番外編 銀の夜(吟遊詩人視点)



 全ての淀みが浄化され、魔王を救って、晴れ渡る空を背にした勇者が言った。

「寂しくなるが……ここでさよならだな」


 そして悲しげに微笑んで、自分の頭を撫でる。吟遊詩人は驚いて目を丸くすると尋ねた。

「えっ、どうして? 僕のこと、弟だと思ってくれてたんじゃないの」


 すると勇者が言う。

「今でも思ってるさ。でも、お前は妖精だから……妖精の国に帰らないと。俺とは生きる世界が違うんだ」


 叩きつけられた絶望に俯いてから顔を上げると、書架の国だった。彼の帰りを涙を浮かべて喜んでくれたミロルの表情が困惑にかげる。吟遊詩人の背中の翅をじっと見つめて、小さく「綺麗ね……」と呟いた後、その瞳からふっと恋情の色が消えた。


「人間じゃなかったのね、フィルル……どうして教えてくれなかったの」

流星雨ルーシュナール、起きて」





 ハッと目を覚ますと、暗闇の中にキラキラと星を光らせた魔法使いが「怖い夢を見たね」と優しく吟遊詩人の頭を撫でていた。もぞもぞ起き上がると、手を引いて天幕の外へ連れ出される。銀色に輝く砂漠の上には、今にも降ってきそうな満天の星空。きりりと冷えた空気が今は心地良い。


「フェアリの里から帰ってから、毎日うなされているね」


 魔法使いが静かなエルフ語で言う。『フェアリの里』なんて初めて聞く単語なのに、なぜかその意味がはっきりと理解できた。そしてそれを理解するのに魔力が動いているのを感じて、それが妖精の魔法なのだろうと思うと──


「気づいてたの」

 エルフ語で返す。発音が上手くなっているのを感じる。悪夢の名残か、今はそんな自分がひどく不気味で恐ろしい。


「人間でありたかった?」

 突然核心を突かれてしまって、答えに詰まった。


「……神官に、何か言われた?」

「何も。けれど……君はその美しい翅を広げる度、少しだけ、恐れるような瞳をするから」


 なんてことだ。「もしかして、みんな気づいてるのかな」と顔をしかめて呟く。

繊月ルーフルーは見ていないと思う。針葉樹シダールは知っているかもしれないね」


 それを聞いて、妖精になった彼を何の抵抗もなく受け入れてくれた仲間達に申し訳なくて、唇を嚙む。


「……みんなの話を聞いて安心したのは本当なんだ。飛ぶのは楽しいし、時間をかければ翅のことは気にならなくなると思う。でも……もう皆とは違う生き物になってしまったと思うと……」

「苦しい?」


 そっと尋ねられて、俯いたまま首を横に振る。揺れる三つ編みがぼさぼさになっているのを見つけて、リボンを解くと無言で編み直した。そんな吟遊詩人の頭を、魔法使いが手を伸ばしてくしゃくしゃにかき回す。


「あっ、もう……また編み直しだよ」

 無理に明るい声を出して見上げると、魔法使いは凪いだ目をしてゆったりと吟遊詩人を見つめた。顔は上げておきなさいと言われた気がして、胸がギュッとなる。


「可愛いフィルル。同じ生き物でなくとも……愛の量に変わりはないよ。同じところがあればお揃いだねと、違うところがあれば自分に無いものを持っているねと、そうやって愛するだけだ。以前までと少し形が変わったとしても、そこに良し悪しはない。幸福の量も変わらない」

「……君みたいに、心から前向きになれればいいんだけど」

「まだ、妖精としての自分が馴染んでいないのだね」


 静かに囁いて、魔法使いが立ち上がった。振り返って、深い藍色に銀の星が煌々と光る美しい空を見上げる。夜は銀髪に見える髪がさらりと風になびいて、魔力の星が一層キラキラした。


「硬く冷たく光を通さない岩の中にも、鮮やかに透き通る宝石が眠っているかもしれない……そう考えると、見渡す限り全ての石に、大地に、希望を見出すだろう? 花の妖精が愛を知っているように、大地の女神が生んだ宝石の妖精は希望を知っているはずだよ。もう少しすれば、君にも必ず見えるようになる」


