五 青の広間 後編



 瞬きふたつ分くらいの間勇者は絶句したが、苦しそうなアルハロードを刺激しないように、できるだけ穏やかな声でそっと尋ねた。

「……それは、お前を」


「命乞いじゃないよ……レヴィエル様がそう仰るんだ」

 遮るようにそう言った渦の王の言葉に、勇者が眉を寄せる。渦の神がそう言うとは、どういうことだろうか。


渦神かしんが、何と? それは神託か? かの神はどのような立場におられる? 仔細に述べなさい」

 じっと見守っていた賢者が身を乗り出して、厳しい声で畳みかけるように問うた。するとアルハロードはビクッとして青いクッションを強く抱きしめ、魔王が妖精をいじめているような光景に苦笑した神官が黒尽くめの彼の背を軽く叩く。すると若干気まずそうな顔になった賢者が彼にしては優しい声で「詳しく聞かせてくれるか」と言い直し、内気な妖精もそれで少し落ち着いたのか、再び弱々しい声に戻りながらも話し始めた。


「ルディ達には内緒なのだけど……もう、ここ十年くらいかな。ずっと渦の神と神託が繋がっているような状態なんだ。命の蓋……ええと、人の言葉だと魔力経路の端っこが全部開いて、天の国と繋がってる」

「十年って……体は大丈夫なのですか?」


 話の流れを遮って神官が声を上げた。確かに、あの恐ろしく苦しい神託の状態が十年も続いたら……いや、人間ならば三日と保たずに死んでしまうだろう。彼がそんな状況にあると知って勇者も心配になったが、しかしアルハロードは特に苦しみを隠している様子もなく静かに頷いた。


「うん、平気……僕の体は特別製だから。今も淀みが胸の中で、こう、なんて言うんだろう……凝縮されすぎて何もかも吸い寄せる闇の穴みたいになってしまっているけれど……それでもまだ飽和していない。それに、淀みを除けば僕は『鍵』、つまり聖剣でしか死なないし、決して正気も失わないんだ。ううん、首を落としたら死ぬかもしれないけれど、攻撃しようとしても魔力圧で守られるの。変でしょう、こんなの生き物じゃないよね……」

「いや、かっこいい。強くて」


 口を挟むと、アルハロードはローブの布を口元まで引っ張り上げて「……そうかな」と伏し目がちになった。そうしていると長い睫毛がぱちぱちしているのが目立って、余計にか弱く見える。百五十歳とか言っていたが、渦の民の基準ではまだ子供なのかもしれない。


「……それでね、どこから話そうかな」

「十年前から。初めて神託を与えられた時、何を知らされた?」


 賢者が丁寧に促す。勇者が「こいつは賢いから、多少支離滅裂になっても大丈夫だ」と言うと、アルハロードは少し安心したような顔をして頷いた。そして胸に手を当てて悲しそうに、しかし大切そうに言う。


「初めに……おまえを死なせたくないって、心が届いたんだ」





 アルハロードの話は、自信なさげな態度とは裏腹によく整理されていてわかりやすかった。初めに「聖剣を鍛えたのは渦の神だと人の子の間には伝わっているようだけれど、そうじゃないんだ」と語った彼はまず、人の生み出す淀みに頭を悩ませる神々ついて神話を語ってくれた。


「それがいつからだったかはわからないけれど、神々がどんなに心を込めて祝福を与えても、あるいは厳しく神罰を与えても……人の争いは止まらず、世界はどんどん淀んでいった。そして神々の長子である火の女神が父である創造神に助けを求め、生み出されたのが渦の神なんだ」


