第三章 海

一 国境の森と不思議な街



 猫の洞窟を出て──国境を目指すとは言っても、フォーレスとその隣の国マレテの境目というわけではなかった。いま勇者達が進んでいるのは国と国の境の森であり、そして森は、どこの国の持ちものにもならないと定められているのだ。


「魔王の時代に多く起こる戦争とは、この森を奪い合うものであることが多い。そして勝った者が木々を倒し、土地を焼き払い、そこへ大きな人の集落を作っては領土を広げてゆくのだ」

 言っていることはわかるのだが、なんだか規模の大きすぎる傲慢さに想像がつかず首を捻る。


「領土なあ……家族が増えたからちょっとそこの木を切って……とかじゃないんだよな?」

「それ以上に森から生命を奪い始めるのが、世界的な淀瘴の始まりだ。そして全ての森が失われた時、世界は滅びる」

「全ての森が……」

 ぞっとした。こんなに広大でたくさんの生き物が住んでいる美しい場所を全部焼き払うなんて、それほどまでに淀みは人をおかしくしてしまうのだろうか。


「厳密に言えば全てではないが……かつての滅びの時代、地上に木々が残っていたのはエルフの領土だけであったと言われている」

 話しながら別のことを考えているのか、賢者が少しぼんやりと手綱を持っていない方の手でアルザの黒い鬣を梳いた。


「そして黎明の勇者が魔王を倒した後、淀みに弱い妖精達が命を賭して守り通した僅かな森と、そして人の立ち入れぬ領域である海から、今のこの世界が再生された──この歴史を思えば、エルフがひどく人を嫌うのも道理だな」

「そうなのか?」


 勇者が尋ねると、優しい妖精はこてんと首を傾げて「恨みでは、ないと思う……でも、人とはあまり、相容れないね」と言った。

「そうか」

 彼にとって自分達は例外だとわかっていても、ちょっぴり寂しい。そう思いながら微笑むと、魔法使いが耳をぴくりとさせて乗っている鹿を賢者との間に割り込ませ、そしてごそごそと腰の袋を漁って何か差し出してきた。この辺りは木々の間が広めに空いているとはいえごちゃごちゃと混み合い、賢者が眉間に皺を寄せてアルザを下がらせる。


「……ん」

「何だ?」

 手のひらを差し出すと、干しぶどうが一粒乗せられた。いつものことながら奇抜な慰め方だが、心がほっと温まる。


「でも、海か……早く見てみたいな」

 気持ちを切り替えて言うと、隣を進む吟遊詩人がうんうんと頷いた。敵の気配を感じた時は率先して前に出る勇敢なレタだが、それ以外の時は恋人のミュウにべったりと寄り添って歩くのだ。仲が良いのは微笑ましいが、時々自慢げな顔で勇者を振り返るのはちょっと鬱陶しい。


「潮騒っていうのを聞いてみたいんだよね。心が落ち着くって言うでしょ? きっと綺麗な音なんだろうなあ」

「そうか。俺は水平線を見てみたいな……見えないくらい向こうまで空と海の青が続いてるって、絶対すごい光景だと思う」


 そう、勇者達が今向かっているマレテという土地は海沿いの国なのだった。そしてなんとその港町を通って船に乗り、海の向こうへ渡るのだという。これはもうどう考えても大冒険に違いなく、勇者はもう船を見るのが待ちきれなかった。


「そういえば船に乗る時、レタ達はどうするんだ?」

 勇者が振り返って尋ねると、賢者が少し迷うように答えた。

「大型の船ならば馬用の設備がある。できれば共に行きたいが」


 彼がそう言って視線を向けると、レタが確認するようにミュウを見た。月毛の有角馬はあまりわかっていないようだったが、楽しげに瞬く瞳を見て大丈夫だと判断したのか、一角獣は「いいぜ」というように鼻を鳴らす。


「行くらしい」

「そうか……ならば馬達を一度森に置いて街で物資を調達し、準備を終えた後に擬態をかけて港まで連れて行く」

「あー、目立つもんな。特にレタとルシュ」

「いかにも」


 その会話のついでのように、あと一時間も進めば街が見えてくると言われ、勇者はその意外な近さに少し驚いた。王都を出てまだ一週間と少しだ。しかも彼らは森の中を進んでいる。つまり舗装された道を通れば数日の距離だろう。