 少し教えてあげようか、と囁いた魔法使いが一歩踏み出した。と、その足元からみるみるうちに澄んだ水が湧き出したのを見て、吟遊詩人は目を丸くする。


 コポコポと小さな音を立てて生まれた銀色の水たまりに、エルフが一粒の種をぽとりと落とした。すると見る間にその種が芽吹き、葉を広げ、するすると伸びて一本の大きな木になる。広がった枝から一斉に白い花が咲いて、実を結び、ざあっと葉が枯れて散った。その後を追うようにして、太く高い立派な木から瑞々しい魔力の光が失われ、どこか物悲しく立ち枯れる。地面を埋め尽くすような葉が急速に朽ちて──いつの間にか、砂ばかりの地面がしっとりした土に変わっていた。魔法使いが枯れた木の幹にそっと触れ、地面の上に残された果実を拾って大切そうに懐へしまった。


「この木は砂漠で生きられる種ではないけれど、特別土を豊かにするからね。さて、何を植えようか。紫ヒース、カラスヤシ、ミズブクロ……サボテンの種は持っていないな。地下水はもう少し多い方がいいね……」


 もう一歩二歩と進むと地面から湧く水の量が増えて、結構な広さの泉ができた。その周囲に種が落とされると、瞬く間に木が育ち、茂みが生まれ、星明かりの下に美しいオアシスが出来上がってゆく。実はまだ夢の続きを見ているのだろうかと、少年は目をこすって幾度も瞬いた。


「……人とは違うだろう、フィルル」


 唖然としてその光景を見つめていた吟遊詩人を振り返って、エルフのマーリアルが言う。


「妖精であるというのはこういうことだよ。彼らと僕達では、与えられた祝福の質も、きっと見えているものもまるで違う……君も妖精になって魔力が増しただろう? これから時間をかけて、勇者を、神官を超え、段々と人の域を抜けてゆくよ」


 一言話す度に広がる銀色の魔力に呼応して、蜂の翅がざあっと波打つように光った。緑の中に赤い炎が混ざり合ったこの世のものならぬ色を見下ろして、そして目の前の美しい妖精に視線を戻す。


「……生きる世界が違うと、そう感じることはないの」


 何の迷いもなく、すぐに答えが返ってきた。

「違うかもしれないね。けれど違うからこそ、僕は愛する人に新しい世界を見せてあげられる。誰よりも物知りな彼が一人では行くことのできない場所へ、連れて行ってあげられる」


 確かに賢者ならばそんな異質さを喜びそうだと考えて、少しだけ笑顔になった。不思議なものが大好きな勇者もきっと、未知の世界を自分から遠ざけるのではなく、喜んでそこへ飛び込んでゆくのだろう。


「恐れるんじゃなく、妖精としての己を生かせと……そういうこと?」


 尋ねると、エルフは「少し違うかな」と首を振った。

「人であろうとしなくても、君はそのままの君で特別な価値があると、そういうこと」


 そして続けて言う。

「番への愛を至上とするエルフと違って、フェアリは群れの豊かさを一番大切にする生き物だ。だからフェアリの魔法は、周囲の皆を明るくするものばかり……そして、君の群れはこの仲間達だ。君が、君の力で群れを幸せにできるように……異界の大地は君の中のフェアリの血を目覚めさせたのだと、そう思うよ」

「……うん」


 特にどの言葉にどう納得したとかいうことではなく、花の妖精が全身から発している愛情の深さに触れて、吟遊詩人はにっこりした。いつのまにか悪夢の残滓はすっかり消え去っていて、この美しい夜の情景を見ていると、なんとなくもうあの夢は二度と見ないのではないかと、そういう気がする。


 緑翅のフェアリの中で何かがカチリとあるべき場所に収まったのを感じたのか、魔法使いも少し安心したようにもう一度彼の頭を撫で、口元に薄っすらと笑みを浮かべた。


「……妖精と人間が違っているように、僕と君もできることが違う。フェアリのやり方は僕には真似できないけれど……エルフがどうやって大切な人を幸せにするか、今から見せてあげよう」

「えっ」

「そこで見ておいで」


 きょとんとしている吟遊詩人の前を通り過ぎながら、魔法使いがさっと手を振る。すると吟遊詩人の体に巻きつくように星が踊って、一瞬で姿がかき消えた。擬態の魔法だ。どうやら隠れて見ておくようにということらしい。


