三 海の魔女



 コポッと音を立てて勇者達を包む泡から小さな泡がいくつか千切れ、渦に巻き込まれていった。

「お、おい! 空気吸われてるぞ、神官!」

 それを目で追った勇者が慌てふためいて声を上げると、神官は「大丈夫ですよ」とにっこりした。


「吸われた分はまた足せばいいですからね。換気になって丁度いいくらいですよ」

「いや……それちょっと肝が座りすぎでしょ。神官、体力はへにゃへにゃのくせに……」

「体力はそうですけど……魔力なら勇者の七倍ちょっとはありますよ、私」


 少し拗ねたように肩を竦めた水の申し子が吟遊詩人に言い返し、堪え切れなくなったようにふふっと笑う。何か彼なりに冗談を言ったつもりらしかったが、魔女の家に辿り着く前に渦潮で揉みくちゃになりそうな今そうやって笑っているのは、やはりかなり気丈というか図太いというか、結構な変わり者だと思う。


「え、今なんで笑ったの?」

 吟遊詩人が怪訝そうに尋ねると、神官がくすくす笑いながら言う。

「だって私……ふふ、魔力の量を勇者と比較するなんて、ふふ、そんな自分が凄いみたいな言い方、私ったらなんて傲慢な、ふふっ」

「そっか。うーん、ツボが独特だなあ……」


 少年が呟き、賢者も意味不明だと首を振った。しかし、そうこうしている合間にも泡がじわじわと渦へ近づいてゆくので、勇者はわたわたとして神官と賢者を見比べた。早くどうにかしないとこのままでは流れに巻き込まれ、ぐるぐると回り続ける羽目になる。しかし渦潮などという自然現象に対して勇者ができることも思いつかず、外にいるヴァーラのことも心配できょろきょろしていると、賢者に「少し落ち着きなさい……」と億劫そうにたしなめられた。


「解けるか? 魔法使い」

「……ん?」

「あの渦だ」

「……どうだろう」


 賢者に尋ねられた魔法使いは首を捻ってじっと竜巻のようなそれを見つめた後、ぱちぱちと瞬きをしてからおもむろに泡の壁を押し、ぷにょんと外へ片手を出した。そして小声で「シルーラ=ファリーミステール」と唱えると、手のひらの先から海水がすごい勢いで凍り始め、あっという間に渦潮を全部氷の塊にしてしまう。


 しかし、その魔法の凄さに勇者が感動していたのも僅かな間だった。キラキラした竜巻型の氷はそのままふわふわと海面に向かって浮かび上がってゆき、すぐに海底から新たな潮の流れが湧き出して、今度は掠っただけでひとたまりもないような巨大な氷を巻き込み砕きながら回転し始めたのだ。


「浮いていったね」

「……自信がないならば、何をしようとしているか先に言いなさい」


 賢者がため息をつきながら魔法使いの耳を引っ張ると、彼はパッと振り返って「ミルル! 耳は、めっ!」と囁き声で叱りつけるように言い、そして苛ついた顔の魔王に素早く頭をはたかれてしまった。それを横目で見ながら勇者はヴァーラの姿を探していたが、何をどうやったのか人魚姫は既に魔女の洞窟の入り口から顔を出して、遊んでないで早く来いという風に手招きしている。


「神官、渦の流れに乗って洞穴まで飛び込むことは可能か?」

「そうですね……ここから海流をそのように調節することはできますが、一度乗ってしまうと動きが速いので、失敗しても咄嗟の回避は無理ですね。私、たぶんすぐに目を回すと思います」


 その返答に賢者が心底嫌そうな顔をしたが、結局そうやって潮の流れに乗りながら洞穴へと飛び込むことになった。滑るように海流へ突入すると転移の魔術に似た感じの重圧がかかり、凄まじい速度で泡の端っこを削りながら岩壁すれすれを通り抜ける。


