二 人魚姫
水平線は美しかった。どこまでもどこまでも深い青が続いているだけでなく、それがキラキラと宝石を転がすように揺れ動くきらめきを放っているのだ。
しかし折角の絶景だったが、それよりももっと不思議なものを見つけてしまった勇者達は、先程から海への感動もそこそこにぽかんとそれを見つめていた。そこには一人の美しい少女が──海面に突き出した岩にもたれかかり、腰から下を海に沈めたまま泳ぎ疲れたかのようにすやすやと眠っていたのだ。
それは不思議な、濃い青緑色の髪の毛をした娘だった。染め粉を使っているにしては艶が有りすぎるその髪は、豊かにうねって少女の肩を滑り落ち、ふわりと水の中に広がって波に揺られている。
ぐっすり眠っている様子の緑髪の娘は、ほとんど服と言えるようなものを身につけていなかった。ふんわりと豊かな胸元が海藻を模したようなひらひらとした布で僅かに覆われているだけで……麗しい乙女がそんな姿でうとうとする様子は大変目の遣り場に困る。
少し頰を赤らめて目を逸らした勇者は、こういう時に仲間達はどういう反応をするのだろうと視線を巡らせたが、半ば予想通り彼らには一片の照れも興味も見受けられなかった。賢者と神官はまだましで、溺れているようには見えない彼女に果たして助けは必要なのか考えているような顔をしている。しかし魔法使いに至ってはなぜか驚いたように揺れ動く海面をまじまじと見つめているし、年頃であるはずの吟遊詩人は娘に目もくれず、その魔法使いに話しかけたそうにうずうずとしている。勇者はそんな仲間達の様子にひとつ頷き、こいつらはやはり少しおかしいという確信を深めた。
しかし、不可解なエルフの視線にはどうやら意味があったらしい。眠れる乙女を起こさぬようにか、いつもよりさらに押し殺したせいでほとんど聞こえなくなった囁き声を聞き取って、勇者は仰天した。
「あれは……人魚かな」
「だよね、やっぱり尻尾あるよね!?」
吟遊詩人が魔法使いの袖をガシッと掴むと息だけの小声で叫んだ。勇者も彼らの視線を追って海面に目を凝らしたが、陽の光がキラキラと反射していて何も見えなかった。
「どうする、起こしてみる?」
そわそわとなって周囲を見回した少年に向かって、先程幽霊を見た時は興味津々に目を見開いていた賢者がなぜかとても渋い顔をした。
「いや……人魚ならば、このままそっと立ち去るのが良いだろう」
「ええっ、なんで? 本物の人魚姫だよ? 賢者はお話ししてみたくないの?」
「人魚は、少々……」
「ねえ、勇者」
ねだるように見つめられても、勇者は「まずは賢者が渋っている理由を聞こう」と厳しく言い渡すつもりだったが、実際に口を突いて出てきたのは全く正反対の言葉だった。
「起こすのは悪い気もするが、話せるなら話してみたいよな……」
「だよね! ほら!」
少年がきららかな笑みを浮かべて振り返ると、賢者は頭の中で何かを天秤にかけているような顔をした後、ため息をついて一歩後ろに下がった。
「……好きにしたまえ。ただし、話すのはその娘一人のみとし、あまり深くは関わらぬように」
「やった!」
人魚だと思えば着衣の心許なさもまあこんなもんだろうと思えて、不思議なくらい気恥ずかしさがなくなった。よく見れば彼女の肌は薄っすら緑がかった色をしていたし、頭上を雲が通り過ぎた時に水面が翳って大きな魚の尻尾が見えると、明らかに人間ではないことがわかって──どう言えばいいのか、小鳥に水浴びを見られてもどうも思わないように、恥ずかしいとか見てはいけないとか、あまりそういう対象でなくなる感じがするのだ。
だから、異種族の仲間の前でちょっと袖を捲るのも恥ずかしがるエルフのことを勇者はかなり変なやつだと思っているのだが……まあ、それはまた別の話だ。
「もしもし、人魚さん?」
吟遊詩人が期待を隠しきれない声で話しかける。妖精や人魚といった人以外の種族は古い形の言葉の方が通じやすいらしく、共通語ではなくヴェルトルート語だ。
と、声をかけられた人魚姫がもぞりと頭を起こし、気の抜けた寝ぼけ眼で周囲を見回した。
「なあに、人間さん……と、妖精さん? 何か御用?」
「ううん、人魚のお姫様とお話ししてみたかっただけ。言葉が通じて良かった。僕はルシナル、よろしくね」
午睡の時間に興味本位で起こされた人魚は、瞼をぎゅっと閉じて伸びをすると緑の髪の毛を手で梳いた。かなり眠たそうだったが、どうやら穏やかな気質らしい。機嫌を損ねることなく間延びした返事を返してくれる。
「そっかあ……私はヴァーラ。ルシナルちゃんは、どうして私が王女だって知ってるの?」
「えっ? ……ええと、本当に王女様なんだとしたら、知らなかったかな。お姫様みたいに綺麗だなと思っただけ」
「私が? ……あ、尻尾見る?」
「えっ、あ、うん。いいの?」
