五 雨の夜(魔法使い視点)



 それは、湖畔の音楽会から数日が経った夜のことだった。


 勇者達は崖沿いの洞窟の中だったが、魔法使いは焚き火の煙を避けて気分転換に外へ出ていた。洞窟は広く、入り口付近で火を焚いてもそれほど空気は悪くならなかったが、花期が近いエルフにとって閉ざされた空間で見る大きな炎は少しだけ恐ろしくて、冷たい雨に触れると心が落ち着いた。大樹の木陰へ入って──エルフの敏感な目には、夜であっても木の下にはっきりと梢が落とす影が見えるのだ──太い幹に寄りかかって座り、じっと目を閉じていた。


 そう、その夜に、はっきりとそれが切欠であったというような特筆すべきことは何もなかった。梢の外側にしとしとと雨が降っているだけで、いつもと何も変わらぬ夜だった。


 強いて言えば……魔法使いの後から洞窟を出てきた賢者が隣に腰を下ろしたのは、珍しかったかもしれない。彼は仲間の中でも特別に他者と近づかぬ質で、こうして親しい友となった今も少し離れた場所へ位置を定めるのを好み、常に礼儀正しい距離感を保つ類の生き物だった。


 だから正直に言えば、夜の木陰でくつろぐ自分の隣に自然な感じで彼が座った時は、天にも昇る心地だった。


 賢者は無言で地面に座り込むと盛り上がった木の根に背を預け、そして小さく「ルシラ」と唱えて魔術の明かりを灯すと、マントの内側から本を取り出した。普段は雨の日の屋外で読書などしない賢者だが、この大木は特別葉の重なりが厚く、木の下はすっかり乾いているのだった。


 彼が一連の動作をこなしている間、魔法使いは体の右側だけが特別敏感になったように、始終その気配が気になって仕方がなかった。最近の賢者は魔法使いのことをちっとも遠ざけなくなって……この一年ほどで袖や肩に触れることはできるようになっていたが、この森に来てからは本当に心の底から自分の存在を受け入れてくれているのを、気配で感じる。それはただ勇者や神官と同じになっただけだと思うのに、しかし魔法使いはそんな賢者を見ると、なぜかとてもとても彼に近づくのが恥ずかしくなって仕方がないのだ。今まで積極的に甘えられていたのは、もしかして困った顔をされるのが寂しくて自棄になっていただけなのかもしれない。


 緊張を逃がそうと深呼吸をした魔法使いとは反対に、賢者はいつもより心なしかだらりと崩れた姿勢で、首を少し傾けながら片手で開いた本に視線を落としていた。


 そんな姿が珍しいのにじっと見つめることもできず、魔法使いは足元に咲いている花の数をそわそわと数えていた。特に何を話すでもないのに、雨音を縫ってページを捲る音がする度、心がざわついて苦しい。 苦しくて恥ずかしい。自分は出来損ないのエルフだから、愛する人がこんなに近くにいるのに目を合わせることすらできない。こんなに、こんなに大好きで仕方がないのに。


 すると何か面白い話を読んでいるのか隣でふっと小さく微笑む気配がして、魔法使いは突然、杯が溢れたように何もかも堪らなくなってしまった。つまりその時、ついに愛おしさが羞恥心を上回ったのだ。


 肩を叩かれても上の空な読書中の集中力を良いことに、魔法使いはさり気なく身じろぎをすると、地面の上に投げ出された方の賢者の手にこっそりと小指の先を触れさせた。全身の肌が隣の反応を探り、緊張で痛いほど胸が高鳴る。


 案の定、反応はなかった。ほっと息をつくとほんの少しだけ、少しだけこっそり、魔力を混ぜ合わせた。触れているところから痺れるように甘い感覚が流れ込んでくる。魔法使いは再び目を閉じてくたりと木にもたれかかり、密やかなその幸福感に溺れた。


 ほんの僅かに、触れ合っている小指へ寄り添うような力がかかったのは、それから少し経った時だった。


 それに気づいた瞬間、鼓膜を打っていた雨の音がすうっと遠ざかるのを感じた。


 魔法使いは息を詰めて、舞い上がらないよう自分を抑えながらその意味について考えを巡らせた。奇跡か、偶然か、奇跡か──ああ、いつの間にかページを捲る音が止まっている。


 装いきれていない偶然を装い、そろそろと小指に力をかけて触れる面積を増やす。すると信じ難いことに、賢者の長い指がほんの少し動いて同じだけの力が返されるのだった。


 期待と不安に胸をかき混ぜられながら、魔法使いは指を滑らせて、そうっと親指を除いた四本の指で賢者の手の甲に触れた。パタンと本を閉じる音がする。そうなってしまえばもう誤魔化せない。小さく顎を引き、歯をぐっと噛み締めて審判を待った。


 そして奇跡は起きた。地に触れていた手のひらがくるりと返されて、魔法使いの指先は愛しい人の手にやわらかく握り込まれたのだ。


 どうしよう、どうしよう、どうしよう──頭の芯はぼうっと熱を持っているのに、まるで蝶が舞い踊っているかのように、表層では思考と魔力がめちゃくちゃに駆け巡っていた。だって今までで一度だって、こんなになんでもない夜に、何の意味もなく、賢者の方から手を握ってくれたことなんてあっただろうか。


