七 空駆ける獣 前編



 青い森がどんどん緑になって、薄暗い神秘的な色合いから木漏れ日が輝く明るい景色に戻ってきた。しばらくすると森を抜けて、景色は明るくて空の広い平原になる。薄紫色の花が咲いた丈の低い草が風に靡く上を、雲の影がゆっくりと動いてゆく。それを暫し立ち止まって皆で見つめた。


「ヒースの花を一房取って、賢者……」

 魔法使いがそっと囁いた。遠くを見つめながら風に髪をなびかせる姿があまりに美しかったからか、賢者が珍しく素直に花を摘んで渡してやる。妖精はその花の香りをかいで目を細め、そしてそれを自分の髪に差し込んだ。変なところに斜めに突き刺さったのを、さっと吟遊詩人が可愛らしく耳の後ろに飾り直してやる。


「風の中に、蜜の香りがするね……人はこの地を荒れ野と呼ぶけれど、こんなに美しい花畑をどうしてそのように呼ぶのだろう」

「農耕にも牧畜にも適さぬ地だからだ」

 賢者がぼそりと返した。すると魔法使いはどこか不満そうに耳を寝かせて振り返り、エルフ語で長々と何か喋る。


「──人間が都合の良いように使えないから、役に立たぬ荒野だと決めたの? やわらかな紫の花が一面に咲いていても、そこに小鹿が遊びにきても、ここは荒れた土地なの?」

 勇者の疑問の視線を受けて、賢者が翻訳してくれる。レフルスがエルフ語で何か返すと、ルーウェンは満足そうな顔になって小さく頷いた。


「で、なんて答えたんだ?」

「……そなたはどう思うかね、シダル? この地を麦も育たぬ荒れ野と取るか、一面にヒースの花しか咲くことを許されぬ神の庭園と取るか」

「案外ロマンチックなこと言うんだな、お前……」


 意外に詩的な考え方に驚いて賢者を凝視すると、彼はとても嫌そうな顔をしてふいっと踵を返し、アルザに跨った。そっけない声で「行くぞ」と言う。魔法使いはまだ景色を眺め足りないかと思ったが、早く花畑の中を歩きたいのか嬉しそうにぴょんとルシュに乗ったので、勇者達も後に続いて美しい神の花園へ踏み出した。


 きらめく陽光と風を感じながらのんびりと進むのは、とても爽やかで晴れ晴れした気分だ。しかしヴェルトルートにもそれなりに豊かな四季があると勇者は思っていたが、まさか地上の夏の日差しがこんなに熱いものだと知らなかった。頭上の梢が途切れただけで、目を開けていられないくらい眩しい。仲間達の様子を窺うと、皆俯いて目を細めたり顔の前に手をかざしたりしているが、淡青色の瞳をしている魔法使いや緑の目の吟遊詩人の方が──不思議なことに彼は目隠しをしていても眩しさを感じるらしい──茶色い瞳の神官よりも眩しげにしている気がする。なんとなくそう思った勇者は、賢者の黒を確かめようと反対側を振り返ってぎょっとした。


「賢者、どうした? 顔が真っ赤だぞ」

 影色の虹彩が目立つ目をした賢者は、魔力の関係なのかその瞼をぱっちりと開いて少しも眩しそうにしていなかったが、高熱を出したかのようにその頰が赤く染まっていた。驚いた勇者の声に神官がさっと手綱を引いて馬を寄せ、「寄るな」と嫌そうに仰け反る顔を覗き込む。


「そうですね、おおよそは日焼けですが……少し暑さにもやられていますでしょう。ねえ賢者、夏の間だけでかまいませんから、黒い服はおやめなさいな。それではマントを脱いだところでどんどん温まってしまいますよ」

「……煩い」


 彼は頑な態度だったが、少し休む必要があると勇者が強引に場を仕切り、ぽつりぽつりと生えているなかでもなるたけ大きそうな木の陰に入って馬を降りた。神官が賢者にたっぷり水を飲ませてから勇者の替えの服に着替えるよう指示を出していると、鍋に水を張って馬達に与えていた魔法使いが上の方に向かってさっと手を振った。すると頭上の木の葉にほんのり霜が降りて、さらさらとした冷気が降ってくる。


「あ、涼しい……」

 吟遊詩人がうっとりした声を出してふらふらと引き寄せられてくると、木陰にぺたんと座って目を閉じた。


「ねえ神官、僕もちょっと日焼けが痛いかも……賢者の後でいいから診てくれる?」

「おや、わかりました」

「なあ……日焼けって何だ?」


 勇者が尋ねると、神官が屈み込んで少し赤くなった吟遊詩人の頰に手を当てながらにこっとした。触れたところからスッと赤みが引いてゆくのが面白い。

「地上特有の、そうですね、軽い火傷のようなものです。太陽の光に焼かれて起こるので、日焼けというのですよ」

「へえ……日差しで火傷なあ」


 そこまでの熱さは感じないのにと日向に腕を突き出してみていると、木の向こう側でこそこそ着替えていた賢者が戻ってきた。痛々しい顔の赤みはかなり引いていたが、暑さにへばっている分は癒えていないのか頰はまだ少し上気している。しかし袖の短い緑の服になって髪を束ねると、だいぶ涼しそうになった。このひんやりした木陰で少し休めばすぐに良くなるだろう。


