番外編 ウルの温泉(ハイロ視点)
何もかもが丸っこく小さくて可愛らしいが、一晩過ごすと少し目眩がするくらい傾いた宿だった。二階、三階、四階と上る度に傾く角度が違い、その違いでこの建物は崩れずにバランスを保っているようだ。
ハイロは溜まった疲労に小さくため息をついて、小さな丸窓から外の景色を覗いた。十五階建ての七階、一階層ごとの天井は低いとはいえ、結構な高さである。角度のせいで崖から下を覗き込むような気分になった。風の力で高所からでも緩やかに飛び降りられるハイロでなければ、かなり怖い風景ではなかろうか。三階上に泊まっているシダル達は大丈夫だろうか。
縦に力一杯引き伸ばされたような細い人影が看板に描かれたこの場所は、この
ここ数日で少しずつ鍛冶妖精達に話を聞いたところ、どうやら彼らは余程の変わり者でない限り金属細工以外には全く興味がないようだ。専業の大工はおらず、建物は大工を名乗る寄せ集めの素人が、寄せ集めの材料で行き当たりばったりに建てているとのことだ。
「……ハイロ?」
部屋を出てガタガタの階段に差し掛かったあたりで、上の階から下りてきたシダルに声をかけられた。
「おや、シダル。貴方の夜明けに水の恵みを」
「ああ、おはよう。お前もこの宿に?」
「ええ」
それなら一緒に食事をしよう、と彼が甘い声で言うのに苦笑し、背を向けて階段を下りる。
「なあ、この街は肉料理ばっかりだろ? 部屋で野菜のスープ作るからお前も食べに来いよ、毎食」
「流石に毎食は遠慮します。貴方が良くても、部外者が頻繁に出入りすれば皆様が疲れますでしょう」
「お前なら大丈夫だよ。賢者も普通にしてるし、妖精達にも懐かれてるし」
「おや、そうですか」
ちらっと振り返って口の端だけで笑ったが、実を言うとその言葉はかなり嬉しかった。まるで家族のように受け入れてくれる剣伴達との時間を居心地良く思いながらも、気の置けない仲間との時間を邪魔しているのではないかと、少しだけ気にしていたのだ。食事の時間には何か手土産を持って彼らの部屋を訪れてみようかと、僅かに足取りを軽くしながら考える。
「えらく朝早いけど、買い出し……じゃないよな。まだどこも開いてないし。お前も散歩か?」
シダルに話しかけられて、半分だけ振り返った。
「いえ、今のうちに温泉を試してみようかと思いまして。ドワーフ達は朝が遅いようですから、早朝ならばほぼ貸切で入浴できると聞いたので」
「……風呂」
「シダルも行きますか? 崖を登らずとも、清潔で空いている場所をご案内しますよ」
「は!?」
バンと大きな音がして振り返ると、シダルが梁に頭をぶつけて呻いていた。階段はところどころハイロでも少し屈まなければならないほど天井の低い場所があるのだ。
「大丈夫ですか」
「……ああ」
ぶつけたのは頭なのに、なぜか片手でしっかり覆っているのは鼻と口だ。あと、顔が真っ赤になっている。
「それは……ハイロ、一緒にって、それはダメだろ」
声が半分裏返っている。腕を組んで、少し考えた。
「……ふむ、もしや混浴なさるおつもりでしたか?」
「ばっ! ……か、違う、お前……馬鹿っ!」
足を滑らせたシダルがけたたましく階段を落ちていったので、ひょいと跳んで避けた。
「違いましたか、それは大変失礼しました。俗世の殿方ですから、時にはそういう考えに至ることも有り得るのかと」
「黙れ……」
階段下の床に倒れたまま動かなくなったシダルの全身をさっと診て、怪我はなさそうだと判断すると頷いて宿の入口の方へ顔を向けた。
「そこで休んでいかれるのでしたら、私はお先に失礼します」
「……ハイロの馬鹿」
もごもごと罵られたので、肩を竦めてその場を後にする。しかし宿を出てから、俯いてマントの刺繍が少しほつれている部分を指先でいじった。不躾な質問をして、怒らせてしまっただろうか。せっかく抱えきれないくらいの友愛を与えてくれると言ったのに、ハイロを嫌いになってしまうだろうか。