いつも勇者をからかって遊んでいる吟遊詩人がのんびり屋の人魚にすっかり振り回されているのを、勇者は心の底でちょっぴりいい気分になって眺めた。そうだ、たまにはお前もそうやってくだらないことで慌てろ。
彼女が「よっ」と呟いて少しだけ岩によじ登り、ざばりと尻尾を海面に出すと、見事な
「私、太ってるけどねぇ……尻尾の色は、綺麗だと思うの」
「え? 太って……ないでしょ。すごくスタイルいいと思うけど」
吟遊詩人がヴァーラと名乗った人魚姫のほっそりした腕と、どちらかというと引き締まって見える括れた腰を少し恥ずかしそうにちらっと見て首を捻る。するとヴァーラの方も不思議そうに首を傾げて、そして「あ」と何か思いついたように頷いた。
「もしかして人間さんって、あんまりキレてなくても気にしないのかなあ?」
「……切れる?」
怪訝そうにした吟遊詩人が賢者を振り返ると、彼は凄まじく嫌そうな顔で「筋肉の彫りが深いことだが、人魚独特の表現だ」と言った。
「……彫り?」
眉根を寄せた可憐な音楽家に、人魚姫がうんと真面目な顔で頷く。
「人魚にとってはね、大事なことだよお。私はすぐ怠けてご飯の後にお昼寝しちゃうんだけど……あ、ねえ、青い瞳の人間さん」
人魚なんて未知の存在から唐突に視線を向けられたので緊張したが、とりあえず笑顔を作って挨拶しておく。
「俺だよな? あ、えと、シダルだ。よろしく」
「よろしく……ねえ、ちょっとお腹見せて、シダルちゃん」
「腹?」
全く意味がわからなかったが、特に悪意も感じなかったので言われるがままにチュニックの裾を捲って腹を出す。するとヴァーラはそれをじいっと見つめて「うん、やっぱりいいね」とのんびり頷く。
そして眉を上げて訝しげにしている勇者に向かって、覇気のない笑顔で驚くようなことを言った。
「ねえシダルちゃん……みんなと一緒でいいから、うちに遊びに来ない? 君、たぶん兄様の好みだと思うの」
「えっ『兄様』の好みって……勇者、人魚の王子様のお嫁さんにされちゃうの?」
吟遊詩人がたじろいでいるのか面白がっているのかわからない表情で言うと、翡翠色の人魚は「お嫁さん?」と首を傾げた。
「ちょっとそれは難しいかなあ……兄様、わりと女好きだし。シダルちゃん、男の子だよね? でも、いいお友達になれると思うの」
魔法使いとはまた違ったのんびり加減でふにゃふにゃと喋る人魚姫によると、彼女の兄は時々海の外に顔を出し、気の合いそうな人間を城に招待しては一緒に海を泳いだり、魚を捕まえたりして遊んでいるらしい。
「でも俺達、海の中じゃ息ができないぞ?」
人魚の棲家はそんな浅いところにあるのかと尋ねると彼女は首を振ったが、しかしそれは心配いらないと信じ難いことを言った。
「大丈夫だよう。海の魔女様にお願いしたらね、人魚にしてもらえるの。そうしたら、魔女様に魔法を解いてもらうまではずっと海の中で遊べるよ」
それが本当ならめちゃくちゃ面白そうだと思って仲間達を振り返ると、吟遊詩人がキラキラと瞳を輝かせて「レフルス、お願い!」と賢者のマントを引っ張っていた。すると先程までなぜか嫌そうな顔をしていた賢者は、何か心惹かれることがあったのか「変身術か……」と呟きながら迷うような顔をしている。それを見て「ここはもうひと押しだ」と思った勇者は、ニヤッと笑いそうになるのを堪えて慎重に口を開いた。
「変身術が、どうしたんだ?」
そう尋ねると、賢者が真面目な顔で彼の方を見つめ返す。
「人間に制御可能なそれに近しい術は『擬態』という、姿を別のものに見せかけるものだ。擬態で姿を人魚に変えても触れれば二本の脚があり、当然水中で呼吸などできぬ。本質からそれそのものに姿を変える変身術は魔術でも再現不可能な……竜とその他いくつか、本当に僅かな種族にしか使えぬのだ」
「それを体験できるって、もしかしてものすごく凄いこと……だったりするのか?」
上手く乗せて海の中へ連れ込む予定が、勇者の方が興味津々になってしまった。しかしそれが却って良かったのか、彼の言葉を聞いた賢者が決心がついたように頷いて、そこからはトントン拍子に海の中へ遊びに行くことが決まっていった。
吟遊詩人と肩を組んで「やったあ!」と喜び合っていると、ヴァーラが「うんうん、海にはね、一度入ってみるべきだよう。綺麗だし……歩くより泳ぐ方が、ずっと気持ちいいと思う」と頷いた。
「じゃあ、海の魔女様の家まで案内するから、気合いを入れてね」
「……気合いを、入れるの?」
唐突に落とされた人魚姫の不穏な言葉に、魔法使いがぽつりと返事をした。どうやら人間でなければ仲間でなくとも話せるらしく、少し緊張はしているがそれなりにちゃんと喋っている。
ヴァーラはそんな妖精にふにゃっと微笑みかけると、とんでもないことを言った。
