四 魚の尾



 寒い──


 体を芯から凍らせるような冷たい魔法が染み込んでゆくと、段々と眠たくなるような感じがして、勇者は岩を掴んでいた手の力が抜けてずるりと水の中に落ちた。


 頭がドボンと水に浸かった瞬間、急にはっきりと目が覚めた。仲間達が水に落ちていないか、落ちていたら助けねばと身を翻し、その動作があまりにも滑らかにできたのでびっくりして自分の体を見下ろす。すると、二本の脚の代わりに大きな青い魚の尾が腰に巻いたマントの端からはみ出していた。


 顔を上げると、同じように水中で自分の尾を見下ろして不思議そうにしていた神官と目が合った。魚の尻尾が意外に似合っているのも物珍しかったが、驚いたことに髪が背中の真ん中あたりまで長く伸びている。透き通った琥珀色に時折チラチラと明るい水色の光が見える不思議な鱗をした人魚は、邪魔なマントをむしり取った勇者を目を丸くして見つめると「おやまあ、綺麗な空色ですね」とにこりとしながら言った。


 彼がごく普通に喋ってから気づいたが、水の中だというのに息ができた。といっても口や鼻から息を吸うのではなくて、胸に空気が入ってゆく感覚もしないのに、なぜか息が苦しくないのだ。おそらくだが、フリル風の髪飾りだと思っていたヴァーラとお揃いのそれが神官の耳のあたりにもひらひらしているところを見るに、あれがえらなのだろう。裂け目みたいな魚のやつじゃなくて、イモリの子供みたいなやつだ。


 塩水はちっとも目に染みなかったし、水中の視界は地上と変わらないくらいはっきりとしていた。神官がちょんちょんと上を指差して合図したのに頷き返し、尾鰭を揺らして水面に顔を出す。


「どうだい、人魚の体は」

 濡れたマントをびしゃりと岩の上に乗せていると、海の魔女がニヤッと笑って着替えらしいひらひらした布の塊を差し出しながら尋ねた。


「最高だよ。こんなに水中で自由だと思ったのは初めてだし、すごく速く泳げそうだ」

「そりゃあ良かった。怠け姫は馬鹿王子を呼びに行くとかで出てったからね、その上着を着たら外へ出て、近場で遊んで待ってな」

「わかった。ありがとう、海の魔女」


 満面の笑みで礼を言うと、魔女は少し驚いたように目を開いてちょっぴり優しい顔で笑った。やはり辛辣な物言いは表面だけで、根はいい人なようだ。

「なあに、礼はもらってるからね。こんなところで森の魔力が手に入ったのはあたしにとっても僥倖だったよ。荷物の番はしといてやるから、楽しんできな」

「おう!」


 向こうが透けそうな薄い布でできた真紅の上着は、ヴァーラの胸当てと同じ職人が作ったのか、海藻を思わせるひらひらが端の方にたくさん付いていた。腰のあたりにある背鰭にかからないようにか丈は胸の少し下あたりまでしかなく、前は開けて着るようでボタンもついていない。こんな上着で仲間達は大丈夫なのかと周囲を見回せば、勇者とは色違いのそれに一応着替えてマントは脱いでいたものの、各々腹や胸のあたりで手をそわそわさせて居心地悪そうにしている。


「おいみんな、外に出るぞ」

「はいはい、行ってきな。渦は少しの間消しといてやるからね、出たらすぐに離れるんだよ」

「ありがとう、魔女様」


 吟遊詩人が花のように笑って言い、その後ろで賢者と神官が揃って丁寧に頭を下げた。魔法使いはどこへ行ったのかと見回せば、隠れるように顎まで水に浸かって賢者と神官の間に挟まり、小さな小さな囁き声で「……ありがと」と言っていた。


 洞窟の外へ向かって、尾鰭を上下させて進む。力強く打てば打つほど速く泳げるのが面白くてどんどん泳いでいると、後ろから「待ってよ、追いつけない!」と吟遊詩人が叫んだ。