「フォーレスってさ、王都から国境が近すぎないか? 大穴の真横みたいな場所に城があるし」

 そう言って眉をひそめていると、後ろで神官が笑う気配がした。


「フォーレスはあの王都プロヴェールと、あとは離れたところに小さな村がいくつかしかありませんよ。とても小さな国なんです」

「え?」

「あの国は元々、ヴェルトルートを地上の外敵から守るために作られた城郭都市なんですよ。ですから最も守りの堅い王城付近に大穴がありますし、ヴェルトルート語が通じる人が多いんです」

「……でもさ、共通語フォレリアって元々フォーレスの言葉でしょ? そんな小さい国の言葉がどうして世界共通語なの?」


 吟遊詩人が不思議そうに尋ねたが、しかし神官は「さて?」と言って首を傾げる。

「子供の頃に教わったような気もしますが……何でしたっけ?」


 視線を向けられた賢者は「フォーレス生まれのそなたがなぜ知らぬのだ」みたいな顔をしていたが、肩を竦めると気が乗らない様子の低い声で説明してくれた。

「本来ならば根源の国であるヴェルトルート語が共通語となるのが自然だが、根源語ヴェルーシアは文字体系が少々複雑で、また根源であるが故にその言語を別格化しようという声も大きかったために候補から外された。フォーレスは小国ではあるが、『再生』後初めて地上に興された国でもある。そちらの意味でも相応しかったと伝えられているな」


「へえ……面白いね」

 吟遊詩人のそれは月並みな感想だったが、彼の声が本当に興味深げに弾んでいたからか、賢者は少し嬉しそうにフンと鼻で笑ってそっぽを向いた。


 そうこうしているうちにもうすぐ街だという場所まで来たので、馬を降りて小さめの沼の側まで連れてゆく。この辺りの花でも食べながら待っていてくれと言うと、嬉しそうにその辺りを駆けて遊び始めた。


「こんな人里の近くに置いてて大丈夫かな?」

「いや、そう簡単に人に見つかるような生き物じゃないだろ、こいつら」

 吟遊詩人の心配にそう答えると、彼は苦笑いして「それもそっか」と呟いた。


 そうして久しぶりの徒歩で森を抜けると──不思議な匂いがした。水のような、しかし濡れた石の匂いが混じる川とは違う……もっと強く生き物の気配を感じる、不思議な匂いだ。


「これって、海の匂いか?」

 賢者に尋ねたが、「風向きからして可能性は高いが、匂いに関しては経験しか知る術がない。私には判別できぬ」と首を振られた。賢者も知らないのかと思うと、好奇心がむくむくと頭をもたげる。


「じゃあ、またひとつ知識が増えるな。早く確かめに行こうぜ」

 わくわくしながら勇者がそう言うと、そわそわと足踏みする彼を見つめ返して賢者がニヤッと笑った。彼は旅に出てから話し方も少しずつ丸くなってきている気がするが、今の顔はどことなく吟遊詩人に近いような、彼にしては珍しくかなり明るい笑顔だった。気難しい彼も少しずつ仲間の影響を受けて変わっているのだと思うと、なんだか微笑ましい。


 しかしその笑みも、吟遊詩人が驚いたように「おお、賢者が笑ってる……」と言うや否や、まるで幻だったかのように跡形もなく引っ込められてしまった。一転して不機嫌そうな顔を作った賢者が、繁みをかき分けて町外れの小道に降りる。と、神経質に服の裾をはたいていた彼は、顔を上げると訝しげな表情になった。