 善悪の均衡を司る渦神として生まれたレヴィエルは、悪の方に傾きすぎた世界の均衡を保つため、人の悪意を浄化できる生物を生み出した。それが金色の魔力を持つ渦の民であり、スタグバラードである。しかし彼らが世界中に散らばって淀みを浄化してもまだ、人の憎しみを消し去ることはできなかった。むしろ人は淀みの濃い場所に現れる彼らを恐れ、憎み、彼らこそが悪であると口々に叫んで、淀んだ正義を振りかざして彼らを殺し始めた。知能の高い渦の民は人を避けて北の地に逃げ、人が憎み怯えれば餌を吐き出すと学習したスタグバラードはより強く大きく、恐ろしい姿に変じるよう進化した。


「結果、淀みは減るどころか増えてしまった。それをご覧になっていた創造神と、最高神を妻として支える破壊の女神は、特別な力を持った渦の民を造られるよう渦の神に命じられた」


 淡々と、アルハロードが語る。弱々しかった声が段々と明瞭になり、それとは反対に瞳がぼんやりし始めた。ガラス玉ともまた違う、まるで神託を通して神の国を覗き見ているような、そんなどこか遠くを見る目だ。


「そして……強い強い渦の力、世界中の淀みを全部集められる力を持った渦の子供をひとり犠牲にすることで、世界が救われる──そんなことわりが生み出された。創造神はひとつの命を犠牲にする罰として、人の子もひとつの命を差し出すよう命じられた。最も優しい心を持った価値ある人の子の心を潰し、再び地上に美しい世界を創り出す……そんな破壊と創造が表裏一体となるための『鍵』として、光と闇の神々は、特別器用な手を持った鍛冶妖精に聖剣を鍛えさせた……でも」


 でも、レヴィエル様はとても心優しい神様だった。アルハロードはそう言って、腹に抱えていたクッションを下ろし、玉座から立ち上がると考え事をするように遠くを見ながら歩き始めた。その歩みはゆったりとしていて、つい先程まで椅子と壁の隙間に挟まって震えていた気弱さは少しも感じられない。彼は天井の青空を見上げて手を伸ばし、そしてどうせ届かないと諦めたようにその手をストンと下ろす。


「レヴィエル様はご自身の被造物をとても愛しておられた。スタグバラード達があんなに柔らかく愛らしいのも、渦の民達がキラキラ光る美しい目をしているのも、彼らがみな不老長寿なのも、全て神の愛の形だ。神はずっと苦しんでおられた。敬愛する父君から命じられても、愛する渦の民の子供を、何の罪もない善良な子供を人間に殺させるなんて、耐え難かった。長い長い時をかけて、渦の神は段々と、人間を憎むようになっていかれた」


「──そしてついに、渦の神が選定の席を外す時がきた。憎悪が敬愛を超え、レヴィエル神は今、父神ふしんへと歯向かってご自身の被造物を守ろうとなさっている」

 賢者が後を継いで言った。アルハロードが腰までの長い灰色の髪を揺らして振り返り、頷く。

「そう。この十年で、僕の中にある淀みの核が少しずつ緩み、薄まっているのを感じる。我が神は集まった淀みを、全て霧散させるおつもりだ……そうすれば世界は浄化されぬが、僕は生き残る」


「ならば、なぜ渦神はシダルに加護をお与えになっている?」

 考え込む間もなく、すぐに賢者が尋ねた。確かにと思って、勇者も頷く。しかし、聞かされた世界の真実はまだ勇者の中で消化しきれていなかった。全てを聞いてから考えようと、ひとまず忍び寄る絶望を蹴りつけて心の隅に押し込む。


「彼が生まれた時は、まだ『勇者』を立てる気があった。だからできるだけ優しく、そして強い心を持って育ちそうな子供を選び、渦の王の死を少しでも清らかで安らかにしようと加護を授けた」

 次第に神自身が話しているような気配を漂わせながら、アルハロードが言った。声が不自然に遠くから響いてくるように聞こえ、どこまでが彼で、どこからが神なのかわからない。彼を通して皆の言葉が渦の神へ届いていることを感じて、妖精達が恐れるように肩をすぼめ、水の神との対話に慣れている神官が彼らの肩をそっと支えた。


