四 檸檬の木



 妖精の愛に気づいた賢者は一体どうなってしまうのか、好奇心半分といたたまれなさ半分で見守っていたが、次の朝に起きてきた彼は昨夜の出来事が夢ではなかったかと思うほどいつも通りだった。


 淡々と早起きをして、淡々と朝食のシチューを作っている。普段は魔法使いか勇者が食事を作ることが多いので目立たないが、実は料理に関して一番手際が良いのは賢者である。魔法使いは手際以前にあまりにも刃物の扱いが危なっかしいし、勇者は大雑把で少しくらい野菜に皮が残っていても気にしない。吟遊詩人はちょっと拙いが下手ではないという感じで、唯一ナイフ捌きだけならば神官がかなり巧みだが、しかし彼は味付けがとにかく絶望的なので手伝いしかさせられないのだ。


 そんな賢者が最初から最後までひとりで作った野菜のシチューは、味見をさせてもらうとかなり魔法使い好みに薄味で、香草の香りが華やかな仕上がりになっていた。ここ一週間ずっと食べていない妖精の食欲を出そうとしているのか、惚れた相手の好きなものを作ろうと張り切ったのか……見極めようと頑張ったが、表情からは全くわからない。


「なあ賢者……お前さ」

 少しでも睨んでこようものなら「魔法使いに惚れたのか?」と尋ねてやろうと思っていたが、彼があまりにも普通にこちらを向いたので聞きそびれた。


「何だ」

「いや……ええと、流石林檎のパイを作るのが趣味なだけあって、シチューも美味いなと思って。手際いいし」

「黙れ」


 どうせこんなに睨まれるなら、聞きたいことを聞けば良かった。肩を竦めて荷物の整理に向かうフリをすると、鹿枕ではなく木の上で眠っていた魔法使いが、ふわっと舞い降りて賢者の方へ歩いてゆくところだった。花期が始まってから一度も寝坊していないし、昼寝もしていない。


 とはいえ昨夜歌った後は少し賢者以外の仲間とも話をして、吟遊詩人の頭を撫でたりもしていた。賢者に食べ物を与えられてからかなり精神は安定したようだが、やはり少し心配だ。


 魔法使いは歩きながら勇者と少し視線を合わせて目をぱちぱちすると、賢者の隣に無言でぴたっとくっついて座り、挨拶なのか耳を倒して肩にそっと頭をこすりつけた。賢者はそれをじっと見下ろして、そして小さな声で「皆が起き出すまでにまだ時間があるが、先に少し食べるか?」と尋ねている。


「僕のシラ……君が与えてくれるものは、何だって欲しい」


 そよ風のように美しく妖精が囁いた。少し戸惑った顔をした賢者が出来立てのシチューを椀に掬ってやると、思わず勇者も見惚れてしまうくらいに綺麗な仕草で一口食べて、「とても美味しいよ」と微笑んだ。


「次に野苺を見つけたら、とっておきの一粒を君にあげよう。君は昨日、冬と春の境目に実る美しい野苺を僕に与えてくれたろう? 僕ならあれを、もっともっと甘くできる。果実を艶やかに熟れさせるのは、エルフの一番得意な魔法だ。僕が君を想う甘さの分だけ、果実も甘くなるんだよ」


 普通の人間ならば取って付けた美辞麗句に聞こえてしまいそうな文句が、手の中の小鳥の雛にでも語りかけるかのように媚びのない清潔な声で、優しく優しく紡がれた。彼は元から目尻の下がった優しい目つきをしているが、それが今はとろけるような甘い色に光っていて、氷というよりは濡れた氷砂糖のようだ。足元には真っ白な花が次々に咲き乱れ、冬までの恥じらいようは一体何だったのか、恐ろしい勢いで愛する人間を口説いている。賢者が弱り切った様子で目を伏せ、軽く頭を振って伸びてきた髪で耳と頰を隠した。


 おっ──?


 それはもう、この美しい生き物にこんな風に好意を向けられたら誰だって顔を赤らめてしまうだろうが、しかしこの賢者に限って言えば、彼が少しも嫌悪感を見せないということに大きな意味があった。


 やっぱり、惚れてるっぽいよな?


 その視線に恋に浮かれたような甘ったるさはなかったが、今までならばぐいと手で押し退けている距離にいる妖精を、ただ困ったようにじっと見下ろしている。


 わかる、わかるよ……いくら遠ざけようと思ったところで、そう簡単にできるもんじゃないよな。なんていうか、いざ目の前にすると体が言うことを聞かないんだ。


 腕を組んでうんうんと頷いていると、隣でクスッと笑う声が聞こえた。吟遊詩人が生暖かい感じで口元をにやにやさせながら、目隠しの下からなぜか賢者ではなく勇者を見上げている。


「……なんで俺なんだよ?」

 尋ねると、彼は最高に楽しそうな顔になって言った。

「『うんうんわかるよ。いざ目の前にすると、拒絶するなんてとてもできないよな……』」

「おい、やめろよ!」

「ふふっ──賢者! そのままぎゅっとして、ちゅっとしちゃえ!」


 勇者はいつも自分をからかってくるこの悪戯妖精をそろそろ叱ってやろうと考えていたが、その前に彼がとんでもない台詞で賢者を囃し立てたのでぎょっとして言葉を引っ込めた。一瞬「嘘だろ」という気持ちで吟遊詩人を見つめ、そして素早く賢者の反応を探る。