「そうだよう、ルーウェンちゃん。だって海の魔女様だから、当然お家は海の中だもの。結構深いところにあるし……息ができないなら、そこまでは頑張らなくちゃ」
勇者一人ならまだしも、「気合い」など微塵も入りそうにない仲間達を連れてその道のりは流石に諦めた方が良いのではと思ったが、本当に意外なことに、それを「行ける」と言い出したのは神官だった。
「実際にやったことはありませんが……大きい空気の泡を作りまして、そこに入った状態で移動することができると思います」
そんな突拍子もないことを言い出した彼に目を丸くしていると、魔法使いがそれにうんうんと頷いて「それなら……荷物も、濡れないね」とか言っている。それにヴァーラまで「魔女様の家まで行けば空気があるから、荷物はそこに置いておけるよう」と何やら賛同している様子だ。
かなり変な移動方法だと思ったが、しかしそれで海の中へ行けるならなんでもいいやと頷くと、それに頷き返した神官が──どう見ても泳ぎなどできそうにない神官が服も脱がずにちゃぽんと足から海に飛び込んだので、勇者は慌てふためいて後を追った。川や湖と同じように水の中で目を開けてしまってから、そういえば海は塩水だったのだと思い出す。
ピリリと染みて目を閉じそうになったが、しかし勇者はその瞬間に見えた美しい光景に心奪われ、痛みも忘れて目を見張った。
不思議な光景だった。深く深く透き通った青色の世界が、自分の下にどこまでも広がっている。遥か下に真っ白な砂の地面がはっきりと見えて、この水がどれだけ澄んでいるのか思い知らされた。
ふと頰に神官の手が触れて、目の痛みがすっと和らぐ。ふんわりと体の周りに明るい青色の魔力を纏った彼は不思議なことに、澄んだ海の中でその瞳をやわらかな水色に輝かせていた。
僅かに光って見える目を優しく細めて、神官がすうっと薙ぐように手を動かす。するとその手のひらから銀色の泡がコポコポと生まれ、くっつき合ってひとつの大きな泡を作っていった。
うるうると揺れる泡が仲間達全員を入れられるくらい大きくなると、彼はそっと勇者の手を引いてその中へと体を進めた。ひんやりした空気が顔に触れるのを感じて口を開けると、そこはもう、地上と何も変わらずに呼吸ができる。
泡の内面はふよふよと僅かな弾力があったが、踏ん張れるような硬さはなくてあっという間に転んでしまった。
「これも顕現術なのか?」
口の中がしょっぱいなと思いながらそう尋ねると、声が不思議な響き方をした。
「うーんと、どうなのでしょう……こういう風に水を動かしたりするのは物心ついた時からなんとなくできるものでして、祈りというよりは手足を動かすようにやってしまうんです。どちらかというと、魔法なのかもしれませんね」
空気の中に出た瞬間に瞳が青から茶色に戻った神官が、ふふっと楽しそうに笑う。するといつもの神聖さが海の青い光で少しだけ幻想的な方向に雰囲気を変え、勇者はふと「どんぐりの精」という言葉を思い出していやいやと首を振った。
きっと出会ったばかりの彼ならこんなことは口にしなかっただろう。だが気持ちはわかる。エルフのルーウェンが使う自然の一部なような魔法を見ていると、光とか風とかそういう現象ではなく魔法という概念自体が、決して神殿の信仰とぶつからない、とても清らかなものに思えてくるのだ。
そんなことを考えている間に、ドボンと音がして泡の中に仲間達が降ってきた。足場が柔らかいせいで次々に皆バランスを崩して折り重なるように倒れ、気づいた時にはなぜか腹の上に魔法使いが機嫌良さげにちょこんと座っている。
そうやってごちゃごちゃに泡の中に詰め込まれ、人魚という生き物は皆こうなのか驚くほどしなやかに泳ぐヴァーラの先導に従って、ふわふわと水中を進む。一体どうやって泡ごと動いているのかと聞くと、神官から弱い水流を起こして押し流しているのだという答えが返ってきた。
深く深く潜っていっても、勇者が知っている池や湖とは違って、透き通った海はそれほど暗くならない。とその時、少し向こうの岸壁の近くに海流が奇妙に渦を巻いている場所が見えた。よくよく周囲を見回してみれば、何だかこの周辺だけ……地面の砂がパッとしない灰色で、寂しく何かの骨が転がっているばかりで海藻の一本も生えていない。そして渦に近づくにつれて、すうっと明るかったはずの周囲が薄暗くなってゆく。
魔法を使っていない勇者でも引きずり込まれそうな引力を感じる場所まで来ると、来るものを拒むようなその渦の向こうにぽっかりと暗い洞穴が口を開けているのがわかった。
するとヴァーラがそれを指差して、へにゃっと力の入っていない声で言った。
「ほら、あれが海の魔女様の住む洞窟だよう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。