五 濁鬼



「おい、どうした!」

 崩れ落ちたハイロに驚いて勇者が肩を支えようとすると、彼女はそれを払いのけるように手を動かしながら首を振った。


「……お逃げください」

「は?」


 ハイロはさっと右手でマントを払うと腰の革袋から緑色に光る石を取り出そうとし、すぐにそれを左手で押さえつけた。

「祝福紋を通じ、私に転移陣を発現させようとしています。妖精の国へ招かせようとしているのです。ノーム達を連れて、速やかに私から離れてください」


 金の瞳を鋭くしたハイロが淡々と述べ、勇者がすぐに立ち去らぬ様子を見て苛立ったように眉を寄せた。

「魔竜による襲撃が明らかになって以降、私はソロではなくフラノへ情報を渡しておりました。そのことで神殿内では少々揉めていたのですが……おそらくロドの手引きでしょう、現在地がソロへ漏れたのだと思われます。彼は何をするかわかりません、速やかに私から距離を取ってください」


「……何をするかわからない奴の前にお前ひとりを放り出すなんて、そんなことできるかよ」

 勇者が感情を抑えた低い声で言う。怒った顔でハイロが口を開いたが、何か答えようとする前に術が強まったらしく、苦しげに息を詰めて素早く魔石を取り出すと地面に大きな魔法陣を描いた。


 灰色の魔法陣が魔石の緑色に染まり始めた時、賢者が動いた。ダンと片足で踏みつけるとまるで水たまりに張った氷が割れるように魔法陣へ大きくヒビが入って、音もなく光を撒き散らしながら粉々に砕け散る。賢者はそのままハイロに歩み寄るとその両手を掴んで捻り上げ、そして勇者に向かって言った。

「魔石をできるだけ遠くへ捨てなさい。その後、彼女の両手を押さえているように」


 慌てて駆け寄った勇者は地面の魔石を拾い、ハイロの腰に下がっていた革袋を取り外すと、口を固く縛って思いきり遠くへ投げた。袋は途中で燃え上がりながら森の向こうへ飛んでゆき、空の彼方に消えた。

「嘘でしょ勇者、どんな速度で投げたらそうなるのさ……」

 吟遊詩人が情けない声で言ったが、彼がこういう感じなのはいつものことなので放っておく。賢者のところへ戻ると、めちゃくちゃに暴れて彼の拘束を振りほどこうとしているらしいハイロの腕を、そうっと傷つけないように掴んだ。


 暴れるハイロを拘束しなくて良くなった賢者は少しよろよろすると、彼女を地面に座らせるよう勇者に指示した。勇者が「ごめんな」と言いながらそっと肩を押さえて膝をつかせると、ハイロの背後に回った賢者が彼女のマントをばさりと払いのけ、そして短剣を取り出すと灰色のローブの背中を大きく切り裂いた。


「おい!!」

 愛する女性の服を破かれた勇者は瞬間的に激昂しかけたが、後ろから神官がぽこんと勇者の頭を杖で殴りつけた衝撃で少し冷静になった。

「いてっ!」

「お馬鹿さん。ハイロは大丈夫ですから、落ち着きなさい」


 賢者は露わになったハイロの背中を一瞥すると、厳しい顔で「痛むぞ」と言うや否や、本のページを破り取るような乱暴な動作で背中の祝福紋を大きく剥ぎ取った。ハイロが高い声で泣き叫ぶような悲鳴を上げ、思わず拘束していた手を離してその肩を抱き寄せる。


「おい、大丈夫か? 毛が抜けたのか?」

「紋の効力に対して剥ぎ取る魔力が少ないとこうなる。魔力経路が傷つくためしばらくは痛むが、肉体的な負傷はない」


 破れた背中の上にマントを戻してやりながら賢者が言った。祝福紋の半分以上を破り取られたハイロはもう謎の衝動に突き動かされてはいないらしく、肩で息をしながら「……ありがとうございます」と言っている。