 エルフが天幕の入り口の布をくぐる。そしてどうもいつの間にか魔法の力で眠っているらしい仲間達の間を歩いて賢者の上に屈み込むと、額に手を触れながらそっと呼びかけた。


「ルーフルー、起きて」


 ふっと魔法が解けたように、賢者が目を覚ました。不思議そうに起き上がって、常になく神秘的な妖精らしさを表に出した魔法使いをじっと見る。いつも眉間にしわを寄せているこの学者は銀の妖精と二人きりだとこんなに無防備な目をするのかと、吟遊詩人は驚きながら両手で口元を覆ってにやついた。


「……どうした? 何か気に入った星でも見つけたか」


 発されたエルフ語の問いは流石に流暢だが、今の吟遊詩人には彼の発音に少しだけヴェルトルート語の訛りが混ざっているのが聞き取れた。歌うような甘いエルフ語に見え隠れする硬質な響きは禁欲的な雰囲気の友に似合っていると思って、ふむふむと頷く。普段は完全に情緒が死んでいる彼も、こうして少し眠たげにエルフ語で話しているとなかなか魅力的かもしれない。


「おいで、星が綺麗だよ」

「……ああ」


 差し出された手を立ち上がるほんの少しの間だけ握って、マントを羽織った賢者が天幕の外に出てきた。オアシスに様変わりしている周囲の光景に驚き、星を映す泉の輝きに見惚れ、美しい夜空を見上げると幸福そうにため息をつく。自分のことばかり気になってしまう吟遊詩人と違って、こうして相手の喜びを繊細に察して与えられるのがエルフの愛なのだなと感心した、その時だった。


「シラ、僕の繊月」


 魔法使いが賢者の瞳をじっと覗き込んで名を呼び、手を伸ばして痩せた頰をそっと撫でた。それを見ていた賢者の視線が途端に虚ろになって、すうっと虹彩から魔力の色が抜けて灰色になり、ふらふらしながら地面に座り込む。


「……え」


 思わず声を出してしまったが、賢者がそれに気づく様子はない。魔法使いが隣に跪いて両腕を広げると、彼はぼんやりした様子で応えるように腕を伸ばした。愛する人をぎゅっと抱きしめ、エルフが囁く。


「幸せかい?」

「ああ、この上なく……」


 妖精の背にそっと腕を回して、喘ぐように賢者が言った。熱っぽい瞳だが、情熱というよりは高熱に浮かされているような感じだ。すると、それに頷いた魔法使いが自慢げに耳を立てながら吟遊詩人を振り返って言う。


「ほら」


 何と言ったら良いのだろうか。


「……いや、ほらって言われても……何やってるのさ。せっかく一緒に星を見るまではいい感じに恋人っぽかったのに、台無しじゃない」

「えっ……」


 魔法使いが動揺してぺたんと耳を倒し、その拍子に凄まじい威力の魅了が引っ込んだのか、賢者が我に返ったように顔を上げた。地面にへたりこみながら魔法使いに抱きついている状況に絶句して、さっと腕を引っ込めると視線を深くする。地獄の番人も逃げ出しそうな目だ。


「……口づけする?」

「しない!」


 妖精の問いかけに割り込むような勢いで、賢者が鋭い声を上げた。じわじわと耳が赤くなってゆくのが、星明かりでもわかる。賢い彼はすぐさまこの状況が目の前のエルフの仕業だと気づいて、厳しい説教が始まった。魔法使いが倒れた耳を更に寝かせて項垂れ、このままでは擬態を解かれてしまうのも時間の問題だと、吟遊詩人はそうっと足音を立てずに天幕の中に戻った。魔法使いの耳はぴくりとしたが、賢者には悟られずに済んだようだ。あの人嫌いな天文学者をからかって遊ぶのは面白いが、今のを見られていたと知ったら流石に心を閉ざしてしまうだろう。悪戯は見極めが大切なのだ。


 危ないところだったと深く息を吐き出して、自分の寝床に潜り込む。気配に反応した勇者が何かむにゃむにゃと寝言を言い、反対側から転がってきた神官に脚を乗せられて「うっ」と呻いた。それをひとしきり笑ってから目を閉じる。


 結局「妖精らしいやり方」というのは何の参考にもならなかったが、しかしあんなへんてこで突拍子もないエルフのことを大好きで仕方がない賢者を見ていると、種族の違いなんて何の壁にもならないなと、吟遊詩人はなんだかとても安心したのだった。




(第四部「試練と恋」より)





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