十 温泉
宿は山の麓に近い場所だったので、そうして話しているうちにすぐ帰り着いた。濡れたり乾いたりを繰り返していたので体を温めなさいと言われ、溶岩で熱された地下水が湧いているという温泉のひとつに向かう。一応仲間達も誘ってみたのだが、潔癖の賢者は「公衆浴場なぞ……」と微妙に青褪めながら身震いし、魔法使いは長い髪の毛を体の前にかき集めながら恥ずかしがり、神官は火の祝福が強過ぎて体に合わないと首を振った──が、なんと意外なことに吟遊詩人がついてきた。
「お前……着替えだって木の陰でしてるのに、風呂なんて大丈夫か?」
勇者が尋ねると、妖精は迷うように翅をぷるぷるさせながら「あー」とか「うーん」とかあっちこっち視線を彷徨わせた。
「……賢者と神官が人前で着替えないのはさ、受けてる教育のせいだと思うんだよね。賢者は貴族生まれだし、神殿も礼儀作法は近いような感じだって聞いたことあるから」
「へえ、よく知ってるな」
「塔の魔術師って貴族出身が結構多いんだよ。入って日が浅いとさ、着替えを手伝って欲しいけど慣れた使用人以外に見られたくないとか言う手間のかかる人が、たまにいるんだよね。無視して自分で着替えさせるんだけど。高貴な人達は、誰彼と気安く肌を見せたりしちゃいけないんだって。それこそ魔法使いじゃないけど、腕まくりだって恥ずかしがるの」
「ふうん」
賢者は高貴というより魔王だが、確かに生家はかなり身分が高いらしい。単なる恥ずかしがり屋じゃなかったのかと感心していると、少年がおずおずと本題を口にした。
「で、僕はさ、なんていうか……」
そうやってもじもじしていると女の子にしか見えなくて、勇者は苦笑いすると風呂場に人間の先客がいないことを祈った。ガーズから特別空いている場所を聞いてあるのだが、大丈夫だろうか。たぶん、こいつが男用の浴場に入って行ったら驚かれる。
「僕、運動しても全然筋肉がつかない体質でさ。勇者よりよっぽど鍛錬積んできてるはずなのに細くて、恥ずかしかったんだけど……まあ、妖精ならいいかなって」
意外と男らしい理由だった。こいつが筋肉の量なんて気にしているとは知らなくて、目を瞬かせる。
「……お前、実は人魚に憧れてたのか?」
「そんな訳ないじゃん! 僕が憧れてるのは、違う、なんでもない!」
バタバタと翅を暴れさせているのが可愛くて頭を撫でようとすると、すごい勢いで振り払われた。
「うーん、華奢に見えるのは勿論妖精だからってのもあるだろうが……お前は基本的に筋力よりばねで動いてるからな。でかい筋肉はかえって邪魔だと思うぞ? ラガットだって強いけど、しなやかな体してたろ」
「……ラガットって何」
妖精がぶすっと唇を尖らせて聞く。
「神官が『猫ちゃん』って呼んでたでかいやつ」
「ああ、あれね」
不貞腐れた顔に向かって「だから自信持て」と頷いてやったが、顔を赤くして怒っている吟遊詩人はツンとそっぽを向いて返事をしなかった。
やっぱり、怒ると猫だな……。
そんなことを考えていると知られたら更に怒るに決まっているので、フードで顔を隠すと見えてきた建物を指差す。
「ほら、たぶんあれだ」
「……ほんとにあれ?」
「あそこが一番空いてるらしい」
「そりゃそうだろうね……縄梯子も何もない崖の上だもの」
妖精は馬鹿にしたように言ってからきらめく緑の翅を広げ「先行ってるよ!」と飛び去った。勇者が崖を登り切った頃には既に建物……というか目隠しのための掘っ立て小屋のようなものを覗き込んで、打って変わって嬉しそうに「誰もいないみたい!」と言っている。
「あれだな……風呂に入っても崖を降りるときに汚れるから、人気がないんだな……」