「勇者よ。籠もるか、出るか、そなたはどうしたい」

「どういうことだ──お前ちょっと、顔怖いぞ」

 腕を組んだ賢者がちょっと驚くほど鋭い目をしていたので指摘すると、眉を寄せてさらに怖い顔になってしまった。


「内部の者に招かれぬ限り、ソロがこちらへ渡ることは不可能だ。このまま妖精の国に立て籠ればひとまず逃れることはできる。しかしそれでは、ハイロが異端に寝返ったと判断される可能性が──」

「迎え撃とう」


 すぐさま決断した勇者に賢者がやれやれと首を振り、ハイロが信じられないというように彼を見た。

「……シダル。貴方は貴方自身が北の果てへ辿り着くために最善の行動を取るべきです。情に流されて使命を疎かにしてはなりません」

「あっ、名前……いやハイロ、あのな」

 危うく胸のときめきに意識を全て持って行かれそうになったが、なんとか堪えた。


「何です」

「脇目も振らず使命だけを見つめてるのが神の望みなら、きっと俺じゃなくてフラノが勇者に選ばれてるよ。世界は大事だけどさ、お前がいて、仲間がいて……そういう優しくて綺麗なものがたくさん集まってるのが、俺にとっての世界なんだ。もっとはっきり言うならさ……もしお前を失うようなことになったら、それは俺が俺の世界を失ったも同然なんだ。自分の信じる世界をなくしたら、俺はきっと使命を全うできない」


 だから守らせてくれ、という言葉はまだ口に出していなかったが、言わずとも意図を理解したハイロが少し恥ずかしそうな顔になったのを確認して、勇者は彼女の頭を軽く撫でると立ち上がった。

「馬を置いて洞窟に出るぞ。妖精の国には立ち入らせない」

 賢者が黙って頷き、神官が「心得ました」とにっこりした。急いでノームの巣に戻り、蔦に覆われた出口の前に立つ。


「……ごめんね」

 魔法使いが小さく言って、指先でつまんだ小さな植物の種をハイロにくっつけた。種はするすると芽吹いて蔓を伸ばし、縄のように彼女を縛り上げる。


「……痛くない?」

「ええ、少し緩すぎてずり落ちそうです……しかし私を捕らえたように見せるおつもりならば、花は咲いていない方が良くありませんか?」

 薄紫色の小さな花が咲き乱れている蔓を見下ろしてハイロが首を傾げた。


「ファーロは可愛いから、どうしても咲いてしまうよ」

「……そうですか」

「髪に飾りたい?」

「いいえ」

「おい、遊んでないで行くぞ」


 蔦のカーテンをくぐって洞窟の中に踏み出すと、暗い色のローブを着た人間が五人、勇者達が歩いた跡を調べているように洞窟内をうろついていた。外は猛吹雪だ。夏の嵐とはまた違う、聞いたことのない恐ろしげで寒々しい音がする。


「……ソロ」

 押し殺した声で勇者が言うと審問官達が全員が一斉に振り返り、濃紺のマントを着た一人がびくりと小さく飛び上がる。


「……ルーファネス」

 影になったその顔を見て神官がそっと言った。知り合いなのか、声が悲しげに沈んでいる。


「今は『ルファ』です、ロサラス殿」

 ついさっき驚きで飛び上がった事実など無かったかのように淡々と紺マントが言った。若い男性の声だ。他に審問官はソロと、隻腕になったルザレと、濃灰のマントを着た人間が二人──魔竜に乗っていた奴らだろうか? 火の審問官は一人もいない。


