第一章 最終審判
一 灰色の言伝
「なあ……花期は終わったって言ってたよな?」
見上げた勇者がそう尋ねると、頭上の木の枝に腰掛けている花の妖精はとろりと甘やかに笑んで頷いた。目が眩むほど美しい微笑だが、視線はちっともこちらに向けられていない。その瞳は少し間を開けて隣に座った賢者の、光を一切跳ね返さない不気味な漆黒の目を愛おしそうに見つめたままだ。そんなに何時間も眺めて、いい加減飽きないのだろうか。
この上なく幸せそうな魔法使いの座る枝に、次々と光でできた銀色の花が咲く。するとそれを視線だけで見下ろした賢者が小さな花畑の中の一輪に指先で触れ、魔力を流して淡い影の色に染める。そして影絵が立体的に浮き上がったようになったそれをぷちりと摘むと、そっと妖精の手に握らせた。
「く、くれるの?」
妖精が耳を震わせながら囁く。
「ああ」
賢者が何の表情も浮かんでいない顔で返す。
「シラが、僕に……愛の花を」
瞳を潤ませて震える魔法使いは、手の中でさらさらと光に変わり始めたそれを慌ててローブの胸元に留めたブローチに触れさせた。魔石が嵌められたそれに花の形を作る魔力が染み込んで、石の色がふわりと一段濃い影色に染まる。小さな花が宝石の色へ変わってゆく様子をじっと見守っていたエルフは頬を染め、ブローチを手のひらで包んで喜びを噛み締めるように目を閉じた。
「……花期、終わったんだよな?」
「質問は遠回しにせず、何を尋ねているのか明確にわかるよう言葉を選びなさい」
木の上からこちらを見下ろした賢者が冷たい顔でそう言ったので、勇者は「仕方ないな」と腰に手を当ててはっきりと言ってやった。
「お前ら、花期でもないくせにいちゃつきすぎだろ」
「黙れ」
間髪入れず、死の呪文でも放ってきそうなすごい目で見られた。睨まれたのとは違うのだが、彼特有の瞳の深さというか、一点の光もない暗黒そのもののような何かが一段と濃い。視線で洗脳の術を掛ける時も同じような目をしているので、多分彼は意思を込めてじっと見つめると魔力が瞳に集中する体質なのだと思う。そんなに恥ずかしいなら、人前でやらなきゃいいのに。
「黙れ」
「は? 今は何も言ってないだろ」
「顔に出すな」
「そうだよ勇者、ちょっと黙ってよ、この人参さん」
「え?」
突然吟遊詩人に
「この人達、もう二人ともすっかり大人なんだよ? 僕はもっといちゃいちゃした方がいいと思うね。せっかく安全な妖精の森にいるんだから、夜だってふたりっきりで過ごしたりさあ……なんで迷いもせずにみんなと一緒に雑魚寝してるわけ? それにさ、恋人になってもうひと月も経つのに、おやすみのキスひとつできないって、一体──」
「なりません! 花期の直後に、ふたりきりだなんて!」
神官の慌てて遮る声に、火の審問団が一斉にうんうんと頷いた。魔法使いが「お、おやすみの……」と言いながらぷしゅうと蒸気のように息を吐いて枝の上に潰れ、賢者が吟遊詩人をとんでもなく蔑んだ目で見下ろす。
「そなたの
「嘘でしょ? 僕より十五も年上なんだから、もっとこう悩ましく……物陰で噛みつくように激しく口づけてしまいたい衝動と戦ったりさ、戯曲みたいに」
「穢らわしい想像をするな!」
賢者が魔法使いの耳を両手で塞ぎながら、珍しく少し怒った声を出した。それに合わせて瞳の色がぐっと暗くなった姿は見るからに闇の森の奥深くから音もなく現れそうな雰囲気で、血の通った生き物らしい色気なんて欠片もない。しかし耳に当てられた両手にそっと指先で触れた妖精は、そんな奇妙な恋人でも嬉しそうにふにゃりと目を細める。