唇を噛んで背筋を伸ばすと、踵を返して早足に宿へ戻った。入口の戸を開けようとしたところで急に扉が開き、驚いた顔のシダルがぶつかりそうになったハイロを片腕で受け止めた。
「どうした、忘れ物か?」
「……シダル」
少し声が震えてしまったので、胸に手を当てて深呼吸する。
「ん?」
優しい声だ。そして、優しい人だ。あんなに酷いことを言ったのに、少しも不機嫌そうにしていない。
「シダル……申し訳ありません。私は愚かにも、貴方の誇りを汚すような口を利きました。何なりと、罰をお与えください」
「ば、罰? いや……いいよそんなの。気にしてないというか、わりと図星だし……」
「嫌いになりませんか?」
勇気を出して見上げると、シダルは困った顔で「おい……泣くなって」と言った。
「大丈夫だ、嫌いにならない。俺だけじゃなく、仲間達みんなだ。その程度でどうこうなるほど仲間の絆っていうのは希薄なものじゃないって──お前は、早くわかるようになれ」
少々乱暴に頭を撫でられて、乱れた前髪が幾筋も顔にかかった。
「……はい」
「……そうだな。一緒に行こうか、温泉」
「はい」
手早く髪を束ね直して、とぼとぼと大通りを歩く。地面は踏み固められた土の場所と、石畳の場所と、溶岩が固まっている場所と様々だ。本当に、武器や細工物以外はこだわりがないらしい。
早朝の街は普段のごちゃごちゃと活気あふれる様子が嘘のように静まり返っていて、冷えた空気の向こうに煙を上げる火山が見える。頂上付近がぼうっと赤く染まって見えるのは、神域の夕陽だろうか? それとも聖炎の紅色が反射しているのだろうか?
「街が静かだと、火山が神秘的に見えるな」
シダルがそっと言うのに頷いてから、見えてきた目的の建物を指差す。少し高台にあるその温泉からは、ゴドナ火山がよく見えるらしい。
「確かに崖じゃないが……やっぱり空いてるところは道が整備されてないのな」
「この程度でしたら、シダルなら容易いでしょう」
なだらかな岩山を見上げて言う。
「俺はまあそうだが、神官は抱えてやらないと厳しいかもな。あいつらも一度くらい連れていってやりたいんだが……やっぱり恥ずかしがるかな? 早朝のうちにとなると、一人ずつ順番に入る時間まではないし……」
「一日あたりお一人ずつ入れば良いのでは?」
「あ、なるほど。それなら賢者以外は入れそうだ」
「レフルス以外……」
「あいつ潔癖だから、浄化装置のない公衆浴場は気持ち悪いんだと」
「火の祝福泉に浄化陣はご法度ですものね。とはいえ湧き水ですし、妖精達の健康を損なうようなものは火の祝福で殺菌されているかと思いますが……」
話しながら岩山を登り、小さな小屋の扉を眺める。髭模様にリボンが結ばれている方が女性用だ。
「では」
「ああ。出る時は呼んでくれ。一緒に帰るだろ?」
「……はい」
扉を開け、身を屈めて狭い入り口を通り抜ける。腰の高さくらいまでの低い棚に、着替えを入れるための磨かれた木箱が並んでいる。ここの棚は、宿と違ってとても丁寧に作られている様子だ。
衣服をとって箱に入れ、なんとなくそわそわしながら陣に気の魔力だけを通して全身を清め、湯の方へ向かう。神殿の大浴場は湯船に浄化の術が巡っているので、湯浴み着を来たまま入浴する。冷えた空気が肌に触れると、誰もいないとはいえどうしても背中を丸めて周囲の気配を窺ってしまう。
小屋を出ると大きな岩のへこみに湯が溜まっていて、男湯との境目が木の衝立で区切られていた。木目が美しい丁寧な造りの壁が隙間なく周囲を囲んでいるが、水面の上だけは湯に触れぬよう僅かに隙間を開けて横切っている。ドワーフの建造物とは思えぬ精緻な造りだ。
整えられているのは、ここが火の女神の祝福を得る場所だからだろう。神殿建築にその時代の最高峰の技術が用いられるのと同じだ。敬愛する神のためには技術を惜しまない、そういうところは人間も妖精も変わらないらしい──
