番外編 深い過ち(ロド視点)
「合図をしたら、真っ直ぐに駆けていって勇者の胸を貫く──それだけだ。厄介な障害は私を含めた周囲が片付けてくれる。汝は真っ直ぐ走れば良い。わかっているな、ロド?」
「はい、ダナエス神殿長猊下」
恭しく頭を下げると神殿長が微笑みを浮かべて頷き、傍らのカイラーナが優しく言った。
「そう、貴方が世界をあるべき姿へと導く鍵となるのです。立派ですよ、ロド。ソロが知れば喜ぶでしょう」
「恐れ入ります」
嬉しさと切なさで複雑な思いになりながら、ロドは笑みを浮かべた。殉教したソロを思い出すと、今でも胸が痛む。彼は強くて、厳しくて、孤独な人だった。誰より強く理想を掲げていて、理想の信仰を貫くためならば味方にさえ刃を向ける。そうして仲間を失っても決して心を曲げない孤高の姿に、自分が彼の仲間でいたいと思った。格好良くて、憧れていた。
「敬愛するソロと別たれて寂しく思うだろうが、嘆くことはない。汝が使命を成し遂げれば、人の世の終末まで残り十数年だ。天の国での再会は近い」
「はい」
神殿長の言葉に少し慰められて、頷く。命をかけて異端と戦った彼は、きっと今ごろ気の神の下で傷を癒され、ロド達を見守っているだろう。ロドが勇者に審判を下せば、厳しいあの人は褒めてくれるだろうか。
「来ました、猊下!」
転移陣の中央でじっと目を閉じて待機していたルザレが、鋭い声を上げた。その合図で皆がさっと自分の足元を見下ろし、円環の中に入っているかどうか確かめる。
「参ろうか」
神殿長が微笑むと、円の外側に並べられた数十個の黒い魔石が一斉に透明に変わった。祝福が吹き上がり、深い影が周囲を取り巻く。
「ル=エルム=ヴェルトル=スクラダール」
ルザレが唱えると祝福の気配が強くなり、ロドは激しい怒りが燃え上がるのを感じた。使命を成すのに必要な、火の神の与えし信念の炎だ。ああ、転移の魔術なんて、本当は使いたくない。ソロを殺したあの男の穢れた魔術なんて、今にも壊してしまいたい。どうして誰も、転移の顕現陣を作り出せないのだろうか? 賢者の魔術なんて、魔術なんて──
いや、それでも我慢して利用せねばならない。ロドは深呼吸してそう思い直した。信仰を貫くためには手段を選ばない、そんな強い信念をロドはソロから受け継いだのだから。
しっかりと地に足のつく感触がして目を開けると、そこには異端者達が並んで審判を待っていた。勇者と剣伴だけでなく、ロドとログを除く火の審問団もだ。あろうことか異端者に感化され、異端に堕ちた異端審問官。嘆かわしいにも程がある。フラノの苛烈な強さを尊敬していたのに、彼の槍はすっかりなまくらになってしまった。
とその時、ビリっと稲妻が走るような恐怖を感じてロドは総毛立った。真っ青な光を放つ勇者の鋭い視線が、彼の上をついと滑ったのだ。それはすぐに隣のログに移り、そして神殿長へと向けられたのに、視線がぶつかったその一瞬だけで腰が抜けるような心地がした。
あんな、勇者とは、あんな目をする男だったろうか?
しかしロドが自分に喝を入れ直している間にも、神殿長は悠々とその鮮烈な青い視線を受け止め、微笑んでいた。落ち着いて指示を出し、そしてあっという間に監察者が制圧される。それに激昂した破壊者が凄まじい闇の力でルザレを粉砕して血の気が引いたが、神殿長らにとっては想定内であったらしい。神殿騎士団に忍ばせてあったこちらの手の者に一言「やれ」と言うだけで、破壊者までをも倒してしまった。
「凄い……」
神殿長の背中を見ながら呟くと、ログに咎めるような視線を向けられた。
悠長にそんなことを考えていたロドの世界が一変してしまったのは、その直後のことだった。
「ル・グル=アシアラ」
どこか禍々しい響きのその呪文が唱えられる声を、その後に見た光景を、ロドはこの先一生忘れることができないだろう。ダナエスの側近で、いつも穏やかで優しい気の神殿長カイラーナが、人ではない何かに変えられてゆくのを、息をするのも忘れて見つめた。
音もなく、白い肌の内側が青黒く染まった。筋肉が盛り上がり、顔立ちがわからなくなるまで顔が歪んで、膨らんで──
ああ、間違った。
私は、間違っていたんだ。
唐突に、思考にかけられていた殻が割れるように、全てが鮮明に見えるようになった。
カイラーナの流す黒い涙、それを目にする神殿長の笑みの醜悪さ、周囲を取り巻く深い淀み──そして、敵であるはずのオークを痛ましそうに見つめる、勇者の瞳の澄んだ空色。
次の瞬間には、何が起きたかわからなかった。カイラーナの背に短剣を突き立てていたはずのダナエスがなぜか目の前にいて、そしてロドの腕を掴んでこちらに小瓶を振りかぶっている。