「穢らわしいって、いや、うん……そういえば君も神殿育ちなんだったね。そっか、そっちの情緒はまだ死んでるままなんだ……」
「貴様、それ以上余計な口を──」
「はいはい、そこまでな」
放っておくと喧嘩になりそうだったので、勇者は後ろから妖精の口を塞ぐとひょいと抱え上げて梢の下から運び出した。すると吟遊詩人も多少冷静になったのか、少し反省した顔になって「言いすぎたかな」と呟いている。
「そうでもないと思うが、まあ賢者の潔癖はちょっと病的だからな。今のままで二人とも幸せそうなんだし、ほっとこうぜ」
「……そうだね」
どうせしばらくは何を言っても「黙れ」しか返ってこないと言えば、吟遊詩人は「確かに」と笑った。天気もいいのでそのまま釣りに行こうかと、長い枝に糸をくくりつけた釣竿を拾って歩き出す。すると、神殿に帰った監察者へ伝令鳥を出しに行っていたハイロが向こうから帰ってくるのが見えた。
「ハイロ! おかえり。お前も釣りに行くか?」
いつものように少し頬を染めて頷いてくれるのを期待して声をかけたが、しかしハイロはやわらかな木漏れ日の中で立ち止まって「……いえ」と首を振った。少し深刻そうな様子に、くだらない会話で緩んだ気を引き締める。
「どうした?」
「釣りはまた後で。シダルとルシナルも、一緒に洞窟へ戻ってください。重要な、監察者からの
◇
「──勇者シダルと
洞窟に戻り、並んで座る皆の前に立ったハイロが単調な声で述べると、胸に拳を当てたライが口を開いた。
「汝の言伝を聞こう、気の第二異端審問官ハイロ。風の耳を持つ者よ」
今までにない感じのやり取りだが、これが正式な口上なのだろうか。感情の読めない平坦な話し方をする彼女は久しぶりに見たが、やっぱり格好良くて綺麗だ。いや、以前と違って瞳の奥に真っ直ぐな星の光が見える分、今の方がずっと美しい。
うっとり見つめていると、ハイロがこちらをちらりと見て少し困った様子で瞬いた。話を聞いていないように見えたかもしれないと思って、慌てて居住まいを正す。
「監察者の探ったところによると、神殿長派による勇者シダルらの最終審判が計画されているとのことだ。彼らはこちらの情報操作により剣伴の居所を遺跡付近であると誤認しているが、十日後の朝、審判という名の襲撃を仕掛けるための準備を進めている」
それまでは「ハイロがこんなに強い口調で話すのは初めて聞いたなあ」とか考えていたが、神殿長の名が出た瞬間に心の奥底から激しい闘争心が燃え上がった。向かいにいたガレがぴくりと肩を揺らして、勇者の瞳をまじまじと見る。内炎魔法が頭の方まで強く巡っているから、少し色が変わっていたかもしれない。
「彼らの名目はこのようなものである。魔王殺害を目論み、世の真なる浄化を妨げんとする勇者シダル。神託と偽り勇者を旅へと導いた追放者ロサラス、審問官の騎竜を惨殺し審判を妨害した白の魔法使いエーリアルマーリアル・リフ。神殿の取り調べに抵抗し、気の第一審問官ソロを殺害した星の賢者シラ・ユール・ヴェルノ・ナーソリエル・メル・ローレン・ホシュナ──」
「それ、全部言うの?」
吟遊詩人が妖精らしい底抜けに明るい声で遮った。未だ煮えたぎっていた強い怒りを大きく削がれながら隣を見ると、緑色の瞳がきらきらしている。どうやら賢者の名前が異様に長いことが面白くなってしまったらしい。
「言います……どこまで言いましたっけ」
こちらも拍子抜けしたのか、いつもの口調に戻ったハイロが少し首を傾げた。
「ホシュナまで」
「ホシュナ・ジャールウェン・リース=ラビナの最終審判を執り行うと、天の神殿長ダナエスの名の下に──」