「フランヴェールによって勇者に選ばれた彼から祝福を取り上げなかったのは、彼に新たな使命を授けようと考えたからだ……シダル、君は人間達を大穴の底、君の故郷ヴェルトルートへ逃がすための愛し子だ」

 金の瞳が勇者へ向けられ、そして優しく微笑んだ。

「守りたい、愛しい人がいるのだろう? 君は優しさ故に、人を見捨てられないのだろう? レヴィエル様は人を憎みこそすれ、滅んでしまえとまでは考えておられない。シダル、すぐにここを離れて、地上の人間達をヴェルトルートへ逃がしなさい。地上の淀みはもう濃くなりすぎていて、このままでは再び争いの果てに全てが滅ぶ未来がくる。そうなる前に、人の中でも善良な者達を集め、地下の世界にかくまいなさい」


 背筋を凍らせる冷気と共に、場が神聖な気配に沈んだ。神託の手が少しずつ勇者にも伸ばされ、指先が頬に触れる。全ての音が──ゆったりとこちらへ歩いてくるアルハロードの足音も、隣に佇む賢者の息遣いも、吟遊詩人の翅が震える音も全てが消えて、ただ遠くから、少し幼くて優しげな声だけが響く。


「ヴェルトルートはある種の異界だ。地底であるにも関わらず、重く沈んでゆく淀みから守られる、隔離された世界。世界の運命とは切り離された場所なのだ。シダルよ、汝は愛しい者らとそこで細々と生きてゆくがいい。集められた人の子らはいつか、争いの果てに善良さを見出し、一時の平和が訪れ、そして再びそれを忘れて争い──人は未来永劫、そうして生きてゆくだろう。しかし、それで良いのだ。それが彼らのさがだというのならば、彼らに相応しい閉塞した小さな世界で、争い合って生きれば良い。世界を妖精や動物や植物達、数多の善きものに明け渡し、地下の世界で淀みと共に封じ込められて生きてゆけば良いのだ」


「それはできない」


 神の気配に圧倒されているはずなのに、不思議とすんなり声が出た。勇者は歩み寄った仲間達に支えられながら、しかし自分ではそれに気づけないまま、どこも見ていない瞳に青い炎を燃え立たせて続けた。


「エルフのルーウェン、一角獣のレタ、人魚のガジュ、ドワーフのガーズ、竜のロギアスタドーラ……他にも俺にはたくさんの友ができた。素晴らしい生き物とたくさん出会って、彼らの多様な価値観と生き様を見て、俺は世界の広さと美しさを知った。村で孤独だった時よりずっと、世界が大事になった。そんな彼らと一緒に生きていくって気持ちを失ったら、人はもう二度と善の方向へ戻れないと思う。与えられた命と未来をそんな風に投げ出すのは、俺の『信念』に反するんだ」


 勇者の中をごうごうと炎が巡り、瞳が強い空色の光を放った。そんな色を見たアルハロードが一瞬ハッと目を見開いて、すぐに虚ろに澄んだ奇妙な表情へ戻る。



  使命を投げ出すか、人の子よ



 もう渦の王の声も聞こえない。ただ神の意思だけが勇者の心に届く。


「レヴィエル様、俺はあなたに与えられた使命を全うできない。俺には神の御心みこころに反してでも、守りたいものがあるから」


 覚悟はなかったが、貫ける信念はあった。


 勇気が足りずとも、足を踏み出せる愛があった。



  ならば汝は最早、渦神の愛し子にあらず

  我が神の望みに仇なす神敵よ

  その命でもって罪をあがな



 アルハロードが言った瞬間、仲間達が勇者の前に躍り出た。賢者が盾をかざし、神官が杖を掲げ、魔法使いがしっかりと勇者を抱きしめ、吟遊詩人が翅を広げて瞳を光らせた。


 しかし、彼らのそんな行動は意味を成さなかった。凄まじい魔力の気配が一瞬で場を支配し、愕然とするエルフの腕の中で、勇者が悲鳴を上げて膝から崩れ落ちた。





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