「──ロド!」
鋭い囁き声が耳元でして、ダナエスは真っ赤な光に弾かれてロドから手を離し、たたらを踏んだ。
「下がれ。ロドには指一本触れさせぬ!」
双子の弟の両眼が、炎のように燃えていた。今まで強さらしい強さなんて一度も見せたことのない彼が、全身から赤い霊気を立ち昇らせ、まるでフラノのような気迫を漂わせてダナエスを睨みつけている。
「……ログ?」
「……汝は必ず私が守る。そのために私は、弱き心を持ちながらも祝福を授かったのだ」
ダナエスを睨んだまま、押し殺した声でログが言った。心の弱さなんて微塵も感じさせない、寒気がするような鋭い声で。
その時凄まじい炎の祝福の気配がして、ふたりは振り返った。見たことのない形をした顕現陣の通路のようなものが、青い炎をきらめかせながらこちらに伸びてくる。ダナエスが妨害しようと指を伸ばし、そしてなんと、その指が光になって半分消し飛んだ。
「──来い!」
フラノの怒鳴り声がした。あの人があんなに大きな声を出すのを初めて聞いた。あんなに必死な顔をしているところも。
ログがその声に反応した。ロドとルファの手をさっと掴み、陣の中に駆け込んでゆく。三人並んで駆けたので、肩が青い炎にぶつかった。肝が冷えたが、熱さを感じるだけで服が焦げもしない。彼らの後ろにダナエスの命を受けた気の神官がひとり駆け込もうとして、陣の内側に一歩足を踏み入れた途端、全身が金の光に変わって消え失せた。
「ロド! ログ!!」
正面から、泣き叫ぶようなガレの声が聞こえた。通路を走り抜けた途端に、ログと纏めて力一杯両腕で抱きしめられる。
「よく帰ってきた」
右の頬にガレの頰が触れて、耳元でそう囁かれた。触れている箇所があたたかくて、唐突に涙がこぼれる。強く抱かれたせいかあまりに息が苦しくて、死んでしまいそうだ。
「ロド」
安堵が滲むような低い声がした。見上げると、鮮やかな空色がこちらを覗き込んでいる。美しいその色を見ると途端に自分がひどく穢れているものに感じて、目を逸らす。
熱い手が額に当てられた。思わず息を呑むくらい優しい触れ方だ。内炎術を他者から与えられているような不思議な感触がして、身体中の重く黒い何かが浄化されてゆくのを感じた。すうっと意識が遠のいて、へなへなと地面に倒れこむ。ログに肩を支えられ、それに奇妙な安心感を得て、弟に体重を預けた。ガレに手を握られて、祝福が受け渡されると少し気分が良くなる。
薄くなった意識の中でどうにか視線を上げると、微笑んだ勇者が「よく帰ってきたな」と呟いて、ロドの髪をくしゃりと撫でる。そして踵を返し、座り込んでいるルファの方へ歩いていった。頭を撫でられるのなんて何年ぶりだろう。孤独で棘だらけのソロに憧れていた気持ちがぼんやりと遠くなって、たった今、まるでロドの兄か何かのような愛情深い目をした男の背を、じっと見つめる。
「……異端なのは、私の方だったのだろうか」
掠れた声で呟くと、ログが「そうだね、私はそう思う」と小さく言った。
「償える、だろうか」
「心から悔い改めるなら……償いきれない罪なんてないって、ライが言っていたよ。私も、半分手伝う」
「……半分」
「私はロドの片割れだから」
家族の顔で、ログが笑った。心が通じ合わぬとロドがずっと感じていたのは、どうやらロドの目が曇っていたからであったようだ。冷静で優しく勇敢な、ロドに無い部分を埋めてくれる、無二の存在だと今は感じる。
ポンと後ろから頭に手を乗せられて、見上げるとフラノだった。通り過ぎざまにロドの頭に触れて、ルファの浄化を終えた勇者と並んで敵の方へ向かってゆく。彼がなまくらになったなんて、全くの思い違いだった。鋭い金の瞳も槍先で燃える炎も、全てが以前よりずっと凄絶な気配を纏っている。ただ彼の方がロドより先に真実に気づいたからこそ、誤った審判を下す手が緩められただけだった。
そこからは、ただ守られているだけだった。ライの作る守護分界の中央に移動させられると、正面に立ち塞がるようにガレが立ち、後ろには賢者と妖精達が控えて周囲を警戒した。
「──権限を譲れ、ライ!」
体の中心が冷えるような不思議な響きの声がして、賢者がライに素早く駆け寄った。叩きつけるように分界の円環紋に触れ、一瞬で術の権限を奪い取ると、次の瞬間には周囲を覆う紋様の全てが書き換わっていた。一瞬意識を飛ばしていたのかと錯覚するくらい、いきなり全部がだ。
「魔力を」
