向けると、彼はなぜか……ラガットというらしい肉食獣を見つめてわなわなと震えている。


「猫ちゃん……なんて大きくて可愛らしいのでしょう。ほら、私の膝へおいでなさい。ああ勇者、私もこの子におやつをあげたいです。ウサギをもう一羽出してくださいな」

「は?」


 頰が薄っすらと赤くなり、琥珀色の瞳が蜂蜜のようにとろけてしまっている。そうやってうっとりしたまま──肉を貪り食っている獣の前に手を出そうとしたので、勇者は慌ててトチ狂った神官を背後から羽交い締めにした。


「おい、ふざけるな。腕を食いちぎられたいのか」

「離してください……猫ちゃん、猫ちゃんを私も触りたい」


 私という言葉に嫌な予感がして、そしてその予感は当たってしまった。あっという間にウサギ一匹分の肉を食い尽くした獣の頭を、妖精が何の遠慮もなくよしよしと撫で回している。そしてなぜかゴロゴロ喉を鳴らし始めたそいつの隣に座って──あれはもしや、いつもルシュにしているように巨大な山猫を枕にしようとしているのではないだろうか。


「おい……! 危ないぞ!」


 しかしあわあわと息だけで叫んだ勇者の心配をよそに、魔法使いはすんなりと山猫の信頼を勝ち取ったらしかった。数分もしないうちにエルフの膝に頭を乗せた肉食獣が子猫のようにころころと転がって、彼の腹に何度も額をこすりつけている。神官が羨ましそうな顔でもじもじとしていたが、彼が一歩踏み出そうとする度に山猫がサッと頭を上げて僅かに牙を見せる。


「猫ちゃん……そんな」

「神官があんまり動物に好かれないって聞いた時は意外だったけど、今はっきりわかったよ。そんな態度でぐいぐい迫ってたならそりゃ逃げるよね」

 すっかり悲しげになってしまった神官を見て、吟遊詩人が呆れた顔で腰に手を当てた。


「で、ですが魔法使いだって」

「あの子は妖精さんだからいいの。神官は人間なんだから、もう少し弁えないと。あのね、野生の動物は自分達を可愛がりたいって思う人間の価値観を理解できないの。特に神官は魔力持ちなんだから、相手は狩られる可能性を考えてるってわかってあげなくちゃ」

「は、はい……」


 反省した様子の神官が動物との関わり方を考え直していると、仲間達を押し退けるようにやってきたクルムが首を伸ばしてぱくりと神官の髪を食んだ。意気消沈した相棒を慰めてやっているのかと思ったが、よく見るとどうやら焼きもちらしい。そんな獣じゃなく自分を可愛がれと言わんばかりに擦り寄る馬に、山猫に振られたばかりの青年がぱあっと顔を輝かせた。


「かわいい……可愛いです、クルム。ええ、あなたがいちばんですよ。ほら、こちらへいらっしゃい。鬣を梳いて差し上げましょうね」


 ブラシを取り出して馬と戯れ始めた男を勇者はだいぶ馬鹿馬鹿しいなと思って見ていたが、しかし幸せそうな彼をしばらく眺めているうちに、少し考え直しても良いような気分になってきた。


 敵と遭遇したばかりとはいえ、ここ数日は流石に焦りすぎだった。俺達はきっとこれくらい気を抜いている方が「らしい」し、無理を通して疲れきるよりも、こうやって心の余裕を守りながら進んだ方が最終的には良い方向に動くような気がする。


「なあ……こないださ、なんであいつの術が効かなかったんだろう」

 山猫は放っておいて大丈夫そうだとその場を離れ、先ほどまで神官が座っていたあたりに腰掛けながら口を開く。要領を得ない質問だったが、賢者にはそれで十分だったようだ。


「捻くれのない性格を持つものは基本的に魅了や催眠への抵抗値が低いが……ごく稀に、素直さ故に完全な耐性を持つ者がいる。つまり脇目を振らぬ真っ直ぐな価値観でもって、他の洗脳を完全に跳ね除ける類の人間だ」

「……うん」


 わかるようでわからない言葉におずおずと頷くと、賢者は軽く頷き返して先を続けた。

「おそらく……仲間である魔法使いの生み出す美しい幻惑と、敵が放つ狂信に染まった洗脳は、魔法の質としては似たものであっても、そなたにとっては全く違うものなのだ」

「お前のことを信頼してるから、お前の術にはかかるってことか」

 なるほどなと思ってそう言うと、賢者は居心地悪そうに顔をしかめて目を逸らした。


「……まあ、そういうことだ。単純なりに『揺るがぬ信念シダル』は持ち合わせているのではないか」

「そ、そうか」


 しかし珍しく賢者に褒められてじわじわ喜んでいると、吟遊詩人が口を挟んだ。

「でもハイロちゃんは? 賢者の塔に現れた時、彼女をすごく警戒してたよね? 魔吼まで放って」


 確かになと思って賢者へ首を傾げると、彼が急に呆れたような白い目になってこちらを見たので、勇者は湧きつつあった嬉しさをさっと引っ込めた。


「あくまでの可能性のひとつだが……そなたがここ最近骨抜きになっているところを見るに、声色や容姿に無意識下で好感を抱いたのではないか?」


 今までこの手の話題に全く加わらなかった賢者から急にそんなことを言われて、勇者は塔でのことを思い出しながら心臓の周りがむずむずとくすぐったいような居た堪れない気持ちになった。


「……そういえば、意外に優しい声だなと……思ったかも、しれない」

 先程の誇らしい気持ちから一転して、恥ずかしさと悔しさに身じろぎしながら言葉を絞り出す。吟遊詩人が「もじもじしても可愛くないよ、勇者」と白けた声で言った。だがふざけた空気になりかけたところに、賢者が真面目な声で忠告を落とす。


