六 神罰
目を開けると、視界いっぱいに人の顔が見えた。何かと思ったが、夢に介入しようとしていた賢者が勇者の額に額を合わせていたらしい。勇者が目覚めたことに気づいた彼がハッと顔を上げ、ほっとした顔で一度額と額をこつんとすると、素早く神官と場所を代わる。
「勇者、おはようございます。よく頑張りましたね、もう大丈夫ですから」
神官が優しい笑みで勇者の頭を撫でながら、魔力を巡らせて体調を確認している。清涼なその感覚が体内に沁みるのを感じながら起き上がると、そこは地下室ではなく聖泉メルのほとりだった。見回していると「ああ、この場所ですか。叡智の神の思し召しとのことでしたから、転移したのです。少しあなたの体が楽になればと思って」と神官がそっと囁いた。巨大な白い狼とその家族が少し離れたところでくつろいでいて「目覚めたか、黒狼よ」と話しかけてくる。
ああ、と話そうとしたが声が出なかった。それを見咎めた賢者が厳しい顔で勇者の隣に跪くと、額に手を当てて何やら呪文を唱える。すると何かが詰まったようになっていた喉がすっと楽になって、今度は声が出た。
「みんな……心配かけたな」
「今だってかけていますよ。まったく酷い顔色です……ほら、妖精さんを抱っこなさいな」
神官が魔法使いの肩をそっと押すと、腕の中にどさりと月色のエルフが降ってきた。妖精はぞわぞわを振りまきながら勇者の腹に腕を回してぎゅっと抱きつき、いつものゆったりした甘い声で「針葉樹……シダル。みんなここにいるよ」と囁いた。その存在が大事で、大事で……しかし彼が灰になって崩れる様子がパッと脳裏をよぎり、思わず突き放してしまう。悲しませたかと思って少し慌てたが、彼は地面に転がりながら心配そうに耳を伏せているだけだった。
「すまん……」
「大丈夫だよ。歌を聴いていれば、少しずつ落ち着くからね」
そう言われて初めて、吟遊詩人がずっとそばで歌ってくれていたことに気づいた。優しい星の歌が神域に響き、幸福の気配が身の内に入ってくるが、しかしそれもすぐに黒い靄の記憶に巻き込まれて崩れてしまう。
「……何を見たか話しなさい。一通り聞いたら、忘れさせてやる」
勇者の肩に両手をかけて目を覗き込んできた賢者が、縛るような声で言った。黒い瞳に動揺を吸い取られるように頭がぼんやりとしてきたが、しかし力なく首を振る。
「いや……これは、忘れちゃいけないことだ。全部話すけど……でも、明日でいいか? 今は少しひとりになりたい」
「話すのはそれで構いませんが、ひとりになるのは許しません。もう少し落ち着くまで、ここで吟遊詩人の歌を聴いていらっしゃい」
神官が医者の顔をしてピシャリと言った。魔法使いが両手一杯に集めた星をざらざらと勇者の膝にこぼし、小さな光がキラキラと闇の中を踊る。全身に痺れが回るような恐ろしい違和感が駆け巡った。それに口の端だけで微笑んで、ぐったりと草の上に寝転がる。
何がこんなに辛いのか、自分でもわからなかった。ラサ達の凄惨な死を悼んでいるのだろうか? 世界を救えず失意のまま滅びた魔王を哀れんでいるのだろうか? それとも自分が善良な魔王を刺し殺さねばならないことを憂いているのだろうか?
「どれだろう……いや、全部かな」
掠れた声でそれだけ言うと、神官が黙って手を握ってくれた。全て打ち明ければ彼らが共に荷を負ってくれることはわかっていたが、そしてそれをためらわないくらい勇者はもう彼らを信頼していたが、今はまだ、とても口に出せる気分ではなかった。
そして、眠れないまま朝がきた。そう、勇者があの本に囚われてからまだ一晩も経っていなかったのだ。夜の神域に日は昇らず、朝日を浴びた方が良いと明るくなった森へ連れ出される。
「朝日をしっかり浴びますとね、気持ちが楽になりますから。シダル、今は少し考えないようになさい。どうせ忘れられるようなことではないのですから、休んだって大丈夫ですよ。ヴェルトルートから北の果てまでおよそ旅路は二年、淀みが集まりきるまでにあと十数年。考える時間はたっぷりあります」
神官の言葉に、少しだけ緊張が解けた。深く息を吐いて、その時初めてずっと息を詰めるように歯を食いしばっていたと気づく。
「ちょっと、朝食の獲物を狩ってくる。でかい獣の気配がするんだ。たぶん魔獣だと思う……ああ、久々に焼いたやつを食いたいな」
「え、あの硬いお肉ですか……もう、仕方がありませんね。今日は特別ですよ? あれを噛み切れるのは貴方だけなんですからね」
「焼いたのと、スープと……両方作ればいいよ」
魔法使いがのんびりと言った。彼がそうやって喋ると勇者が落ち着くのがわかるらしく、先程からずっとエルフ語訛りで話してくれている。
そんな彼らに笑顔を作って手を上げると、矢筒を背負って森の中を駆けた。レタには乗らず、自分の脚で走った。にこっとして見送ってくれた吟遊詩人が呪布を外していたので動向を見張られてはいるのだろうが、それでもひとりになると少し気が楽になる。
そこにいたのは大きな熊型の魔獣だった。見慣れた動きをする巨体の突進を躱し、二本同時に射った矢で目を潰す。ああ、ほら。やっぱりレヌよりも俺の方が弓が上手い。あんなに下手くそなのに剣の仲間なんかに選ばれて、故郷の母親のシチューが食べたいと切なく笑いながら、黒ずんだ灰になってしまった。かわいそうに、歳はいくつだったのだろう。
急に視力を失って混乱したのか、立ち上がってもがいた
ああ、魔王も……魔王も突き刺したらこんな感触がするんだろうか──
いや、きっともっと柔らかい。細くて柔らかくて、弱くて……嫌だ……いやだ!