「──ふむ、炎に直接触れても火傷を負わぬそなたが日差し程度に焼かれると、本気で考えているのかね? 鵜呑みにする前に少し吟味するということを覚えてみてはいかがかと思うが」

 嘲るように顎を上げて見下ろしてくる。体調は悪そうだが口は元気なようだ。


「……そうだけど、それにしたって焼けるほど熱くはないよな?」

「単純に熱のみで焼かれているのではない。もっとも強い症状は光の波長によってもたらされるのだ」

「光の、波長」

 意味がわからないのでとりあえず復唱して、視線で続きを促す。


「光は実体として触れられぬが、物に影響を及ぼすことができる力を持つ。魔力と同じだ」

 そう言って賢者は足元から木の葉を一枚拾い上げ、ふっと軽く息を吹きかけた。影の色がすっと通り抜け、木の葉が燃えて灰になるように端の方から崩れてゆく。ちょっとした魔法なのだろうが、やたら絵面が怖い。

「細く波打ちながら降る光は、触れられぬものであるが故に皮膚の内側まで入り込み、そしてその波の力で皮膚の細胞を打ち壊す。それが炎症、つまりある種の火傷となって肌を赤く焼くのだ」

「じゃあ、なんで地下の太陽では日焼けしないんだ? あれも光には変わりないだろ」


 そう問うと、賢者は少しだけ口の端を上げて「良い質問だ」と言った。彼が木陰の外に手だけ伸ばすと、空中に小さな魔法陣が描かれる。すると魔法陣を透過した光が虹のような七色に染まってキラキラと輝き、目を見開いた魔法使いがさっと立ち上がって小走りに寄ってきた。


 それから賢者は、この紫色の外側にも見えないだけで色があってとか細々と説明してくれたのだが、隣に座った妖精が恍惚と瞳を潤ませて光に手を差し入れながら「綺麗だね……虹に触れたのは、初めてだよ」と感動していたので、勇者はいつもの如く目を回してしまってほとんどその話を聞けなかった。ああ、氷色の瞳に虹の色が儚く映り込んで、まるで夢のような──





 神官に優しく肩を揺すられて目を覚ますと、木に寄りかかって居心地悪そうにしている賢者の服装を吟遊詩人がじっくり眺めて批評しているところだった。隣を見ると地面に寝転がった魔法使いが飽きずに虹を触って遊んでいたので、慌てて目を逸らす。


「──上品な深緑でよく似合ってるんだけど、やっぱり勇者の服だからサイズがなあ。丈が短すぎるし、肩は余ってるし……でも黒より随分優しそうに見えるよ。今度街に行ったらそういう色のやつも買おう。暗めの色と、もっと涼しげにするなら……淡い灰色かなあ。賢者は着てみたい色とかある?」

「煩い」

「……赤は? 花のような赤色」


 魔法使いが小さな虹から顔を上げてのんびり口を挟んだ。その案に吟遊詩人が意表を突かれた顔をして首を捻る。

「うーん、黒髪だし赤は映えるだろうけど……そういう華やかな色は勇者の方が似合うんじゃない? いや、でもレタの角みたいな深い薔薇色なら凛々しくてかっこよくなるかも」


 少女のような服装談義が続くことに嫌気が差したらしく、冷ややかに聞き流していた賢者が少しずつ苛立ったように眉を引きつらせ始めた。そろそろ叩かれてしまうと思ったのは神官も同じだったのか、さりげなく話を遮ってそろそろ出発しようと声をかけている。その声で勇者が立ち上がれば、皆も荷物を背負ってそれぞれの馬を呼び寄せた。


 魔法でひんやりしていた木陰を出ると暖炉であたためられたような熱い空気がどっと襲ってきて、勇者は却って具合が悪くなるような気がした。この辺りは丈の低い木ばかりで、足元の草にまでしっかりと光が差し込んでいるその景色は美しいのだが、いかんせん森らしい涼しさに欠けている。それでも馬に乗って進めば風が心地良く、目が潰れるほど真っ白に光る日差しはそれはそれで、これが本物の夏かと思わせるきらびやかな魅力があった。