 ヴァーラが飛び込んできた勇者達に「いいね!」という感じで手のひらを顔の横で素早く数回握ったり開いたりして見せた。それに頷き返すと、勇者は興奮して「やった、成功だぞ神官! 今の面白いな!」と仲間達を振り返る。が、皆どうしてか泡の後ろの方に積み重なってくしゃくしゃになっている。青い顔で勇者に向かって弱々しく微笑んだ神官がふらっと目を回して気絶したかと思うと、その瞬間にパチンと泡が弾けて海の中へ放り出された。


 咄嗟に息を止めた勇者が慌てて仲間達を拾い集めていると、ヴァーラが洞窟の奥の方をちょいちょいと指差して、地上で聞いたよりも少し低くしっとりして聞こえる声で「向こうに空気があるよう」と言った。


 どうやら仲間達の中で勇者の他に泳いだことがあるのは吟遊詩人だけらしく、気絶した神官の口元に空気の層を作ってやっている賢者を勇者が引っ張り、少年はふわふわ浮かびながら首を傾げている妖精と手を繋いでやっていた。


 ヴァーラ曰く、海の魔女は種族的にえらを持たないのだとかで、幸いにして洞窟を少し進んだところですぐ水面に顔を出すことができた。吟遊詩人が楽器を濡らしてしまったと青ざめていたが、賢者が神官を叩き起こしながら「その鞄は魔導防水だ」とこともなげに言うと、ほっと肩の力を抜いている。


 仲間達を水の上に引き上げながら見回した洞窟の中は、思ったよりもずっと「洞窟っぽく」なかった。というのも岩壁には透けるような青と紺を花柄に織った美しい布が張り巡らされており、あちこちに座り心地の良さそうなクッションや魔石を光らせるランプなどが配置されているのだ。魔女の家という響きのわりに住み心地の良さそうな場所だ。きっと住んでいるのは玄関前のおどろおどろしい雰囲気と違って優しい魔女なのだろうと勇者が考え直していると、布で仕切られた洞窟のさらに奥から、ずるずると何か重いものを引きずるような音が聞こえてきた。


「──また『お友達』を連れてきたのかい、馬鹿王子。あんたのお遊びに付き合ってる暇なんかないって、何度言ったらわかるのかね」


 そう不気味さに色気と凄みを足したような声で言いながら現れたのはしかし、いかにも「魔女様」っぽい感じの女性だった。腰まで流した黒髪は艶やかで顔も若く美しいのだが、その深遠な視線は妙齢の女性のようにも、数百年生きた老婆のようにも見える。


 ぺたんと耳を倒した魔法使いはどうも彼女の唇が真っ黒に塗られていることに怯えているようだが、海の魔女を構成している要素のうち最も目を引くのは、腰から下が巨大な蛇の尾になっているところだろう。白と黒の縞々をしたその尻尾は、いかにも毒蛇っぽい感じだ。


 魔女はそんな風に、その目つきに含まれる毒々しい色っぽさを抜けば少し賢者と近い雰囲気になるかなというような恐ろしさがあったが──賢者の瞳の中に「色気」などという健全な人間らしさは存在しない──ヴァーラは慣れているのか、少しも気負っていない顔で彼女と話し始めた。


「違う違う。今日は私だよう、海の魔女様」

「おや怠け姫。あんたもついに、あの馬鹿どもの馬鹿なお遊びに仲間入りすることにしたのかい」

「魔女様ったらあ、そんなはずないってわかってるくせに。兄様のお友達になれそうな人間さんを見つけたから、誘っただけ」

「ふうん、そうかい……その真ん中の男はわかるが、後は何だい? みんなひょろひょろじゃないか」

「彼のお友達だよう。一緒にご招待するの」

「はあ、そうかいそうかい……数が多いのは面倒だが、怠け姫は初犯だからね、まあいいだろう。ほら、そこへお並び。ああ、服は脱ぐんだよ。そんな二股のズボンに靴なんか履いてちゃ尻尾が真っ二つだし、そんなきつい上着じゃ背鰭せびれが折れちまう」