 どうしようもなくなった思考は終いに「これは夢だ」という結論を出しそうになったが、気配を辿って見上げれば切なげに細められた黒い瞳が自分を見下ろしていて、魔法使いは歓喜と共に現実を認識した。


 ああ、全ての音はどこかに消え去った。見つめ合った視線の間だけが世界の全てだった。おずおずと握り返せば聡明な瞳がゆっくりと一度瞬きをして、握られている手にきゅっと力が込められた。


 小さなため息と共に魔術の明かりがふっと消え、周囲が薄闇に包まれた。ざあっと強くなった雨脚の作る銀のカーテンに守られ、身を寄せ合った梢の下の小さな世界で、ただふたりきりだった。


 あたたかくて、甘くて、親密で、もう魔法使いの心は溶けて崩れてしまいそうだった。全身が燃えるように熱い。息をするのを忘れてしまう。ああ、苦しい。苦しくて苦しくて、このまま死んでもいい。


「アルマ」

 優しい吐息だけの声が耳をくすぐる。本名の真ん中だけを取り出した、風変わりな古語の愛称。


「僕を……アルマと呼ぶの? シラ」

 塔に押し込められていた時から本の表紙に見知っていた、何度も焦がれ指でなぞった名を呼ぶ。深い深い喜びが溢れて、収まりきらなくて、胸が痛い。


「アルマ」

 その甘やかな音を覚えさせるように、もう一度呼ばれた。


「なあに……口づけするの?」

 繋いだ手が気恥ずかしくて無駄に甘えたことを言うと、なんと静かな声で賢者が「……する」と言ったので、魔法使いはカチンと硬直した。驚きで動けない間に握られていた指先が離され、手が頬に添えられる。息を詰まらせたまま口を開け閉めすると、言葉を待つようにじっと瞳を覗き込まれた。


「……賢者」

 掠れ切ったか細い声しか出なかった。


「何だ」

「手が、あつい」

「……そうか」


 頬に触れた親指と、影色の視線を交互に見る。静かな声に反して、手のひらも瞳も燃えるようだった。実は火持ちだったのだろうかと気配を探るが、冷えた影の気配しかしない。


「どうしたの」

「どうもしない」


 少し不安になって見上げれば少しだけ口の端が持ち上がって、ふっと火が消えるように視線が穏やかになった。頰の手が外され、頭をそっと撫でられる。

「軽々しく口づけなどと言っておきながら、ほんの幼子のようだ……そなたは、私に伴侶として何を望む?」

 微笑んでいるような、悩んでいるような、何かを求めているような、不思議な目だった。


「君の……君の星になりたい」


 魔法使いは未だ掠れた声で乞うように囁いた。初めて向けられた彼の甘さを感じる視線から、まるで魔力で縛られたように視線を逸らせない。


「その望みならば、番にならずとも既に叶っているが……それでも、命を分け与えてまで、私を側に置きたいと願うのか? 私はそなたの寿命を縮める。子も与えてやれぬ。それでも、百年先に悔やまぬと言い切れるのか、私の星よミラ・アルマ


 その名で呼ばれてしまった魔法使いに、選択肢などなかった。一も二もなく黒いマントに縋りついて、溢れる愛のままに「ラグリエ……ラグリエ、シラ」と繰り返した。


 すると、黒い瞳がさっと透き通った灰色に変わって、そして雨が降り出す直前のようにきらりと潤んだ。


「ならば──」


 いつもは鐘のような声が切なく掠れて、賢者は一度言葉を切った。魔法使いの瞳を細めた目でじっと見つめたまま、静かに呼吸を整える。



 ならば……生涯、そなたの隣で星の話をしてやろう



 耳に届いたはずなのに、どこか現実味がなかった。しかし愛する人はそこで言葉を止めず、とても優しい目をして続きを言った。聞いたことのない、蜜よりも甘い響きだった。


「私も愛している……ラグリエ、アルマ」


 背中に腕が回された。この人の抱擁は、いつだって胸が痛くなるくらい優しい。触れれば壊れてしまうと思っているかのように、そっと、大切に大切に抱きしめられて、緩やかに頭へ頬擦りされた。妖精流の愛情表現は気恥ずかしいのか、少し顔が赤くなって息を詰めている。


 しかしこの程度、エルフならば初対面でもするくらいの軽い触れ合いだ。信じられない幸福を確かに信じたくて、恋人らしく手を繋いで少しだけ魔力を流せば、見開かれた瞳の中を灰色と黒がぐるぐる渦巻いて、そして観念したように目を伏せると、少しひんやりした影の魔力が流し込まれた。魔法使いが流した量よりずっと多い。


 息もできないくらいに幸せだった。こんな日々がずっとずっと続くのだと思うと、もう何も考えられなくて、涙が出てきた。見上げると賢者も少しだけ泣いていて、そして見たこともないくらい優しく微笑んでいた。


 視界の端で、愛の花がこぼれるように咲きながら真っ白に染まるのが見えた。


 妖精の森に、春が来たのだ。



〈第五部 了〉





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