「あ、すまん」

「もう、遊ぶのは後にしてよね」


 意外なことに、仲間達の中で一番泳ぎが上手いのは神官だった。幼い頃から水には親しんできたのだと話しながら、速さはそこまでないものの、まるで生まれたときから人魚だったかのようにすいすいと泳いでいる。


 そして本当に意外なことに、皆それぞれ慣れないながらもそれなりに進んでいるなか、魔法使いだけが全く泳げていなかった。憂い顔でひらりひらりと尾をくねらせている様は美しいのだが、その場でゆらゆら揺れるばかりで、神官に手を引いてもらわないと少しも前に進めないらしい。


 そうして少しビクビクしながら渦のなくなった灰色の砂地を抜けて光差す白い海底のあたりまで来ると、勇者達はヴァーラを待ちながらようやく少し落ち着いて新しい体の具合を確かめ始めた。


 膝が無いよな……。


 最初に抱いたのはそんな感想だった。

 関節で曲がるのではなくて、背骨が長く伸びたような……滑らかにくねりはするものの、折りたたんで縮こまることはできない感覚はかなり違和感がある。尾の先にも足首のような感覚はなくて、しかしそれでも自由に動く……言葉にするのが難しいが、しっかりと尾なのだ。


 しかし腰の下に小さめのひれがあり、そこには脚のような感覚があった。ぐいぐいと揉むように触ってみると腰の骨はしっかりあって、鰭はそこから繋がっている様子だ。全体的に変な感じだが、とりあえず腰があれば座ることはできそうだと一安心する。


「膝は無いけど、尻は有るよな」

 隣で半透明の尾鰭をまじまじと眺めている賢者に小声でそう言うと、彼は信じられないという顔で振り返って「下品だぞ」と呟いた。どうやらヴァーラも含めてみな瞳と同じ色をしているらしい鱗は、そこには魔力が通らないのか黒ではなく淡い灰色だ。勇者はそういう色や人魚の骨格なんかについて賢者と話したかったが、彼はひらひらの短い上着が恥ずかしいらしく、視線を避けるように背を向けてしまう。まあ確かにあまり似合っていないというか、普段の黒ローブがあまりに似合うのでこんなに薄着だと変な感じがする。


 しかし神官は相変わらず薄っぺらい体をしていたが、似たようなものだろうと思っていた賢者は、まあかなり痩せてはいるが思ったよりも筋肉質だった。へえと腕を組んで背中を観察していると、器用に泳いでやってきた吟遊詩人に「やめなよ勇者、変態みたいだよ」と頰をつねられる。


「お前……鱗目当てに人間に狩られそうだな」

「えっ、なにその感想!? ちょっとやめてよ、信じらんない」


 吟遊詩人は、海の街ので見た緑の宝石そっくりのキラキラ輝く鱗がとにかく美しかった。蜂蜜色の金髪といい──近くで見ると意外にそこまで華奢な体格ではなかったようで少女には見えないが、遠目に見ればヴァーラよりも人魚姫っぽいかもしれない。


 ぎゅっと顔をしかめた吟遊詩人は、しかしこの状況を楽しんでいるせいかすぐに機嫌を直して、神官がゆったりと体の構造を確認するように泳いでいる方へ向かって勇者の腕を引いた。


「ほらほら見て、神官は長い髪が似合うでしょ? 魔女様ったらわかってるなあ。うん、目立つ感じの美男子じゃないけど、痩せてて青褪めた感じの色白でさ。声も細いし、鱗の色もなんか変わってるし、なんていうか病的な美しさがあって……ちょっといいよね」

「……それ、褒めてるのか?」

 あんまりな評価に勇者が眉をひそめると、吟遊詩人は「わかってないなあ」と言いながら得意げに指を振った。


「褒めてるよ! なんか戯曲が作れそうな容姿だと思わない? 余命僅かなのに窓の外の少女に恋をしてしまった悲劇の青年、みたいなやつ」

「悲劇なのかよ……それやっぱり褒めてないだろ」

「褒めてるってば!」

「わかったわかった……でもそれ、神官には言うなよ?」


 詩人らしい少年の独特な感性にやれやれと首を振ると、勇者は向こうの方でぼんやりと浮いている魔法使いの方を見遣った。


 鱗と同じ色の透けるようなひらひらがついた耳に、大きな魚の尻尾。皆同じような形の生き物に変身したはずなのに、魔法使いだけは……花の女神の祝福なのか、全く別格の存在に見えた。