 そこまで聞いた勇者は「いよいよ来たぞ」と思ってわくわくしながら仲間を振り返り……服を脱げと言われた賢者が額を青くしてこの世の終わりのような顔をしていたので思わず笑った。


「魔女様、尻尾が裂けなければいいんだよね? 恥ずかしいからマントは着ててもいい?」

 しかし吟遊詩人がか細い声で尋ねると魔女が「かまわないよ」と鷹揚に頷いたので、仲間達はかなりほっとした顔でマントの前をかき合わせながらもぞもぞと濡れた服を脱ぎ始める。


「……おいおい、あたしはそこの緑柱石の目をした女の子に『かまわないよ』って言ったんだ。それが何だい、男どもまでこそこそと上を隠して。情けないったらありゃしないね」

「あの……僕、男だよ」


 仲間達を呆れ顔で馬鹿にし始めた魔女に向かって、吟遊詩人がおずおずと言った。すると彼女は「何だって?」と目を丸くしてとぐろを巻いていた長い蛇の尾をシュルッと解き、滑るように少年に近寄ると、マントの合わせ目に指をかけてひょいっと中を覗き込んだ。吟遊詩人が「きゃっ!」と少女のような悲鳴を上げて飛び退き、勇者の後ろに駆け込んで怯えた目で魔女を見つめる。


「おや、ほんとだね……あんたの仲間達、どんだけ箱入りで育ったのか知らないけど、そんなんで大丈夫かい? 服装を見るに、旅人だろ?」

 さっさと脱ぎ終えて軽く腰にマントを巻きつけている勇者に向かって、魔女が「あんたはまともそうだけど、あんただけじゃだめだろ」と呆れた顔をする。見かけはいかにも恐ろしげだが、案外面倒見が良い性格をしているらしかった。


「それはちょっと、俺も心配してる」

「『心配してる』だって? あんたがそんなだから、こんな甘ったれになるんじゃないか。こういうときはね、ガツンと叱ってひん剥いてやんな」

「いや、それは……」


 流石にそれは可哀想すぎると勇者が尻込みすると、魔女は「ハッ!」と鼻で笑って蛇の尾で勇者の背をバシリと叩いた。

「嫌われたくないなんて思ってるようじゃ、あんたも全然ダメだね。まあいいさ、じゃあ今から魔法をかけてやるからね、そこへお並び。海に入って、岩に掴まるんだよ。あたしが魔法を解くまでの間……あんた達は声を失って、その代わりに人魚の姿を手に入れる」


「えっ」

 しかし続けて告げられた対価に吟遊詩人が喉を押さえて一歩後ずさったのを見て、魔法使いがさっと前に出ると彼を隠した。


「吟遊詩人から……声は、取らせないよ」

 海の中では異質に感じる森の気配を立ち昇らせながらエルフが威嚇するように目を眇めると、海の魔女は少し怯えたように肩をすぼめて首を振った。


「ちょっと、なんで急に怒ってるんだい? 全く……これだから地上の妖精はよくわからないんだ。まあいい、声が嫌だってんならエルフ、あんたの魔力でもいいよ。ここじゃ森のものは貴重だし……あの馬鹿王子の連れてくる人間どもはすぐ大声を上げてうるさくって仕方ないからね、声を取り上げることにしてるんだが、あんた達は大人しいしその必要もないだろう」


 魔女が部屋の隅を漁って引っ張り出してきた透明な魔石に、魔法使いが指先で触れて魔力を流す。水晶のようなそれが美しい白銀に染まったのを見届けると、魔女は宜しいと一つ頷き、皆が海に入るのを待って真っ黒に塗られた長い十本の爪を勇者達に向けた。


「準備はいいね? いくよ──魚を人へ人を魚へ、巻貝の真珠に水晶の珊瑚、イールスルラーム……ルグナバラソーム」


 呪文と共に氷漬けにされたような冷たい感覚が胸のあたりから広がり、全身が不思議な青緑色の光に包まれた。





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