四 木陰の戦い 後編



 音を立てて折れた腕も燃え上がるマントもそのままに、歯を食いしばってフラノの前に盾の術を立ち上げたライを見て、勇者は怒りに染まった頭が急激に冷えてゆくのを感じた。


 顔の左半分をフードに燃え移った炎に焼かれながらこちらを見据えるその瞳には、虚ろな狂信を透かして確かに強い感情が宿っている。


 たたらを踏んで立ち止まり、力の抜けた拳を下ろす。庇われたフラノが飛び出すような勢いで立ち上がって、赤と金が混じり合った奇妙な色に燃えるライのマントを引き剥ぐと肩を掴んで自分の後ろに押しやった。暗い金色の髪を木漏れ日に輝かせながら手の甲で唇の端に流れる血を拭うと、穂先のない槍を構えて背後の人間を守るように姿勢を低くする。


 勇者に仲間を傷つけられまいと、審問官達が互いに庇い合いながらこちらをじっと警戒していた。


「す、すまない、そんなつもりは……俺は下がるから、早く、早く治療を」

 突然全身から血の気が引いてゆく感覚がして、勇者は一歩二歩と足を引きずるように後ずさりながらぐらりとよろめいた。自分が冷静さを失っているのは頭の片隅で認識していたが、突然行き場を失った怒りと戸惑いと、そして過去の記憶が──我が子を『狼』に近づけまいと牽制する村人の厳しい視線の記憶がごちゃまぜになって、どうして良いのかわからなくなっていた。寒い。腹の奥が、凍えるほど寒い。


「ごめん……ごめん、俺は守りたかっただけで、傷つけたかったんじゃ」

「シダル」


 そのとき耳元で低い囁き声がして、細い腕に背中を支えられた。

「私の肩に掴まって、もう少し下がりなさい。過光環の反動が出ている。ここは神官らに任せ、そなたは呼吸を落ち着けることに集中せよ」

「か、かこうかん?」

「魔力の暴走」


 賢者の肩を借りるようにして後ろに下がると、がくんと膝から力が抜けて地面に座り込んだ。冷たい手が勇者の右手を軽く握り込むと、少しひんやりした魔力が傷跡を通って体内に入り込んでくる。淡い影のようなそれが少しずつ流れを整えるように全身を巡るにつれて、いつの間にか浅くなっていた呼吸が静まり、芯を失ったようになっていた精神が元の形に戻っていった。


「──速やかに神殿へ帰還し、手当を受けなさい。それとも私の術による癒しを望みますか、火の第二異端審問官ライよ」


 勇者と入れ替わるように前へ進み出て、武器を構えた敵に怯むことなく冴え冴えとした声で述べる神官は、聖職者というよりも神の使いのように見えた。出会った時の神官服と違ってその服装は簡素で旅の魔術師といった風情なのに、彼が立っているだけでなぜか天から光が差し込んでその心を照らしているような、そんな感覚を抱くのだ。


 ただ、敵の目前に立たせるには極端に心だけが強い男だが……護衛のように引き連れたエルフがミシミシと地面に氷の結晶を育てながら威嚇しているので、ひとまずは大丈夫だろう。

「……この気温で冷やされてはいますが、火傷の治療は早い方がいい。その腕も、相当痛むでしょう。ほら、異端者の私に触れられるのが嫌でしたら、早くお帰りなさいな」


 続けて発された敵を心配するような言葉には隣の賢者が目を閉じて眉間に指先を押し当てたが、しかし勇者はそんな神官の心根に助けられたような気がしていた。地面に片膝をついているライは顔の半分に酷い火傷を負い、両の腕は奇妙な方向に曲がってしまっている。自分が彼に何をしてしまったのかまざまざと見せつけられ、胸が締め付けられるように痛んだ。早く、一秒でも早く手当てを受けてほしい。


 そしてそう強く思うと同時に、あれだけ激しい戦いを繰り広げておきながら自分は人を傷つける覚悟など全くできていなかったのだと、勇者は己が情けなくなった。


「──フラノ、神殿への帰還許可を。審判の場が穢された以上、まずはこの愚か者について裁定が必要だ」

 藤の木に雁字搦めにされた審問官を槍の先で指しながら背の高い女性の審問官が言えば、フラノが頷いて構えていた槍の柄を下げ、後ろに下がると意識を失いかけているライの肩に手を回した。


「此度は保留となるが、汝らの審判は必ず成し遂げられねばならない。我々とて無益な戦いは望まぬゆえ、次に相見えるそれまでに、よく悔い改めておくことだ」

 冷たい声でそう言って踵を返した女審問官が森の奥に去れば、ライを抱えたフラノと、拘束された男を藤の木から少々強引に引きずり出した審問官が次々に薄暗い木陰の向こうに消えてゆく。最後に残ったハイロが丁寧に一礼して姿を消すと、しんと静まり返った森の向こうから、僅かに街の喧騒が聞こえてきた。





 木立の向こうから大きな魔力の気配がして、審問官達は全員転移したと千里眼の少年が報告すると、勇者達はどっと息をついてその場にへたり込んだ。ずっと我慢していたらしく、くしゃりと顔を歪めた吟遊詩人が飛びつくように神官を抱きしめて泣きじゃくる。