悲しさも辛さもぼんやりしてあまり感じられないまま、勇者の頰を涙が伝った。血に濡れた両手をじっと見下ろし、その先の聖剣を見下ろし、そしてそれを放り出したいのを耐えて、痛いほど握りしめる。
「なんで、どうして俺が……嫌だ、俺には無理だ」
魔王を殺すか、仲間を殺すか。
彼にとって選択肢は無いに等しかった。しかしそれをあっさりと割り切れるほど、彼の精神は単純にできていなかった。仲間達を思えば勇者に選ばれたくなかったとは言えないが、しかし、もう彼にはそれしか、ただ仲間を守りたいという気持ちしかなかった。
俺が、俺がシダルとしてじゃなく、ただひとりの男としてあいつらと出会って、ただ何のしがらみもなく見聞の旅をしているんなら良かったのに。ああ、逃げたい。このまま仲間を連れて逃げ出したい。使命なんか……使命なんか無ければ良かったのに!
心の中でそう叫んだ瞬間のことだった。突然全身の血液を搾り取られるような激痛が走って、勇者は地面に倒れこんだ。胸を押さえてもがき苦しむと、体から金色の光が立ち昇っているのが瞼の隙間から見えた。痛い。痛いけれど、心の方がもっと痛い。
ああ、これが神罰か。俺が使命を投げ出そうとしたから、渦の神様が怒ってるんだ──
逃げてはならない、そんなことはわかっていた。仲間の生きる世界を守りたい彼は、逃げようとは思っていなかった。それでも逃げてしまいたいと嘆くことすら許されないのだと思うと、心にじわじわと絶望が広がってゆく。
ああ、寂しい。どうして俺がこんなに苦しんでいるのに、ここには誰もいないのだろう?
勇者はなんだかさっきよりもひどくぼんやりしてきた思考の中でそう思った。どこか頭の外側では自分が馬鹿なことを考えているとわかるのに、思考がどんどん黒く濁ってゆくのを止められない。まるでそれが絶対的な真実であるかのように、思い込むのをやめられない。
みんな俺を見捨てたのかな、俺が使命を投げ出したから。「シダル」じゃなくなったから……ああ、その程度でいなくなってしまう仲間なら、いっそ今、なくしてしまった方がいいかな。
不意に体の重さがなくなって、勇者はゆっくりと身を起こした。魔力が減っていて、体の周りにきらめいていた金色の光は消えている。しかし熱い炎の気配ははっきりと残っていて、彼はそれをじっくりと全身に巡らせて力を蓄えた。
「──危ないから、下がって。あれは正気じゃない」
魔法使いの静かな囁きが聞こえた。仲間を背後に庇った美しいエルフが、鋭い目でこちらを見ながら勇者に向かって身構えている。
「シダル、シダル……! どうして、しっかりして!」
吟遊詩人が悲痛な声で叫ぶ。その口を、賢者が背後からしっかりと塞いだ。
「静かに、あまり刺激するな。火の魔力は残されているのだ、一度均衡を崩せばどう動くかわからぬ」
「ひとまず、浄化します」神官の深刻な声が聞こえた。
浄化する? 俺を? 使命を投げ出した俺の心なんか穢れているから? ああ、そうか。綺麗にしてちゃんとした勇者に戻すのか。汚れた俺なんていらないから。
神官が進み出て大きく腕を振るのが見えた瞬間、黒い怒りが全身を駆け巡って、勇者は無意識のうちに走り出していた。遮るように動いた魔法使いを真っ赤に濡れた手で払いのけようとすると、賢者が飛び出してきてそれを庇う。そのことにまた怒りが積み重なって、二人まとめて向こうの木まで弾き飛ばした。そのまま握っている聖剣で怒りの源を、「汚れた勇者」に浄化の術をかけようとしている神官を斬りつけた。
真っ赤な血が吹き出して、神官が悲鳴を上げながら地面に倒れた。
シダルの宝物が、シダル自身の手によって壊され、崩れ落ちた。
すうっと血の気が引いてゆく感覚がしたが、それも僅かな間のことだった。あたたかな血が失われたその隙間を埋めるように、淀んだ衝動が頭を塗りつぶす。
目の前が真っ暗になって、何もわからなくなった。
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