「今のところ彼女の術は、逃走のためにその場の行動を制限するものばかりだ。彼女が使命に深く関わるような洗脳を施そうとしていたならば、また状況は違っていたのやもしれぬ……しかし勇者、ハイロには気をつけなさい。この先はどんな術であっても、おそらく愛するほどに抵抗は難しくなる」


 そんなの、無理だろ──


 意識の表層だけで負けなければ良いのなら問題ないが、あの手の術はその程度の簡単な抵抗では防げない。今も彼女の名前を耳にするだけでこんなに胸が疼くのに、彼女の言葉を術と割り切って心の底から拒絶するなど、とてもできる気がしなかった。ああ、自分の心のことなのになぜこんなにもままならないのだろう。時間が経てば慣れてゆくのだろうか。


「『無理だ、もうこんなに大好きなのに』って思ったでしょ? 顔が惚気のろけてるよ」

「えっ? み、見るな!」


 そんなことを考えている時にそうやって吟遊詩人が意地悪を言うものだから、勇者はすっかり恥ずかしくなってしまってそっぽを向いた。腕を伸ばして自分の荷物を引き寄せると、鞄の底から村の狐面を引っ張り出して素早くかける。顔の半分が木の面で覆われると少し心が落ち着いた。


「ねえ……それ、もしかして勇者の村の人がみんな着けてるとかいうやつ? 狩人は邪魔だからなんとかって言ってなかった?」

「一応持ってはいるんだ。普段は腰に下げてるし、休みの日はこっちの時もある」

「ふうん……お面ってもっと顔全体を覆うやつかと思ってたけど、上半分なんだね。へえ、思ったよりかなり耳が長いなあ……模様は禍々しいけど、ちょっと可愛いかも」

「欲しけりゃ作ってやるぞ。これをやってもいいが……お前の方が頭が小さいからな」


 困惑したような仲間の声が少し興味を惹かれた感じになってきたので、勇者はこれ幸いと話題を変えにかかった。


「いらないけど……え、それ勇者が作ったの?」

「ああ。こういうの好きでさ」

「そういえば時々ナイフで木の枝削ったりしてるよね──あっ、賢者! ちょっと後ろ、後ろに『猫ちゃん』が」


 焦った声に賢者がさっと振り返ると、白地に細かな茶ブチ模様の巨大な山猫がのっそりと歩いてきていた。すぐ側まで迫っている凶暴な肉食獣に彼が体を固くすると、ラガットは何がしたいのか賢者の肩にズンと頭突きをして、少し匂いを嗅いでからゆったりと洞窟の外へ歩いて行った。向こうの壁際で座ろうとしていた神官が、賢者の顔を見て「おやまあ」と少し微笑んで口元に手を当てる。……一体どんな表情をしていたのだろうか。


「──ライの傷跡ですけどね」

 しかし神官が具合が悪そうな様子で荷物を枕に寝転がりながら呟くようにそう言ったので、勇者は賢者の後頭部をじっと見つめていた視線を逸らして彼の方へと向き直った。


「ああ」

「金の……浄化の炎で焼かれて、火傷を負って、そしてその傷が顕現術で癒せなかったと言っていたでしょう? 彼の狂信が少し和らいでいる様子だったのは、心に巣食う淀みを浄化されたからじゃないかって、私は思うんです」

「どういうことだ?」


 勇者が眉をひそめると、神官が彼に目を合わせて頷いた。

「あの炎ってね、全然熱くないんですよ。貴方が魔狼の淀みを浄化した時に少し触れてみたのですが、火傷なんて負いませんでした。熱くないのに、濃い淀みを纏った魔獣は燃え尽きて消えてしまった。そんな炎に焼かれたライの傷は……神殿のあの狂信って、もしかして淀みが原因なんじゃないでしょうか、賢者」

「……現在発見されている文献の中に、生きた人間を勇者が直接浄化したという記述は存在せぬ。また聖剣なしに淀みを清めたという前例もなく、聖剣を用いた浄化の炎とシダルの手から直接放たれる炎が同じものなのかどうかもわからぬ……が、仮説としては十分に成り立っているな」


 炎の性質を把握すれば、先代までの勇者には救えなかったような淀みに囚われた人々を救える可能性もある。そう言われて勇者は気を引き締めると同時に、いつも伏し目がちな目を好奇心からふわっと見開いた賢者に少し笑った。今度魔獣が出た時に検証してみようと約束すると、満足げな頷きが返ってくる。


 ただただ真剣に世界のことを思うだけでなく、こうして楽しそうに自分に興味を向けてもらえるのが嬉しいと思った。少し不真面目なのかもしれないが……世界を救う道具みたいな無機質な扱いを受けていたら、きっと勇者は寂しく思っただろう。


 もちろん世界を救うのが彼の使命なのだが、ただ使命だけを胸に進んでいると……いつかは自ら進んで道具として振る舞うような、そう、異端審問官のような目をするようになってしまうのではなかろうか。


 自分が淀みを浄化すると、仲間が楽しげにそれを話題にしてくれる。炎の色が美しいと目を細めてくれる。小さなことだが、それは勇者にとってとても大切なことだった。


 それを彼らに伝えようと思ったが、勇者が顔を上げると仲間達は「猫ちゃん」が生きたまま持ち帰ってきたでかいネズミに悲鳴を上げて逃げ回っていた。ひょいと捕まえると「やるな」という目で奴がこちらを見たので、「俺は食わん」と言って放ってやる。山猫がバリバリとそれを食べると、吟遊詩人がくたりとなって神官に泣きついた。


 やはり締まらない仲間達だったが、しかし勇者はそんな彼らが大好きなのだった。





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