指示を受ける前に、エルフが走り出していた。賢者が奪った権限を更に奪い直し、凄まじい速度で三重分界が銀色に塗り変わって輝く。眩しいくらいに光る、顕現陣とも魔法陣ともつかない紋様が、なんと魔竜の爪を軽々と弾き返した。こんな強度のある守護の陣が存在するなんて、聞いたこともない。
ああ、この人は天才だ──
はっきりわかって、そしてため息をついた。
あの時に見た賢者の魔法は、今目にしているような緻密に計算し尽くされたものには程遠かった。こんな火の術を編み出せる人間が、瞬時に触れた相手の命を奪える気の審問官の術を知らないはずがない。魔竜が襲ってくるようなこの緊迫した状況下で、眉ひとつ動かさず無表情を貫く男なのだ。隙を見せるふりをしようと、あんな喉が潰れるような悲鳴を演技で上げたりはしないだろう。ソロは賢者の穢れた謀略にかかったのではなく、脚を落とされ意識を乗っ取られる苦痛から本能的に身を守ろうとしたこの男に、精神力で負けてしまったのだ。
そう考えると敬愛していたはずの男が途端にひどく淀んだ存在に思えて、ロドは静かに涙した。魔竜の咆哮に怯えたエルフを抱き寄せる賢者の誠実な灰色の瞳を見て、今まで積み上げてきた復讐心が突き崩され、消えゆくのを感じる。
けれど──
けれど、ロドの憧れたソロの姿はそのまま、憧れたままで心にしまっておきたいとそう思った。孤独に信念を貫く彼の在り方は、方向さえ違えなければきっと、世界を救うようなものになっただろう。彼がもし勇者の側についていれば、誰より頼もしい味方になったろう。自分ひとりだけでも、そう信じていたい。それだけは誤った感情ではないと……そう、思いたい。
そうして思考と後悔と苦悩をこねくり回しながら見ていると、なんとエルフを引き連れた勇者が漆黒の竜の背にひらりと飛び乗った。しなやかな身のこなしで易々と、隷属の術も使わずに魔竜に騎乗し、空中から炎の矢を射かける姿はなかなか格好いいなと思って、そんな思考ができることを不思議に思う。わくわくするような心の動きが阻害されず、頭がすっきりしていて──それ故に、自らの所業が強く胸を抉る。
「……ロドも結構、うじうじ悩む
俯いて右手で左手の指先を弄んでいると、ログがそんなことを言った。
「え?」
「私達、思ったより顔以外も似ているなって」
「そうか?」
また、家族の目をしている。それに戸惑い混じりの笑みを返すと、白い炎の槍に貫かれて倒れ伏したダナエスの姿を見つめた。淀みを振り撒き、仲間を全員使い潰して、そして金色の光になって消えてゆく。あれだけのオークを生み出した男の死に様としては、美しすぎるように感じた。
◇
そして全てが終わって、ロドとルファは監察者の手で神殿に連行されることになった。ずっと共に行動してきたと思っていたログはなんと、フラノ達との間で二重密偵のようなことをしていたらしい。彼はこの場に残ることを許されたが、しかし片割れはきっぱりと首を振った。
「私も共に参ります。私はロドを守り、彼の使命を助けるための存在ですから」
「……ログ」
感動して呟いた、その時だった。
突然がっしりと両肩を掴まれ、ぐりんと力強く体の向きを変えられる。目の前に、涙で潤んだ勇者の青い瞳があった。
「……え」
「なあ、なあ……夢じゃないよな?」
「は?」
「──ハイロちゃんに口づけされたのが夢みたいで信じられないんだって」
疲れた声で、しかし楽しそうにフェアリが口を挟んだ。ぽかんとしたが、とりあえず尋ねられたことには答える。
「……ああ、確かにされていたぞ。私も見た」
「本当に? 本当に夢じゃないんだな? うわ、うわぁ……」
肩を掴んでいた勇者が一瞬手を離して両手で顔を覆うとじたばたし、と思うと今度はロドのマントの首のあたりを片腕で引き寄せ、肩を組んでにっこりと「なあロド……お前ロドだよな? 俺、今すごい幸せだ」と言った。ついさっきまでダナエスの手の者として敵対していた彼へ、空色の瞳がまるで家族のような気安さで微笑みかける。
「……勇者殿、私は」
「ブライテルじゃなくて、シダルって呼んでくれよ」
「……シダル」
「なあ、俺は北に向かうから、神殿をよろしくな? 淀みが晴れてもさ、人間が病んでたらまた同じことの繰り返しなんだ。俺は世界を救うから、人間のことは任せたぞ」
「……は、い」
涙が溢れて、手の甲で目をこすった。胸の奥があたたかくて苦しくて、そしてひどくひどく痛い。
「なあ……それで、本当に夢じゃないよな?」
緩んだ笑みで語りかけてくるシダルに、微笑んで涙声で返す。
「ああ、夢ではない。だからこそシダル……この現実を、世界を、任せた」
(第六部「北の果て」より)
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