「いや、絶対違うと思う」
一度扉を閉めてから、男用であることを示す波線が描いてあることを確かめ、改めて中に入る。この三本の波線はガーズ曰く髭を表しているらしく、女の方は線の先がまとまっていてリボンが描かれているらしい。
木屋の中はといえば、一方の壁がまるごとぽっかり空いていて、岩のくぼみに湯が溜まっているのがそのまま見えた。明かりはないが、妖精の翅が光っているので問題ない。風呂は高い木の柵で囲まれていて、外から見えないようになっている。屋根があるのは脱衣所だけだが、あいにく今日は曇っていて見上げても星は見えなかった。
「へえ、ドワーフの男の人用って言うから散らかり放題かと思ったけど、綺麗にしてるんだね」
背の低い棚の縁をそっと指で拭って吟遊詩人が言う。指先に埃はつかなかったようだ。
「温泉はゴドナの恵みだから、塵ひとつ触れさせないらしい。体も丁寧に洗ってから入るんだと。浄化をかけてもらってから来たけど、俺は崖登りで砂がついたから一回清める」
棚の中に服を脱いでぶち込みながら言うと、吟遊詩人がふむふむと頷いた。
「なるほどねえ……お風呂っていうより、入浴も兼ねて祝福をもらうって感じなのかな。大事に入ろう……」
着替えるのが恥ずかしいらしく話しながら翅をもぞもぞさせていたが、勇者はお年頃だなあと思いながら放っておいた。海の国でガジュが肩の盛り上がり具合を見せつけてきた時もどうでも良かったが、そもそも勇者は内炎体質なので、筋肉のつき方になどさして興味がない。まあ吟遊詩人については……強いて言えば、見かけより薄っぺらくないというのと、書架の国の図書館で裸の妖精の絵を見たなあと思い出したくらいだ。画家が題材にするくらいなので美しいは美しいのだが、しかし芸術にそこまで興味もないのでやっぱりどうでもいい。
さっさと脱衣所を出て、濡らした布で念入りに崖に触れた体を清めた。そしてその布を着替えを入れた棚に放り込むと、小さく祈りの言葉を唱えてから少し赤っぽい色をしている湯の中に滑り込む。思ったより熱い。
「おい、湯につけて大丈夫なのか?」
吟遊詩人が翅ごとどっぷり浸かっているのを見てたじたじとなっていると、蜂の妖精はきょとんとして背中を振り返った。
「えっ……気にしてなかったけど、別に大丈夫じゃない? どうにかなったら神官がなんとかしてくれるでしょ。ちょうちょの治療は得意だって言ってたし」
「ええ? いや、そんな楽観的な……ちょっと見せてみろ」
後ろを向かせて確認したが、特に縮んでしまったりしている様子はなかった。むしろ湯に含まれる火の魔力に反応するのか、炎色の光が大きく踊っていて、いつもより調子が良さそうに見える。
ほっと一安心して、岩に寄りかかると目を閉じて火の祝福を味わった。こうして水の中に火の祝福が溶けているというのは非常に珍しいらしく、賢者も小さな湧き水……湧き湯?を見つけた時は楽しそうに指を突っ込んでいたのを思い出す。中に入ると良くわかるが、人魚のように反発して爆発するような力を溜め込んでいるのとは全然違っていて──普段は気の合わない火の神と水の神も、時々はこんな風に寄り添って昼寝をしたりするのだろうかというような気持ちにさせられる。たぶんだが、この湯なら神官が浸かっても痛みを感じたりはしないだろう。
丁寧に丁寧に水と混ざり合った火は、焚き火に当たるよりもずっと親密に身体中を温めて、全身の余計な力を抜いてくれる。しかし火と水がそれぞれ良いところを生かしているのではなく、なんだか火の力で癒されているような不思議な感じだ。一体どうして、ここではこんなことが起きているのだろう。勇者の火と渦も、もしかしてこんな風に──
