第六部 完結編 北の果て

プロローグ 果ての王



 死が、近づいていた。

 しかし己にとっての死は、世界にとっての救いだった。





 南の空を見上げて、ゆっくり息を吸って、吐く。黒くてぼんやりとした、淀んだ色の空だ。だが聞いたところによると、このもやの向こうには真っ白な雲があって、真っ青な空があるのだという。しかし彼が生まれたのは世界の淀みが濃くなり始めたほんの百数十年前で、彼が物心ついた時には既に、この北の地には黒と灰色と、仲間の瞳に輝く渦の力の色しかなかった。


 だから彼は、金色以外に輝く色を知らなかった。確かに城の天井は美しい青色に塗られていたが、しかし自ら光を放つ純白と青なんて言われても想像がつかなかった。


──レヴィエル様。僕はね、もう諦めがついているんだ。最期に一目、輝く青空を見ることができれば、それで充分なんだ。だからね、もうやめて……勇者に、世界を救わせてあげて


 渦の民に寿命はない。実体はあれど妖精というよりは精霊に近い存在で、滅多に子供は生まれないが、その代わり殺されなければいつまでも生き続ける。だから、先代やその前やもっと前の浄化の儀式を見てきた仲間は大勢いた。


 彼らによると、渦の王の死の瞬間はそれは美しいのだそうだ。淀みに覆われた空がみるみる晴れ渡り、澄んだ風が吹き、世界の全てが透き通るように色鮮やかになるのだそうだ。もしも死の瞬間にそんな光景を見られたら……もう、彼に思い残すことはない。


 死とは、ひとつの生命の終わりだ。多くの生き物にとってのそれはただ静かな眠りでしかないが、力を授かって生まれた生命にとっての死は、少しだけ違う。特別に多くの生命力を与えられた動物は、その死の瞬間に、身の内に残された力の全てを体の中心に集めてひとつの宝石を作る。透明で、きらきらして、とても美しい宝石だ。それは一見水晶に似ているが、生命の結晶であるが故にもっとあたたかい輝きをしている。黒ずんだ果ての光に透かしても涙が出そうなくらい透き通っていて美しい石は、遺体が朽ちても残り、自然の中に漂う僅かな力を少しずつ少しずつ溜め込んで、いつしかぼうっと淡く光りだす。それは時に妖精や小鳥の宝物になって、時に海の底でいつまでも輝いて、時に力尽きそうな誰かの命を繋ぐ。


 しかし渦の民の王だけは、世界のどんな生き物よりも多くの力を授かっているのに、死んでも宝石が残らない。石だけではなく肉体も、骨も残らない。たださらさらとした砂のようなものに変わってしまって、それで終わりだ。皆が宝石を作り出す奇跡の何倍も何十倍も何百倍も、いや、それよりもっともっと強い渦の力は、全て淀みを浄化することに使われる。


 しかし彼は、自らのその運命を嘆いてはいなかった。皆が宝石を生む代わりに自分は世界を宝石に変えるのだと、渦の民にしてはあまりに短い百年の間で、そう考えるようになっていた。


 人間達は知らないが、本当は吸い込み集める渦の力を反転させる神の剣さえあれば、「魔王」を殺すのは誰だって良かった。ただ聖剣という鍵を鍵穴たる彼の心臓に差し込みさえすれば、今まで淀みを集めていた魔王の渦の力が浄化を広げる力へと反転し、その膨大な生命力の全てを使い尽くして、世界は救われるのだ。


 それでも人の中から「勇者」が選ばれるのは、神々のお与えになった人への罰だ。渦の神が選び加護を与えるのは、強い人間でも勇敢な人間でもない。数多いるのにどんどん増え続ける憎しみの種族の中で、最も誠実で優しくて純粋な人間だ。北の果てが背負う悲しみを理解し、苦しみ、使命を果たした後も秘密と悲哀を抱え込んで嘆き続けられる純粋さを持った人間。そんな存在に、ひとつの善良な生命を世界の贄にするという一番悲しい役割を与えることが罰なのだ。憎しみに淀んだ種族の中で最も美しい心を持った「人間の宝」に消えない傷を残すことこそ、神が人に与えた罰なのだ。


──だから神よ、どうか人にその罰を受けさせて。どうか、どうか僕に、世界を宝石へ変えさせてほしい


 故に彼は祈った。死ぬのは、もう怖くなかった。何十年も前にそう決めた。彼は少しもかわいそうではなくて、むしろ自分が作り出す青い空を一目見てみたいと、その瞬間を楽しみにしてすらいた。


 故に、こんな事態は望んでいなかった。勇者が決断しても、渦の民がそれを望んでも世界が救えないなんて、そんな事態は決して、望んでいなかったのだ。





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