「ねえ、ロサラスはわかるけど、なんで勇者も『シダル』なの?」
また遮った、みたいな顔でハイロが少し眉をひそめた。迷惑そうなのに少しも不機嫌な感じに見えない、可愛い。
「アレンは秘境育ちのため、神殿に名を知られていないからです。天の神殿長の」
「ね、もう一回アレンって呼んであげて。勇者がちょっと嬉しそうにしてる」
ばれた……。
「……フィルル、貴方ますますフェアリらしくなってきたのではありませんか? 後で遊んであげますので、邪魔しないでください。ともかく、天と気の神殿長があなた方の審判──つまり刑の執行のことですが──それを行うと言っています。それに伴いまして、三日後の白の零時にレフルスが捕らえられていた旧タナン遺跡付近まで、転移の道をご用意します。勿論、彼らを避けて通るならばそのようにお手伝いしますが……私としてはここで決着をつけるのがよろしいかと思います」
フラノが同意するように頷いたが、神官の治療で随分火傷跡が薄くなったライは「……大丈夫か」と賢者に向かって心配そうに言った。主治医の神官が難しい顔で腕を組んだが、しかし賢者は視線を少し下に向けたまま「問題ない」と言う。
「ほんとに? 無理はしなくていいんだよ。僕もあそこ嫌いだし」
吟遊詩人が明るい声でにっこりしながら言った。一見まだ妖精の楽しい笑いが続いているように見えるが、これは賢者のためにあえてこう振舞っているのだろう。
「……シダルは、二度も遅れを取りはしない。二度と繰り返されぬと理解している故に、私は恐れない」
明らかに無理をしている顔だったが、その言葉は嬉しかった。「ああ、必ず守ってやる」と頷くと、ほんの少しだけ口角を上げて頷き返される。
「……賢者、今はまだ」
「一人の男が恐怖を乗り越えて前に進むって言ってるんだ。邪魔しちゃいけない」
神官の言葉を遮ると、吟遊詩人が「出たよ、秘境の
「神殿長派の『審判』と同時に、火の第一審問官フラノを筆頭に第二審問官ライ、第三審問官ガレ、気の第二審問官である私、そして水の神殿長ラフィアス猊下の名をもって、天の神殿長ダナエスならびに気の神殿長カイラーナ、気の第三審問官ラダ、第四審問官エナグ、水の第三審問官ルファ、火の第四審問官ロドを告発いたします。つまり
「なんで俺だけ?」
名指しで注意されたので尋ねると、ハイロはちょっとからかうような目をして少しだけ微笑んだ。
「いつだって、貴方しか暴れていないでしょう」
「その顔、可愛いな……」
思わず声に出してしまって、慌てて片手で口を塞いだ。ガレが瞳をきらりとさせ、反対にハイロはきゅっと肩をすぼめると小さく「またそんなことをおっしゃって、私の反応を面白がっているのでしょう……意地悪はやめてください」と囁いた。
「え、何だそれ、可愛い……」
ため息とともに漏らした言葉が吟遊詩人と被った。まさかあまりの愛らしさに惚れたかと焦って勢いよく振り返ると、満面の笑みで「ほらね、言うと思った!」と笑っている。それにますます顔を赤くしたハイロがフラノの後ろに隠れると、苦笑したガレが空気を変えるように手を振って「ほら、そうと決まれば準備だ。森を出る前に果物を保存しておくのだろう」と声を上げた。
それに頷いて洞窟の外へ出る直前──そっと振り返って見ると、少しだけ苦しそうな目をした賢者が手を伸ばし、心の傷を埋めるように隣に座った魔法使いの手を握ったので、勇者は安心して戦いの準備に向かった。
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