「ついに異端に染まったかと思いましたが、貴女ともあろう人が捕らわれてしまうとは……どうしましたか、ハイロ」

 ソロが不気味なほど穏やかな、笑みさえ含んだような声でゆったりと言った。優しげだが、疑わしげな声だ。

「私とて見たままを信じたいとは思っていますが、すみませんね。他者の信仰の正しさを疑うのが仕事なもので……祝福紋をどうしたのです?」


「私が剥ぎ、情報を吐かせた」

 賢者がソロよりもずっと不気味に穏やかな声で言った、穏やかなのに優しさなど欠片もない、炎さえ凍りつきそうな冷たい声だ。


「そうですね。貴方の魔力の気配は感じましたよ、ナーソリエル。否、今はレフルスと呼んだ方が宜しいか? 哀れなことです、稀代の天才と呼ばれた貴方が今や愚かな馴れ合いに染まり、世の真理を見失うとは」

「──まあ、確かに馴れ合いっちゃ馴れ合いばっかりだよな、俺達。最近は賢者もだいぶ染まってきてるし……俺は良いことだと思うけど」

「……は?」


 勇者が思わず頷くと、ソロが理解しがたいといった様子で彼を凝視し、そして賢者が最高に相手を馬鹿にした顔で笑った。

「渾身の嫌味が露ほども通じなかった気分はどうだ、ソロよ」


 これが我らの勇者だ、と高らかに告げられた。そこで初めて、賢者がこんなに楽しそうなのはソロと勇者を二人同時に馬鹿にできたからだと気づいた勇者は、ムッとしてひねくれものの従兄弟を拳で小突く。

「おい、こんな時になんで俺にまで意地悪するんだよ」

「時と場所を選べば良いというものでもなかろう」

「それは、そうだけどさ……」


「誠に、嘆かわしいですね」

 ソロが虚ろな表情を困惑したように歪め、そしてため息をついた。

「……ともかく、審判を始めさせていただきますよ……ルザレ、やりなさい」

 彼がさっと手を挙げると、指示を受けたルザレが魔石を大量に使って緑色の魔法陣を立ち上げた。


「ロ・アダル=ヴェルトル=リドメール」


 転移の受け入れ側、つまり召喚の呪文だった。緑の光が嵐のように渦巻き、その中にどす黒い色が──

「──淀みだ、神官!」

「イルト・ルヴァ=フュム・ナ=スクラゼナ!」


 すぐさま浄化の呪文が唱えられ、淀みに弱い魔法使いを中心に顕現陣が立ち上がると仲間達を淀瘴から守った。分界のような壁はないが、常と違ってすぐに消えない陣が周囲の空気を浄化し続け、どんどんと濃くなってゆく淀みを通さない。


 そして淀んだ緑色の向こう側から現れたのは──勇者でさえ吐き気を催すような気味の悪い生き物だった。


 黒い気の術で縛り上げられたそれは人のような姿をしていた。しかし簡素な腰布を身につけたその体は不自然なまでに筋骨隆々で、白っぽい表層の内側がどす黒く染まったような肌をしている。凹凸の少ないのっぺりとした顔の真ん中で、小さいながらも強烈に邪悪な表情を宿した双眸が深い淀み色に濁っていた。


「……濁鬼オークだ」


 勇者の隣で低い声が言った。

「禁書庫の本に記されていた。オークとは……ただ魔術で淀みを流し込まれるのではない。幸福に暮らしていた人間を捕らえ、惨たらしい拷問にかけ、深く絶望させた上で魔獣の血を飲ませ、体から溢れ出んばかりの淀みを魔術で体内に封じ込めるのだ。憎しみと恨み、絶望によってその容姿は変貌し、まるで地獄から這い出たようなおぞましいものになる」


 淡々と、そして深く傷ついた声で賢者が述べた。彼は小さく震えている魔法使いを守るように抱き寄せたが、彼自身がその温もりを必要としているようにも見える。いつも真っ直ぐに背筋を伸ばしている姿に隠れているが、本来この学者はとても感受性豊かで繊細な人間なのだ。