「どうした?」

 尋ねると、曖昧に首が振られる。

「いや……吟遊詩人、この向こうの通りに何が見える。何か、異様な気配が……」

「異様な気配?」


 その言葉に勇者も背筋を伸ばして、指差された方に意識を向ける。が、大勢の人の気配が感じられるだけで特に何も感じない。

「人の気配しかしないが」

「うん、僕も人がたくさんいるのが見えるだけだね。お店がいっぱいあって、賑わってる感じ」

「それは真か? いや、しかし……」


「──様子が、おかしいね」

 その時、目を閉じて集中している様子の魔法使いがぽつりとそう言ったので、仲間達は眉をひそめて彼を見つめた。


「……人がたくさん、見えるのでしょう? 確かに、人の声は聞こえるけれど……でも、足音も、衣擦れの音も……呼吸の音も、しない」


「え、何それ……」

 吟遊詩人が一歩後ずさって神官の袖の端を握る。勇者は黙って眉を寄せると、小道を渡って建物の隙間を抜け、壁に背中をつけると向こうの通りをそっと覗き込んだ。


「……あ」

 そして壊れかけの水車のようにぎこちない動きで仲間達の方へ顔を向けると、青くなった顔でこう言った。

「半透明の人がたくさんいる……たぶん、みんな幽霊だ」





 勇者の台詞に皆慌てて逃げ出すかと思ったが、驚いたことに──というか厄介なことに、賢者が目をぱちくりとして近寄ってきた。


「ほう……あれが幽霊だと、そなたは思ったのだな? アルバロザ卿に似ているか?」

「おい……戻れ、危ないぞ」

 勇者はそう囁いて賢者の肩を揺さぶったが、彼はその手を鬱陶しそうに払い除けただけでなんでもなさそうに言った。


「生者であろうが死者であろうが人は人だ。さしたる脅威ではなかろう……勇者、あの雑貨店の店主に話しかけてみなさい」

「えっ、なんで俺が? お前が行けよ……」

「様子を見る限り、透けている以外は凡庸な人間のようだ。空の街で私を目にした人々がどうなったか忘れたか」

「……それ、自分で言ってて悲しくならないか?」

「ふむ、扱っている商品には実体があるようだ」

「おい、聞けよ」


 幽霊に話しかけるなんて嫌だと思ったが、楽しそうに通りを観察している賢者を見てしまったら、ちょっとくらい頑張ってやってもいいかという気になってくる。気配を感じて振り返ると仲間達が団子状になって勇者の背中に隠れていたので、彼は共通語のできる神官の腕を掴んで通りに出て行った──というのは建前で、なんとなく悪霊みたいなものを追い払えそうな神聖さを持っている彼をお守り代わりに連れて行ったのだった。


「──もし、こちらは不思議な街ですね? そこのガラス細工をひとつ頂きたいのですが、ここは私達がお買い物をしても問題ありませんか?」

「おっ、生者のお客さんたぁ珍しいね。旅人かい? 若いのに肝が座ってんなあ……普通に『感じのいい』客として来てくれる分には歓迎するよ」


 神官を連れてきたのは正解だった。彼は幽霊の群れにも全く動じることなく、ごく普通に店主に話しかけ、ごく普通に魔法使いの好みそうな小さなガラスの鳥を買うと、にこやかに挨拶して仲間の元に戻ったのだった。


「『生者の客は珍しい』と言っていましたから、おそらく皆さん死霊なのでしょうね。しかし生きている我々でも歓迎してくださるそうですし、特にこれといった悪意も感じませんでしたよ」

 一泊するには丁度良さそうな綺麗な街ですね、と彼がにこにこしている間、勇者は吟遊詩人と手を取り合って顔を青ざめさせていた。


「やっぱり幽霊だった……」

「ねえどうする? 神官、ここに泊まるとか言ってるけど」

「とりあえず、とりあえずさ、海を見に行こうぜ……泊まる場所を考えるのはそれからでもいいだろ」

「だよね! そうしよう。うん、それがいいよ」


 その提案は海を見たことのなかった仲間達にも喜んで受け入れられたが、しかしなんということだろうか、その海までの道のりはこの幽霊通りを通って行くことになってしまった。


 マントのフードを目深に下ろした賢者の代わりに神官があちこちの店で買い物をしながら尋ねたところ、この街は数十年前に疫病が蔓延して以来、すっかり幽霊だらけの街になってしまったということだった。唐突な死を受け入れられなかった住人達がここで以前と同じように商売を始め、そこにあたたかな空気を求めた死者の客が訪れるようになっていくと、それを恐れた生者達が次々に街を出て行って、今ではもう死者しかいない街になっているらしい。