そんなことを考えながら、つま先を少しだけ湯に触れさせる。かなり熱いが、ハイロは火持ちなので心地良く入れそうだ。そうっと腰まで浸かって、すぐに深くなっている奥の方へ移動すると、頰を緩めて肩まで祝福に浸す。
「……我が神の姉にして美しき紅の女神フランヴェールよ、この祝福を得られた運命に感謝いたします。我が力は勇者シダルと剣伴を守るために、彼らの使命を助けるために、大切に使うと誓います」
いつもより少しだけくつろいだ祈りを呟くと、隣で体を拭いていたシダルが入浴したらしく、ざぶりと音がして水面が揺れた。と、その瞬間、湯が一瞬だけきらりと夕陽色に輝いて目を見張る。
きっと、愛し子への祝福だ。
「……シダル」
「──は、ハイロ?」
立ち上がって声をかけると、湿った壁面にほわんと反響した声が返ってきた。なぜか声音が奇妙に弱々しいが。
「シダル、今──」
「はっ、ハイ、ハイロ! あんまりこっちに寄るな! 脚が見えてる!」
「ああ、失礼しました」
目を瞬いて、ざぶざぶと壁に近寄るのをやめて少し距離を取る。透明度の高い澄んだ湯を見つめ、湯の中に異物を浸けぬよう設計された衝立を見る。そして両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。
「……し、シダル」
「……何だ」
少し掠れて憂いを帯びた声が返ってくる。ああ、また困らせてしまった。
「今、貴方が湯に入った時……湯が夕陽の色にきらめいたのが見えました。今は早朝なのに。きっと火の女神が愛し子の訪れを喜んでいらっしゃるのです。祝福を受け取って、感謝の祈りを捧げておくと良いでしょう」
「……わかった。ありがとう」
今度は落ち着いた、真摯な声がした。背筋が震えが走るくらい研ぎ澄まされた、真っ直ぐなその声をもう一度聞きたいとぼんやり思い、自分は一体何をと顎まで湯に沈む。
心を落ち着けながら湯の心地良さを味わっていると、金色の朝焼けが薄らいで日差しが明るくなり始めた。そろそろ早起きなドワーフは活動を始める頃合いだと思い、人が来る前にここを出ることにする。
「シダル、私はそろそろ上がります」
「ああ、俺もすぐ行く」
すぐ返事が返ってくることに少し微笑んで、這い上がるように岩を登って湯から出る。一度振り返り、美しい祝福へ丁寧に頭を下げてから服を着て、よく拭いた髪を後ろで縛るとフードを被って隠す。
扉を開けるとシダルが既に待っていて、朝食を買って帰ろうと誘われた。岩山を降りて街に戻ると、ちらほら店が開き始めている。果物屋に立ち寄って新鮮な林檎と、それから見たことのない淡い虹色をした細長い果実と、棘だらけの堅い殻に覆われた黄色の果実を購入した。
「……意外と、変なの買うんだな」
「未知を知へと変えるのが、気の神官としての私の務めですので」
「へえ……賢者はとりあえず変なものは俺に食わせてみるけど、お前もそうするか?」
「……ええと、それは」
返答に困る問いかけだ。レフルスは神殿出身なのに、
「それ、ロサラスは何も言わないのですか」
「『ふふっ』って笑ってる」
「そうですか……」
そうですかとしか言いようがなかったが、なんとなく納得できない思いを抱えたまま宿に帰った。朝食前に果物を剥こうとしたが、殻のある方は全くナイフが通らず、困っているとシダルが横から取り上げて、なんと聖剣を使って皮を剥き始める。一応感謝を伝えはしたが、どうにもそれでいいのかという思いが抜けず、難しい顔になっていたらしい。楽しげに翅をひらひらさせたフェアリから「大丈夫、そのうち慣れるよ」と幾分いいかげんに励まされてしまった。
少し迷ってから自分で試食した果物は、どちらも変な味がした。
(第五部「苦難と愛」より)
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