「──ソロ、貴方のそれは信仰ではなく、腐敗した破壊衝動です」

 凛とした声が響いた。ロサラスではなく、ハイロの声だ。縛られていた花の蔓をはらりと解いて、仲間達の前に進み出る。


「やはり異端に染まっていましたか、ハイロ」

「オークを生み出すことは、禁忌とされているはずです」

「無論、罰は受けましょう。それでも、為さねばならぬ時なのです」

「人を苦しめ淀瘴に堕としたことで受ける罰を、まるで自己犠牲かのように仰るのですね。そういうところが、腐敗していると申し上げているのです」


 ハイロは透き通るガラス玉そのもののような目をして、抑揚に欠けた声で言った。しかしそれは狂信に侵された虚ろな目ではない、悲嘆と恐怖に立ち向かい、溢れ出そうな感情を強く押し殺した目だ。星の瞳ではなかったが、傷つきながらも毅然と自らの信仰を貫くその姿が震えるほど美しく見えた。


「彼はもう助かりません。私は、私は森を焼く人間を醜いと思いますが、それでも、本当は、皆が助け合って幸せに生きられればと思うのです。人が人である以上叶わぬ夢であったとしても、それでも、滅びゆくべきものならどれだけ傷つけても良いとなれば、それは、神殿の為していることはただの悪でしかありません!」


 その悲痛な声音から、以前に同じ台詞で憤ったガレとは違い、ハイロは人が争い合って滅びる終末も憂うようになったのだとわかった。少しも狂信の色がない清廉な気配が力となって、淀みで歪んだソロを一歩下がらせる。


 しかしその心からの言葉も、ソロの瞳に光を宿らせることはなかった。彼はすぐに気圧されたような表情を消すと深くため息をつき、そして軽く手を振るとオークを縛りつけていた術を消し去った。


 ハイロの肩を掴むと半分抱き上げるようにして真後ろの神官に押しつけ、聖剣を抜いて浄化の陣から走り出た。途端に息もできないような淀みが押し寄せ、反射的にマントで鼻と口を覆う。審問官達はなぜこの中で正気を保っているのだろうと一瞬考えたが、否、彼らはとうの昔から正気ではなかったではないかと思い直す。


 審問官達はオークの背後に下がっていたので、白いのに黒い不気味な怪物は背筋の凍るような雄叫びを上げると真っ直ぐに勇者へ向かってきた。勇者は一刀両断にしてやろうと身構えたが──しかしその時、オークが濁りきった不明瞭な声で「ズゥ……メ、ムスメ、を……返セェ!」と叫んだのを聞いて戦意が消し飛んだ。


 剣を引いてふらりと立ち上げた盾に、凄まじい速さでオークがぶつかった。衝撃と共にオークの頭から真っ黒な血飛沫が飛び散り、深い絶望と憎しみに歪められた彼がその傷口を触って、べったりと血に濡れた手のひらを淀み色の目で見つめる。


「ルゥア、ワタシの、ルゥア……」


 娘への愛が深い深い憎しみにすげ変わったその瞳を見て、勇者は怯んだ。一瞬の隙をついてどす黒い血濡れの手に剣を持つ右腕を掴まれ、そこからおびただしい量の淀みが体内に流れ込んだ。視界の端でソロがニヤリと笑い、そして勇者が発した言葉を聞いて訝しげに眉をひそめた。


「うっ……腹が、痛い……」


 食あたりどころではない激痛が胃腸に走って勇者は息を止めたが、一瞬でロサラスの強力な浄化がかけられてすっと痛みが治まった。しかし一度臆した心はなかなか奮い立たず、ぐるぐるとこのオークが一人の親であった時の人生を考えてしまい、倒すどころか背後の仲間達を守るだけで精一杯だ。


「……彼はもう、助からないんだよね?」


 しかしその時、透き通った少年の声が響いた。いつだって彼に希望と勇気を与えてくれる、命の魔力が込もった美しい吟遊詩人の声だ。


「勇者、下がって……僕がやるよ」





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