 神殿育ちの世捨て人は見たことがないほど狼狽えた顔をして、怒る余裕もなく吟遊詩人を見開いた目で凝視していた。

「そなた、何ということを」

 掠れた声で呟き、信じられないといった様子で首を横に振る。どこか期待した顔で耳をピンとさせていた魔法使いがふにゃっと残念そうに萎れた。とそこに、ようやく起き出してきた神官が天幕から顔を出しながら口を挟む。


「緑柱石の妖精さんはお年頃ですからね……ちょっとくらいはしたないことを言ってみたくなってしまうものなのですよ、賢者。もう五、六年すれば落ち着きます。あなたはもう大人なのですから、恥ずかしがっていないで大目に見て差し上げなさいな」

「ちょっと神官! お年頃とか、そういうのやめてって言ったよね!?」

「ふふ、そうでしたっけ。でもフィルル、人参さん達をあまりいじめてはいけませんよ」

「なあおい、人参さんってもしかして俺と賢者か?」


 起き抜けからにこやかにあっちこっち刺して回った神官は、満足げに息をついて「さあ、朝ごはんにしましょう。魔法使いも、賢者に野苺の残りを少しもらってデザートになさいな」と微笑んだ。


「……神官、そなた」

「何ですか?」

「……いや」


 疲れた顔をした賢者がかき混ぜているシチューには芋と野菜しか入っていないので、追加で冬の間に勇者が作り貯めた干し肉を薄く削いで炙った。吟遊詩人が興味津々で近寄ってきたので、つまみ食いに一切れ渡してやる。


「うわ、これ……美味しい。ほんとにあの変なウサギの肉?」

「角のあるウサギは熟成させるとかなり柔らかくなるからな。干しとくと味がこう、凝縮されるというか、俺もこれ──」

 好きなんだよ、と言いかけてふっと顔を上げた。

「今、何か聞こえなかったか?」

「竜の泣き声だね」

 魔法使いがさっと立ち上がって走り出そうとしたのを、賢者がマントを掴んで引き止めた。静かに「待ちなさい」と言われてみるみる大人しくなると、「……うん」と囁いて頰を染めながら膝を抱えて座り込む。


き声じゃなくてき声なのか?」

「うん……かわいそうだから、行ってあげないと」

「おい、吟遊詩人」

「ワイバーンっていうんだっけ? 前脚がなくて翼の爪がしっかりしてるやつ……ああ、ガズゥと同じ形のもうちょっと大きい竜が、なんか……元気のない木を見上げて吼えてる感じだね」


 気温の割に木の魔力がかなり薄いと吟遊詩人が言った瞬間、今度こそ賢者の制止を振り切った魔法使いが森の奥に向かって駆け出した。慌ててレタに飛び乗って追いかけると、段々と竜の嘆く声──ガズゥが悪戯しておやつ抜きにされたときの声に少し似ているが、それよりずっと悲しそうな、胸の痛くなるような咆哮が聞こえてきた。姿が見えないギリギリ手前くらいで馬を降り、徒歩でそっと近づく。


「あっ、おい……」

「泣かないで、竜」

「……ぐぅ」


 何のためらいもなく魔法使いは初めて見る淡い黄色をした野生のワイバーンに駆け寄って、人間であればボロボロと涙を流していそうな悲しげな瞳を覗き込むと頭を撫でた。勇者はよく躾けられた騎竜とは違う野生の獣を警戒して身構えたが、竜の方もなぜか大人しくエルフを受け入れ、悲しそうに小さな声で返事を返している。


 体が大きく角が短いので雌だ。気性は穏やかそうで殺気を隠している様子もなかったので、ふうと安堵のため息をつくと離れたところからそっと見守ることにした。おそらくあの竜が簡単に魔法使いを受け入れたのは、彼がエルフだからだ。勇者の方には警戒には満たないものの、少し緊張した感じで気配を探るように意識が向けられている。今は不用意に近づかない方が良いだろう。


「冬眠から目覚めたら、君の大切な木が弱ってしまっていたのだね。大丈夫だよ、僕がこの子に妖精の祝福をあげようね」

 花の妖精は竜の頭を撫でながら優しい声でそう言うと、ふわっと立ち上がって竜が尻尾を巻きつけている細い木に歩み寄り、その幹に優しく口づけを落とした。するとみるみるうちに、勇者から見てもかなり弱っていた木に新芽が芽吹き、樹皮に艶が出て、あたたかい魔力の気配が漂い始める。いとも簡単に一本の木が息を吹き返す様子を見て、勇者だけでなく黄色い竜もぶわっと興奮したように翼を半分広げて反応している。


「君が種から大切に育てた木なのだね。君や君の子孫に大切にされている限り、もうこの檸檬は枯れたりしない。ずっと可愛い花を咲かせて、君の鱗のように美しい実をつけてくれるよ」

「ぐぅ」

 竜は嬉しそうに鳴いて、どことなく艶々と色鮮やかになった木の幹にそっと宝石のような額をくっつけた。妖精の言葉の意味がわかって喜んだというより、単純に木が元気になって嬉しいようだ。


 特別人懐っこい個体なのか、勇者がそっと近づいても檸檬の竜は特に威嚇してこなかった。むしろ興味深げに首を伸ばし、もっと近くに来いという顔をする。野生動物ではあるが、明らかにこの森の生態系の頂点に君臨している竜だからか、随分と警戒心が薄いらしい。


 そしてガズゥよりも鋭さを感じない可愛らしい顔立ちの竜がくんくんと匂いを嗅いで勇者の手のひらをぺろりと舐めた、その時だった。


 何やら激怒しているような竜の咆哮が聞こえ、振り返ると、炎のように真っ赤な色をした巨大なワイバーンが翼を広げて急降下してくるところだった。





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