 さて、そうやって夏の暑さに気を取られていたからか、或いは勇者も熱気に少しへばっていたのだろうか、勇者が背後から近づいてくるその気配に気づいたのは、レタが首を振って警戒の声を上げてからだった。仲間達に注意を促すようなその嘶きを聞いた吟遊詩人が目隠しを引き下ろして振り返り、そして恐怖に顔を引きつらせた。


「な、何あれ……! なんか、大きい動物みたいなのが飛んでくる! 翼があって……たぶんこっちの気配に気づいてる。もう見えるところまで来るよ!」


 何か大きな獣の気配が鳥よりも高い場所から、鳥とは比べ物にならない速度で近づいてくる。そして背後の空にそれが姿を現した瞬間、賢者が鋭い声を上げて馬の腹を蹴った。

「グリフォンだ! 上を取らせるな、木の陰へ!」


 皆が速度を上げて走り出す。勇者がレタの首を叩いて「俺達は殿しんがりを行こう」と声をかけると、同意の声を上げたレタが足を止めて後ろを振り返る。そして真紅の角をきらめかせて棹立ちになると、こちらを狙っている様子の鳥のような獅子のような不思議な獣を見上げて大きく嘶いた。


 勇者の魔吼に近いような魔力の波動が周囲に広がり、高度を下げ始めていた大きな影が慌てたように羽ばたいて一角獣から距離を取るような動きを見せた。しかしそれで尻尾を巻いて逃げてゆくことはなく、上空を旋回しながら隙を窺い始める。それを見たレタが炎のような赤い瞳をぎらりとさせ、さらに怒りを強めて鋭い嘶きを放った。


「クルム、落ち着きなさい!」

 その時、レタの威嚇に驚いたらしいクルムが弾かれたように跳ねて、神官を振り落とした。木陰に入りかけていた吟遊詩人が「神官!」と叫んで馬首を返し、開けた場所まで戻ってくる。危険なことを始めたミュウに、頭上の獣からレタの意識が一瞬逸らされた。


 その瞬間、上空の獣が吟遊詩人に向かって落下するような速度で急降下した。

 勇者が指示を出すまでもなく、少年を乗せたミュウに向かってレタが角を突き出して疾走したが、時既に遅し。翼を広げた大きな金色の獣が宙を駆けるように迫り、あっという間に鳥のような前足で吟遊詩人の背を掴んで舞い上がる。背に乗せた友を奪われたミュウが焦った声で嘶いた。


「わっ! えっ! どうしよう、勇者!」

「待ってろ」


 勇者はすぐさまレタから飛び降りると、走りながら力を込めて跳躍し、グリフォンとやらに文字通り鷲掴みにされて悲鳴を上げる吟遊詩人の腰へ抱きついた。


「うわあ!」

「すまん」


 急な重みが加わった獣が大きな声で鳴いて激しく羽ばたいたが、そのまま腕を伸ばして巨大な鳥の足を掴む。近くで見ると、上半身が鷲のような顔をした金色の大きな鳥で、下半身は獅子のようになった変な生き物だった。


 凄まじい速度で眼下の景色が流れ、ぐんぐんと高度が上がってゆく。軽く体を揺すって出来るだけ吟遊詩人に体を寄せてから、腰に腕を回してしっかり抱き寄せた。こうしておけば、この獣に放り出されても落ちることはない。


「怪我ないか」

「だ、大丈夫だけど……これ、どうするの」

「とりあえず、俺にしがみついてろ。いや、服じゃなくて首に腕を回せ──いてっ!」


 バサリと翼が振るわれて大きく揺れたかと思うと、後からしがみついてきた生き物が不愉快なのか、空中で器用に前足を持ち上げたグリフォンに嘴で手の甲をついばまれた。思ったより深く抉られて勇者が顔をしかめると、吟遊詩人があわあわとなって勇者の首にぎゅっと抱きついた。


「ちょ、ちょっと! 大丈夫!?」

「はは。大丈夫、大丈夫。この程度で離したりしない」

「なに笑ってるのさ! そうじゃなくて、すごい血が出てるって!」

「俺が落ちたらお前が一人になるだろ──っと! これは、効いたな……」


 今度は獅子の後ろ足が鋭い爪で背を蹴った。ガシャンと音を立てて矢筒が割れ、空中に矢が散らばる。キラリと光りながら落ちてゆくそれらの後を追うように血が滴り落ちた。


「勇者、僕のことはいいから、降りられそうなところで飛び降りて」

 涙声を出す少年に、両手が塞がっているので首を伸ばすとコツンと額をぶつけてやる。


「なに言ってるんだ、良くないだろ……だがまあ、この辺なら丁度いいかな。よし、手を離すからしっかり掴まってろよ。揺れるけど、離したらダメだぞ」

 勇者は吟遊詩人の腰を抱いていた手を離してベルトからナイフを抜くと、友を掴んで離さない鳥の足に思いきり突き立てた。





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