「その右肩の入れ墨、凄いよね。炎模様かな? かっこいいけど、痛くなかったの?」
退屈したらしい吟遊詩人が話しかけてきて、ぼんやり眠りそうになっていた勇者はハッと我に返った。一瞬視線を空に投げて言われたことを思い出し、首を振る。
「……いや、全然。ちょっとちくちくするけど、それだけだ」
「あ、うん。グリフォンに蹴られても笑ってられる君に聞いたのが間違いだった」
こういう台詞を得意げに言ってくるあたりやっぱり思春期だなあと思いつつ、はいはいと笑って聞いてやる。
「右肩のはな、バッラヴァーダの尾の炎なんだ。神の遣いのしるしを刻むことで、神がいつも共におられるって、そういう感じだ。アサの民は成人する時にみんな入れる」
「じゃあ、子供には無いんだ?」
「入れ墨は消せないからな。体がある程度成長してからじゃないと、絵柄が変に伸びたりするだろ? だから子供のは、ガンジュナっていう草の染料で親が描いてやるんだ。それだと洗っても数日は消えないからな。大抵は母親だが、俺のは父さんが描いてた……母さんはとにかく絵が下手でさ、狩人だったんだが、顔の紋様も父さんに手伝ってもらってたな」
思い出すとなんだか涙が出そうになってきて、両手で湯を掬うと顔にバシャンとかける。吟遊詩人にばれたかと思ったが、彼は勇者の背中側に回って入れ墨の紋様をまじまじと見ていたので気づかなかったようだ。
「顔とか腕は、なんで入れ墨じゃなくて顔料で描いてるの? 痛いから?」
「いや、だから痛くねえって。顔とかのは狩人だけで……こう、毎朝指で炎の紋を描くことで、気合を入れてる。神の加護をこの身に宿し、勇気をもって獣に立ち向かう。皆の食料を手に入れて、村を守るってな」
「そんな大事な文化なのに、塔を出る時はやめてて大丈夫だったの?」
次々と質問してくるあたり、吟遊詩人も大概好奇心旺盛だと思う。それか賢者の癖が移ったか、どっちかだ。
「俺は内側に消えない炎を持ってるって、旅立つ前に賢者に教えてもらったからな。やっぱ何となく起き抜けに気合が入るから今は描いてるけど、別にこれが無くたって俺は同じだけお前達を守るし、世界も救うさ」
「……うん。君ならそうだろうね」
宝石のような妖精の瞳に憧れの色を乗せて見つめられると、結構照れ臭い。もしかして体の鍛え具合にこだわったのは勇者の真似をしたかったのだろうかと思い当たって、可愛い弟だなあと和む。
「ふふ、兄さんとおんなじが良かったのか?」
「は? いきなり何言ってんの?」
ひどく冷たい目で見られた。がっくりと岩にへばりつくと、一体こいつは何を考えているんだという訝しげな様子でじろじろ見てくる。その顔を見て、ますます落ち込んだ。
火持ちの二人で入っていたらいつまでも心地良いだけでのぼせないので、頃合いを見てゴツゴツした天然の浴槽を出た。吟遊詩人が翅を震わせて水滴を飛ばしているのを見ながら、丸めて押し込んである服を棚から取り出す。風呂上がりに億劫だが、これから秋の終わりの冷え込んだ空気のなか、結構な断崖絶壁を這い降りることになる。よく考えたら温まるために来たのに、宿に戻る頃にはすっかり身体が冷えるに違いないと気づいてため息をついた。
そして勇者は、面倒だなあと考えながらのろのろしていたせいで珍しく足を滑らせ、明かりもない真っ暗な崖の中腹から落下した。幸い上手く沼に落ちたので酷い怪我は追わなかったものの、爆笑している妖精の後をついて、全身ずぶ濡れの冷たい泥だらけになって宿に帰ったのだった。
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