 雪山に棲むという氷竜は、きっとこんな鱗の色をしているんじゃなかろうか。人魚は人魚でも、もっと北の方の冷たい海にいそうな生き物に見えた。ひんやりした氷色の鱗が真っ白な肌を飾りつけて、そこに月の光のような長い髪がふんわり揺れながら纏わりついている。ひらりと尾を揺らす度に僅かに光る星がキラキラと水中を舞って、控えめに言っても魂を奪われるような美しさだ。


 魔法使いは興味深げな顔で尾鰭を摘み、くるりと逆さまになって海面から差し込む光に透かして見たりしていたが、仲間達がぽかんと口を開けて自分を見つめていることに気がつくと、パッと恥ずかしそうに耳の先を赤くして髪で上半身を覆い隠した。


「あまり見ると……はずかしいよ」

「あ、ごめんね……でもちょっと、目が離せないや」

 呆けたように吟遊詩人が呟いたのには勇者も同感だった。これで全く泳げないのが本当に勿体無い。


 それでも、視線から逃げたいのにくねくねするばかりで逃げられない魔法使いが哀れになって、勇者は気合を入れて妖精、いや人魚……海の精霊から目をそらした。


 何か別のことを考えようと思ったところで、そういえばこの体で排泄はどうやってするのだろうとふと気になり、なんとなくあるような無いような感覚を辿って腰のあたりを見下ろす。眉をひそめてじっと見ると腹の下の方にうっすらと裂け目のようなものが見えたので、おっと思ってそこに指を突っ込んでみた。


 その瞬間、何か大きなもので激しく頭を叩かれて勇者はもんどりうった。顔を上げると、賢者がとんでもないゴミでも見つけたかのような顔をしてこちらをじっと見ている。体を捻ったような姿勢からして、どうやら尾で打たれたらしい。


「な、何だよ……」

 勇者がその鋭い視線にたじろぎながら言うと賢者はそれを無視して、困り顔でぼうふらのようにくねっている魔法使いの方へ泳いで行ってしまった。入れ替わるように神官がやってきて、さっと頭の痛みを取ってくれる。


「あのね、勇者……そこに触れるのはおそらく、下着に手を入れるようなものだと思いますよ。人前では、ちょっと」

「あ? ああ、そうか……すまん」


 とはいえ人魚姫はまだ戻ってくる様子がないし、ここにいるのは親しい男友達ばかりだ。そこまで怒るほどでもあるまいにと正直思ったが、まあ、育ちが違うのだろう。





 その後しばらく「体のことは私がおおよそわかると思います」と微笑む医者から、人魚の身体構造だとか鰓と肺をどう使い分けているのだとかの話を聞いていると、遠くから「おーい、シダルちゃーん」と呼びかけるヴァーラの声が聞こえてきた。


「ヴァーラ! お帰り」

「ただいまあ。兄様を連れてきたよう」


 そうにっこり笑った彼女の後ろからすいっと素晴らしい身のこなしで勇者達の前に進み出た人魚の王子は──変人の類は仲間達で見慣れている勇者から見ても、なかなか強烈な人柄をしているようだった。


「そなたがシダルか! 猛き人の子よ、ようこそこのメル=ラ=メルの海底王国へ! 私はガジュラ、この海の覇者を目指す男だ! このシルヴァラよりそなたが私の良き好敵手ライバルになるのではとの進言を受け、こうしてまかり越した!!」


 彼は太い声でそう叫んだかと思うと、恐ろしく鍛え上げられた腕を大きく開き、逞しい尾をぶんと振り回した。ぐわんと強い波が起きて、ぎゅっと耳を塞いだ魔法使いが泣きそうな顔で流されていった。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る