「ごめん、ごめんね神官……ぼくが、一番にっ、き、気づいて、たのに」

「おやおや。私のせいで怪我をさせてしまいましたのに、あなたは本当に優しい子ですね。こちらこそ、守ろうとしてくださってありがとうございます」

「でも、僕にもっと、ゆ、勇気が、あれば」

「ほらほら、私はこうして無事なのですから、何ひとつ後悔するようなことはありませんよ。少しずつでいいんです。北の果てまで、まだ先は長いのですから」


 少年の金髪を優しく撫でて慰めている神官を、勇者が抱えた膝に頭を乗せたままぼんやり見ていた。すると藤の木をさらに成長させて近くの木に絡ませてやっていた魔法使いが、そっと近寄ってきて勇者の頭を撫でる。……ぼうっとしているようで、よく見ている奴だ。


「どうして……悲しんでいるの?」

「……審問官の傷がさ、気になって」

 勇者は思い切って心を重くしている原因を打ち明けたが、しかし妖精はそれを聞いて不思議そうに首を傾げた。

「……気にしても、仕方がないよ。群れを脅かす……生き物は、排除しないと」


 そのために周囲の気温を下げたのだと、普段の優しくてどこか幼気な様子からは想像がつかないような言葉を吐いた魔法使いに、勇者はきょとんと目を丸くして膝にもたせかけていた顔を上げた。少し驚いたが、気のせいかいつもよりほんの少し冷たく見える無表情に、心に巣食っていた罪悪感がふっと軽くなる。


「……俺はまだ、人を傷つける覚悟が決まっていなかったみたいでさ。でも、お前のおかげで少し気が楽になった」

「よかった。フルーンは、針葉樹を……捕食しようと、していたから……ちゃんと、追い払わないと」

「いや、食おうとはしてないだろ……フルーン?」


 エルフ語か? と思いながら首を傾げると、魔法使いは困ったようにその言葉を繰り返した。

「フルーン……」


 妖精が後ろを振り返ると、疲れた様子で木に寄り掛かっていた賢者が頼るような視線を受け止めて淡々と言う。

「フラノ」

 なんということだろう、審問官の名だった。

「……フルヌ」

 それだ、という感じで言い直した魔法使いに「いや、言えてないぞ」と言うと、ぴくりと耳で返事をされた。


「補足するならば、捕食プレダルではなく賊害マリダルだ」

 話を聞いていたらしい賢者が言い間違いを訂正すると、魔法使いはこてんと首を横に倒す。どうも話が逸れてきたが、今は少し気分転換も必要だろうと勇者は話題が流れるままに任せることにした。


「じゃあ……フレータルは、何?」

「ラーイラーナ」

「ラーイラーナ……マーリタル」

「そうだ。『殺そうと』でも良いが」

「ファールシュキール」

「バルザ・ギール」

「ファルーサ、キール」

「……まあ良かろう」


 訛りが強くて聞き取りにくいこともあるが、魔法使いの歌うような喋り方は聞いているだけで美しく、のんびりした語調にこわばった心が解されてゆく。

「……魔法使い、どうせならフルヌよりフルーンの方が可愛いと思うよ」

 どうやら泣き止んだらしい吟遊詩人が勇者の隣に座ると、目の周りを真っ赤にしたまま少し笑って会話に加わった。誰よりも傷つきやすい心を持ちながら誰よりもたくさん笑っている勇敢な少年の背を軽く叩くと、ふふっとやわらかな声と共に小さく体当たりされた。


「……フルーン」

「そう、今度呼んでみるといいよ。『フルーン……やめて。ぼくの、針葉樹シダールを……食べないで』うん、これで行こう」

「確かに……魔法使いからそんな風に言われたら、勇者を襲うなんてかわいそうでとてもできません」

「……神官よ。いやに真剣な面持ちだが、まさか本気ではあるまいな」

「……もしかして、冗談でしたか?」


 そんな会話を聞いているうちに、膝をきつく抱えていた腕は解かれ、勇者はいつのまにか体の前に足を投げ出して笑い声を上げていた。

 勿論全ての悩みが消えたわけではないが、胸に残ったのは耐えられる大きさの痛みだった。孤独でないというだけで、激昂して人を酷く傷つけた勇者に彼らがこうして変わらず笑顔を向けてくれるだけで、勇者は俯かず真っ直ぐに前を見ていられるのだった。


 だがしかし、これで終わりではない。敵を退けたとはいえ、それは一時のことだ。勇者は再び現れる彼らにどう対峙してゆくか──敵を生かすのか、殺すのか、そういうことを考えていかねばならなかった。誰も傷つけたくないという思いだけで動けば、きっと仲間を守りきれない。


 深い悩みであったが、しかしシダルには仲間がいる。誰よりも深い知恵を持った賢者レフルスに、強く清廉な神官ロサラス、人間とは違う自然に近い感性を持った魔法使いルーウェンに、そんな彼らの意見を勇者の価値観に擦り合わせてくれる繊細な吟遊詩人ルシナル


 それを思えばその重荷は、真っ直ぐ立ったままに背負える重さだった。勇者は冗談のような会話を繰り広げる仲間達にもうひとしきり笑うと、腕を伸ばして地面に転がった武器やベルトを拾い上げ、爽やかな気持ちで彼らに相談を持ちかけた。


 審問官達とどう戦っていくかも大切だが、まずはそう……ヒビの入った聖剣をどうするか。話はそれからだ。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る