 そんな話を聞いているうちに──勇者は段々と怖さが薄れ、この街を冷静に眺められるようになってきた。幽霊達がみな気さくだったのも良かったのかもしれない。


 今まで訪れた中で、最も丁寧に手を掛けられた街だと思った。店は隅々まで清潔に磨き上げられ、質の良い商品には優しい筆致の値札が一枚ずつ添えられている。命を失ったからこそ、こういう小さな気遣いのようなものが大切に感じられるのだろうか。焦りのない穏やかな人柄の霊が多く、通りは和気藹々とした雰囲気ながら、実際に耳に届く音はとても静かだ。最初は驚いたが、どこよりも居心地の良い空気が作られていると思った。


 おずおずとそれを伝えると、果物屋の若い店主が涙ぐみながら勇者によく熟れた桃を山ほどくれた。何でも霊によって触ることができるものがあったりなかったりするようで、彼は人に触れることはできないが、果物と、人参以外の野菜は持ち上げたりできるのだそうだ。彼は「人参はさ、どうもガキの頃から苦手なんだよな」と笑いながら、海までの道を丁寧に説明するだけでなく、泊まるならここの宿屋が良いだとか、宝飾店を覗いてゆくと面白いとか、細々と観光案内をしてくれた。それを向かいの店の霊達が楽しそうに眺めていて、死という響きの冷たさと不釣り合いな、優しい街だった。


 さて、果物屋曰くここでしか手に入らない──賢者は小さく首を振っていたが──エメラルドという宝石を見に宝飾店を覗くと、驚くほど吟遊詩人の瞳にそっくりな色の石がいくつも陳列されていた。通りに入ってから黙り込んでいた魔法使いも同じことを思ったのか、フードの下できょろきょろと、大きな石が嵌まった指輪と吟遊詩人を見比べている。


「えらく鮮やかな色の瞳だと思ってたが……お前の目って、もしかして宝石でできてたのか? まるきり同じじゃないか」

「え、何それ。口説き文句?」


 冷めた口調で返しながらもどこか嬉しそうに宝石を眺める少年を微笑ましく思ったのか、驚いたことに宝飾店の店主だという女性が彼に綺麗にカットされた石をひとつ「持っておいき」と握らせてやっている。


「そんな、高価なものでしょう? 自分で買います」

「いいのいいの、どうせお金なんてあったってろくに使わないんだから、若い子からはもらわないことにしてるのさ。ちょっと曇りのある裸石だけど、それなりに良いもんだよ」

「ありがとう。大切にします」


 宝石を握った手をそっと胸に当てて吟遊詩人がきらびやかに笑うと、半透明のご婦人が「おやおや」と呟いて灰色っぽい頰をほんのり青黒くした。幽霊特有の聡さなのか彼はこの街で一度も少女に間違われておらず、そうなるとかなりの美少年に見えるようで、先程から女性の幽霊にやたら優しくしてもらっているのだ。


 しかし勇者はそんなことより、ついこの間共通語を習い始めたばかりの吟遊詩人が通訳なしで流暢に会話していることに仰天していた。耳が良いからか、どうやら教えていた神官も呆れるほどの語学の才能を持っているらしく、彼が話す様子をフードの陰から見守っていた賢者が震え上がるくらい怖い顔になっている。……あれは間違いなく、次にどの言語を教え込もうか考えている顔だ。


 キラキラした緑の石を光にかざしながら緩やかな坂を下ると、地面が石畳からよく踏みならされた土の小道になった。木立の中を通って風上に向かって歩くと、あの不思議な匂いがどんどんと濃くなって、幽かに……これが潮騒というものだろうか、なんとも形容しがたい優しい音が聞こえてくる。


 急に梢の向こうから差し込む光が強くなって、皆が目を細めた。燦然と輝く光の帯を避けるように手をかざし、土の地面から砂っぽい岩場へと足を踏み出す。


 そして木立を抜けた向こうに、海が見えた。





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